第一礼拝 メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年8月22日

マルコの福音書連講(43) 「パン種に警戒」

竿代 照夫牧師

新約聖書 マルコの福音書 8章10-21節

該当聖句

Mk 8:15 

そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」

Eph 2:8 

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われた のです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

(マルコの福音書 8章15節、エペソ人への手紙 2章8節)


はじめに

前回は四千人の群衆を奇跡的に養いなさった記事から、主イエス様 の愛とみ力の事実と、それを自分のこととして当てはまることに鈍い弟子達の反応の二 つを学びました。その弟子達への質問が「まだ悟らないの ですか」でした。

今回は方向がまた変わって、パリサイ人達の危険で不適当な教えと 行動が焦点です。

A.「徴(しるし)」を求める不信仰(10−12 節)

1.時と場所 四千人の給食の後、ダルマヌタ(マガダン)で四千人の給食の出来事の 後、ガリラヤ湖東岸がらダルマヌタ地方へと主は旅 をされました。マタイの福音書15章39節には「マガダン地方に行かれた。」と記されて います。 これはどうつながっているのでしょうか。聖書地図によりますと、ダル マヌタとマガダン(別の言い方でマグダラ)は同一の場所を指しており、ガリラヤ湖の 真ん中辺の西岸にあるところです。デカポリス側の東岸から舟で渡ったものと思われま す。

2.パリサイ人達の意地悪な要求:天からの徴を! そこにパリサイ人達がやってきました。マタイはサドカイ人もいっしょ であったと記しています。すきあらば噛みつこうという正にハイエナのような人々です 。 彼らは「イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをた めそうとした」のです。真実に謙って人の話を聴こうとしないで、あら探しをして、あ らが出てきたらやっつけてやろうという魂胆が見え透いています。 「天からのしるし」とは、「イエスさん、おまえが神から遣わされたと いうならば、それに相応しい証拠を見せて貰おうではないか。証拠があれば信じてあげ よう。」という大変傲慢な要求でした。 主イエス様は充分すぎるくらいの「しるし」を既にお見せになったので すが、徴を見たら信じようという冷やかしの人に見せびらかす徴は全く行いませんでし た。「もしそんなことをしたら神がわたしを幾重にも罰しなさいますように」という言 葉が加えられている写本もあるそうです。 パリサイ人達の興味本意の奇跡要求は、後にヘロデ・アンティパスが十 字架の前夜イエスを見て大変喜び、「どうだ、私の前で、奇跡の一つか二つを見せて貰 おうではないか」と要求したのと共通の不見識です。主イエス様はこうした興味本位の アプローチを完全に黙殺されました。

3.イエスの嘆息:かたくなさは何故? そしてイエス様は嘆かれました。これも前に出てきた同じ言葉で、呻く と言う意味です。彼らのかたくなさ、固さに本当に困ったという感情が良く現れていま す。マタイの福音書ではもう少し詳しく、主イエス様の嘆息について描写しています。

マタイ16:2 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなた がたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、

16:3 朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ 模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしる しを見分けることができないのですか。

16:4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナ のしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエスは彼らを残して 去って行かれた。

「今更、しるしなど求める必要はない、私の存在、言葉、奇跡の業その ものが、まごうかたなきメシア性の証ではないか」と言っておられるのです。夕焼け空 の次の日は晴天であるという徴であるという自明の自然現象を示しながら、イエスの存 在と奇跡は、イエスがメシアであることの力強い徴ではないか、と語っておられるので す。徴は与えられないという声明は、「これ以上」のという言葉を補うことによって理 解可能です。 マタイは、「ヨナの外には」という言葉を補足しています。ヨナは魚に 呑まれ、奇跡的に三日後にそこから救出されます。当然これはイエスの十字架と復活の 雛形なのですが、それ以外の見せ物的な徴はいらないと主ははっきりと言明されるので す。

B.噛み合わない「パン」問答(13−15節)

1.パンがない!

イエスはパリサイ人達をはなれて向こう岸、つまりカペナウム方向 へと向かわれました。

その時の話題は「パンを忘れた」ということでした。何は忘れても 弁当だけは忘れない、という人が多いのですが、弟子達はどういうわけか弁当を忘れた のです。四千人の給食から遠くない出来事でしたから、あのパンのかけらが残っていた でしょう。

多すぎて却って関心が薄くなったのか、弟子達の事務分担がきちん と出来ていなくて無責任になったのか、事情は分かりませんが、いずれにせよ、舟の上 でのピクニックランチの楽しみがふいになってしまいました。パンがたった一塊りある に過ぎなかったからです。

2.「パン種」が問題!

パンのことからヒントをえて、主イエス様は、弟子達に「パリサイ 人のパン種とサドカイ人のパン種に注意しなさい」と命じられました。

パン種というのはイースト菌のことです。その酵母を一部分取って おいて次のパンの種として遣ったのが当時の習慣でした。今でもこの習慣は続いていま す。

このパン種は小さなパンの塊(ドウと呼ばれています)をふっくら した舌触りの良いパンに仕立てる中心的役割を果たします。しかし同時に、このパン種 の入ったパンは、小麦粉や大麦粉で出来た煎餅のような固いパンと違って、日持ちがし ません。今のパン屋さんのパンは防腐剤が入っていますから多少持ちは違いますが、昔 は腐りやすかったのです。つまり、パン種は影響力が大きく、しかも、腐敗を助長する 危険な思想の譬えとして使われているのです。

C.イエスの注意(16−21節)

1.「パン」が問題ではない

イエス様は、この意外な話題の展開に驚き、あきれ、失望されまし た。私達の間でも、会話をしていると、その中に出された小さな言葉からの連想で、思 わない方向に話題が発展していくことはあります。自然の会話としては別にどうという ことはないのですが、何かを真剣に論じねばならないときに、話題がとんでもない方向 に進むのは悲しいことです。聞き手が、語り手の言おうとしている話題の大切さを全く 理解していないこと、もっとはっきり言えば他人の気持ちに無神経であることから起き るのです。

2.イエスをどう理解するかが問題

主イエス様は、パンがないことは大きな問題ではないことを、最近 起きた奇跡を通して示されました。

「五千人を養った時のことを思い出してごらん、神の業はすばらし かったでしょう。五つのパンでそれだけの人が養われ、余ったパンくずが12のバスケ ットに一杯になったでしょう。

四千人を養ったときは、七つのパンからみんなが食べて、その余り は七つの背負い籠一杯になったでしょう。そんな大きな神の業を目の当たりにしながら 、パンが幾つか足らないことで大騒ぎをしなければならないのですか。あなた方といっ しょにいる、この私を誰だと思っているのですか。未だ分からないのですか?」という 嘆き、叱責がこめられています。

3.パリサイ人とサドカイ人のパン種

マタイの福音書では、ここにいたって漸く弟子達が、主イエス様の 語られたのは、

マタイ16:12 パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことである ことを悟った。

と記録しています。

1)パリサイ人のパン種=律法主義(とそれが生み出す誇りと偽善 )

パリサイ人のパン種とは、一口で言えば律法主義です。パリサイ派 はユダヤ独立運動の過程で律法の原点に返ろうといういわば真面目なユダヤ原理主義者 達のことでした。その言葉はパラシュ(分かれる)から来ていて、世俗の人間とは違う 清い人間達だと自分を規定することが彼らの主義の根本にありました。人間は神の定め た律法、プラス先祖達の言い伝えを厳格に、真面目に行うことによって神に受け入れら れる、と考えていました。

これは誠に健気な動機から出た考えではありますが、そこに人間の 誇りがあり、頑張りがあり、やれば出来るという自信が入り込み、やれないときには出 来ているふりをするという偽善が入り込む正に危険なパン種でした。

この考え方は、当時の社会の中堅を構成していた律法学者達が推進 したもので、大きな影響力を持っていました。

『恵みを知らないクリスチャン』という本が最近出版されましたが 、クリスチャンの中にも神の恵みに対する信仰によって救いを全うするのではなく、自 分の力によって頑張ろうとすることによって、かえって恵みから遠ざかってしまう傾向 を鋭く衝いています。

その中で「悔い改めた人たちは、十年を経過すると、次の時代のパ リサイ人に簡単になってしまう」という文章がありました。私達は恵によって救われた と自覚していながら、知らず知らずにパリサイ人になってしまう危険性があります。正 に、パリサイ人のパン種は私達の内側にあるのです。注意しなければなりません。

2)サドカイ人のパン種=世俗主義、物質主義

サドカイ人の教えとは、これとは異なって社会の上層階級の人々、 特に祭司の階級が支持していたものです。

名前のサドカイとは祭司の系譜の偉大な祖先であるサドク(ツァド ク)から来たものと言われています。彼らはモーセの五書だけを権威あるものと認め、 それに記されていない復活の教理、天使や霊の存在を認めない、いわば理性派でした。 現実的には、当時の政治勢力と妥協したり、それに取り入って力を奮おうとした権力指 向の強い人々でした。物質主義者でもありました。

ですから、マルコは「ヘロデ」と言い、マタイは「サドカイ」と呼 んでいますが、実質的には同じです。自分の理性と都合によって物事を決めていこうと する、これも人間中心主義には変わりありません。私達も世の楽しみを中心に考えて、 楽しさを人生の中心と考えて生きていくと、サドカイ人のパン種がふえて参ります。注 意が必要です。

3)パン種のないパン=恵みにのみよって生きる信仰者

それでは私達は、弟子達をも含めて、注意するだけでよいのでしょ うか。

そうではないでしょう。主イエス様はこれらに気を付けながら、神 の恵みを中心にすえた信仰生活のあり方を教えようとしておられるように思います。イ エス様は恵みという言葉を使われませんでしたが、恵みを示して下さいました。再び『 恵みを知らないクリスチャン』を引用します。

恵みとは、神の愛が行為に表されたものです。それは神の無償の 赦し、神の受容、神の好意になって表現されます。神がただ私達を愛して下さったとい うことです。私達人間の側に価値があったのではありません。恵みはただで与えられる ものです。価値のないものが受ける好意です。

・・・『あなた方は恵みによって・・・救われた』(エペソ2: 8)と言う約束は、どれだけ悪行を重ねた人にとっても、どれだけ汚れている文人にと っても真実です。また、成熟して輝いている聖徒にとって も、この事実しかありません。恵に取って代わることが出来る物は何もありません。」

おわりに

1.人間的な「パン種」を除き、恵みのみに生き よう

人間に功績を帰するあらゆる考え方、ものの言い方、態度の中に「 パン種」がないでしょうか。示されたらそれを除きましょう。そして、神の恵みの中に 徹頭徹尾生きるものとなりましょう。パウロはコリントのクリスチャンに宛てて、

Tコリント5:6 あなたがたの高慢は、よくないことです。あな たがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らない のですか。

Tコリント5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古い パン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の 小羊キリストが、すでにほふられたからです。

Tコリント5:8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、 悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭 りをしようではありませんか。

とコリント人への手紙第一で勧めています。教会の交わりにおいても、 古いパン種の要素を除きましょう。私達は真実に純粋にイエスの教えに従って生きるも のの塊なのであるからです。

2.恵みの源であるイエスを仰ぎ見よう

その恵みが一人の人の中に凝縮されたイエスを仰ぎ見ましょう。主イエ ス様の許に全ての恵みと力と供給の源があります。中途半端な信仰で、「まだ悟らない のですか」と叱られてしまうことがないように、全面的な信頼を持って主に従いましょ う。

Message by Rev.Isaac T.Saoshiro,senior pastor o f IGM Nakameguro Church

Compiled by K.Otsuka/August22,2004