礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年8月29日

合同礼拝

「栄光の冠を目指して」

竿代 照夫 牧師

ヘブル12章1−13節

中心聖句

1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようでうではありませんか。

2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

(ヘブル12章1-2節)


はじめに 

 今日は夏の終わりの合同礼拝でもありますので、連講から少し離れて、時の話題から入っていきたいと思います。

 日本中をフィーバーに巻き込んだオリンピックは今日終了します。熱中症と不眠症に掛かった方も多かったのではないでしょうか。いずれにせよ、一つの目標に向かって自分を鍛え、したい事もしないで集中していく姿に感動を受けたのは私だけではないと思います。

 新約聖書の時代にも、オリンピックはフィーバーでありました。パウロも例話として競争をしばしばもちいていますが、彼がイメージしているのは、オリンピアではなく、コリントの近くのイストマスという町で開かれていた、オリンピアの次に規模の大きい競技大会のようです。これは2年に一度開かれており、その中でも200メートル競走は花形でした。今日の100メートルの優勝者が「世界一速い男」という名前を貰うのに匹敵するものでした。パウロもそのファンであったようで、ランナーの模様を色々な場所で述べています。

1.パウロが用いた競争のイメージ

1)優勝はただ一人

 第一コリント9:24、26 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。・・・私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。

2)ゴールに向かって前進

 ピリピ3:13、14 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。 ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

3)レースの終わりに冠が

 第二テモテ4:7、8 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。

4)ルールを守れ

 第二テモテ2:5 また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。

2.へブル書の著者もレースを意識

 ヘブル書の記者がパウロの影響を受けた人であったことは、その内容や登場人物 からも明らかですが、彼もオリンピックでの競争を意識して、この12章の始めを記しています。話しが少し脱線するかもしれませんが、ちょっと付け加えたいと思います。クリスチャンになると、ひたすら聖書を読み、祈りをし、証をする生活を送るべきで、ほかの一切の事に興味を持ってはならない、というのは偏りでありましょう。 

 神の与えて下さった肉体を健康に保ち、それを最大限に活かすスポーツは精神の健康の為にも必要です。 それをファンとして楽しむ事にも何の後ろめたさを感じる必要はありません。むしろ、証の為にも素晴しいクリスチャン・スポーツマンが生まれて欲しいと私は願います。


A. 多くの証人に囲まれて

1.立派な完走者

 このヘブルの手紙の文脈では、観客または証人とは「信仰によってその時々の課題を乗り越え、人生のレースを走り終った」旧約時代の人々の事です。その人々が雲のように(一体で)私達を取り囲んでいるのです。ヘブルの記者は古代ギリシャの円形競技場を頭に描いてこの勧めをしています。

 信仰によって安定した生活を捨て、あえて流浪の人生を送ったアブラハム、エジプトの快楽を捨てて神の民と共に苦しむ道を選んだモーセ、信仰の証の故に殉教の死を遂げた預言者達、この人々が「私達は自分に与えられたレースを全うしましたよ。今度は皆さんの番です。しっかり頼みますよ。」といわんばかりにぎっしりと観客席を埋め、大声援を送っています。それはプレッシャーとしてではなく、大きな励ましとして私達を支えます。地上においては少数派であり、迫害に耐えて勝利を得た信仰の勇者達が、観客席に陣取って声援を送っているのです。

2.激励と期待

 旧約の聖徒達はそれなりの報酬を得ましたが、完全な形ではありませんでした。完全な報酬は次の世代に受け継がれています。この文脈では、完全な報酬とはキリストによって完成される救いの事です。従って、厳密に言えば、これは個々のレースではなく、駅伝のようなものです。私達新約時代の聖徒にたすきが引き継がれ、私達がゴールする事によって、救いの歴史が完成するのです。だからこそ彼等は懸命に声援を送っているのです。それに加えて、二千年の教会歴史の中で、信仰のレースを全うした何億と言う聖徒達も固唾を飲んで私達を見守っている事を自覚したいとおもいます。


B. 完走の条件

1.一切の重荷と罪を捨てる

 12:1 いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて

 オリンピックの選手は、身に全く衣服を纏わずにレースに参加しました。身軽になると言えばこれ以上の身軽さはありません。

 この重荷とは、人生の課題から来る思い煩い、大切でない活動などのすべてを含んでいます。それ自体罪ではなくても、場合によっては御心のさまたげとなるということはいくらでもあります。趣味はそれ自体私達の心を広くし、リラックスさせ、友達を増やす機会を与えると言う点で良いものでありましょう。しかし、それが高じて、私達の基本的な信仰生活(み言葉を読む時間とか祈る時間とか)に食い込んでくると、それは私達の足をすくう事になりかねません。

 これらの「重荷」以上に問題なのは、「纏わりつく罪」です。 「まといつく」(euperostatos=良く+周りに+立っている)という言葉は、これは船に牡蠣がらが容易に付いてしまう様子を連想させます。世の価値観は私達の周りに立っていて、私達の内側にに容易に入り込み、私達を滅ぼしてしまう、そうした罪の恐ろしさがこの表現から汲み取れます。出エジプト記10:21に、「さわれるほどのやみ」という表現がありますが、私は「まとわりつく罪」との連想で思い出します。

 ヘブル書のこの文脈では、特に迫害を恐れて福音を捨ててしまうその弱さ、恐れ、不信仰を指しているものと思われます。

 いずれにせよ、思い煩いは祈りによって神に重荷を委ね、大切でない活動はシンプルライフスタイルで切り詰め、まとい着く罪は十字架の血潮によって振払って頂いて、身軽になって進みたいものです。

2.主を見つめる

12:2、3 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

 キリストは、我らの信仰(による救い)を始められた方です(ヘブル2:10)。 キリストは旧約の聖徒達にとっても(彼等の潜在的な信仰の対象となっていたという点で)、信仰の創始者でした。キリストは同時に信仰の完成を保証するお方でもあります。私達の信仰を終まで導き、完成にいたらしめる方です。キリストご自身が忍耐を持ってレースを終えられました。そのキリストは私達の模範であり給います。

 そのお方に目を留め、そのお方から目を離さずに、彼を頼り、彼を愛し、彼の教えに従う、この思いで私達の心が統一された状態を保ちたいものです。雲の様な証人を意識する事は良いことです。しかし、彼等を見つめるのではなく、見つめるのは、彼等の主でもあられたイエス・キリストお一人です。ペテロは波の上を歩いた時、イエス様だけを見つめて歩きました。歩けたのです。しかし彼が、波を見、風を見た時ずぶずぶと沈みかけました。私達が目をとめるお方はイエスさまお一人です。彼を見つめつつ、人生の旅路を走り抜きたいと思います。

3.忍耐をもって走り抜く

 12:1 私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

 忍耐を持ってとはマラソンのような長丁場のレースを耐える忍耐を指していましょう。
多くの困難に取り囲まれていたユダヤ人クリスチャン達が、忍耐と信仰を行使するように勧めています。ユダヤ人にとってクリスチャンとなると言うことは、生活の基盤が脅かされる程の、いわば村八分の扱いを覚悟する事でした。そんな厳しさを経験している人々への最大の励ましは、忍耐の模範となったキリストご自身でした。

 キリストが私達の信仰の創始者また完成者であるという意味は、辱めや肉体的な苦しみを穏やかな心を持って受けとめ、その苦しみを通して救い主となり給うたという所にあります。そのキリストを見つめますと、大きな慰めと励ましを頂きます。更に、私達がぶつかっている困難は、偶然ではなく、神の意地悪でもなく、神の貴い愛の故の鞭であると覚えたいのです。いな鞭で打たれれば打たれる程神の信頼が厚いのだ、と開き直った考えを持ちたいと思います。

4.膝を強くする

 12:12 ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。

 レースの間に膝が弱ってしまう事があります。マラソンをご覧になった方々は、レースの後半になって足が思うように動かなくなってしまうランナーが多かったのにお気付きでしょう。一方、女子マラソンで優勝した野口みずきさんは、徹底的に足の筋肉を鍛えて、後半でも足がもつれないようにしたそうです。

 このヘブル書の著者が言っているのは、精神的に「もう駄目だ」という気持ちに負けてしまって、膝が弱り、振り動かす手が萎えてしまっている状態の事です。忍耐を持ってレースを全う知ったキリストを見上げる事で新しい勇気が湧いてくるのです。


C.勝利の冠

1.優勝者はただ一人

12:15 そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように(しなさい。)

 なるべく多くの人を喜ばせようとする世の中のコンテストでは、準優勝とか努力賞とか残念賞とか優勝者以外にも配慮がなされます。はては参加賞といって、参加した事自体への報酬が与えられます。しかし古代オリンピック等では勝者は一人、後は敗者でした。甲子園を目指す高校球児も優勝旗を目指して戦います。レースとは真剣なものです。

 このヘブル書の記者も、15節で恵みから落ちるものの可能性を語っています。パウロも、第一コリント9:24で、「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。」と語りつつ、27節で「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」と自分自身が失格者となる可能性を示唆しています。これは、逸脱への恐れとか恵みからの逸脱への恐怖で一生懸命走れ、という目的ではなく、レースというものへの真剣さを物語っているのです。

2.優勝者への栄光は大きい

 12:2 イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

 古代オリンピックでは、優勝者に対しては木の葉(しゅろの葉かパセリの葉)であんだ冠が与えられました。その後彼は故郷で英雄的なな歓迎を受け、像が建てられ、詩に歌われ、有名人となり、税金まで免除されることもあったそうです。今日では金のメダルが与えられ、その上報賞金や年金が付くといわれていますが、それに近い待遇を受けました。しかし、それとても、朽ち行く栄光でした

 それならば朽ちない栄光の冠を約束されているクリスチャンがスポーツマン以下の懸命さで良いとは思えません。優勝する為にはあらゆる点で節制します。ランナー達は10ヵ月も前からレースに備えて自分を鍛練し、食事を制限し、生活を正してレースに臨んだといわれます。クリスチャンがその時間の使い方、食事、睡眠、学び、祈り、健康維持、趣味における節度などの面で節制を怠ったならば失格者となるでしょう。与えられた光に従わないならば、捨てられる者となるかも知れません。


終わりに

1.私達がみんなが栄光への走者

 私達がみな天国へ向かうオリンピックの選手であると自覚しましょう。

2.棄てなければならないものを捨てよう

 優勝する為に、棄てなければならないものを示されたら、勇気を持って捨てましょう。

3.欠けている部分をみたして頂こう

 同じ目的のために、欠けている部分を示されましたら、愛なる全能の主に憐れみを求め、満たして頂きましょう。祈りが欠けていますか。祈りの霊を求めましょう。愛に欠けていますか。キリストの持っておられたような愛を求めましょう。知恵に欠けていますか。天からの知恵を求めましょう。

 ご一緒に、お祈り致しましょう。 


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2004.8.29