プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年9月5日

出エジプト記・十戒から−−−神は清いお方

竿代 照夫牧師

旧約聖書 出エジプト記 20章7節

該当聖句

Exodus 20:7 

20:7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに 唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

(出エジプト記 20章7節)


1.神は清いお方−−−十戒の三番目

十戒の最初にあたる「あなたには 、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」は神の唯一性を示 しています。二番目の「あなたは、自分のために、偶 像を造ってはならない。」は、神の霊的な性質(目に見えないお方)を示 しています。きょうお話しする「あなたは、あなたの 神、主の御名をみだりに唱えてはならない。」は、神の清さを強調してい ます。

2.神のお名前

聖書に啓示されている神は、お名前をお持ちです。ある時モーセと いう指導者が、「神様あなたのお名前を聞かせて下さい。」と要望したときに、「私は 有りて有るもの」であるという答えが与えられました。ヘブル語ではヤハウェと言いま す。存在の源である神という深い意味を持った言 葉です。

3.名前を「みだりに」唱えるとは

名前というものは、その背後にある人格を体現しています。ですか ら、その名前を軽々しく唱えたり、馬鹿にしたような言い方をするということは、その 背後の人格そのものを深く傷つけることになります。

例えば、私の名前は竿代照夫(さおしろてるお)ですが、日本の習 慣では「さん」とか「先生」とか「氏」とかを付けないで呼び捨てることは、大変その 人格を傷つけることになります。

アフリカで一番自己調節が必要だったのはこの点でした。小さな子 供が私の後についてきて「サオシロ!」なんて平気で呼び捨てにするのですから。これ はアフリカの習慣なのだからと頭で分かってはいても、何度も呼ばれるとむっときます 。

4.神のお名前を「みだりに」唱えるとは

どうでもいいような私の名前が呼び捨てにされる以上に、清さの塊 のような神、栄光に包まれ、全ての被造物から尊敬と賛美を受けるのに相応しいお方の 名前が、「みだりに」、つまり意味なく、いたずらに呼ばれたのなら、神はどんなに大 きな傷を受けなさることでしょう。

それ以上に、呪いを込めて、自分の癇癪(かんしゃく)を爆発させ る道具として神の名前を唱えたら、どんなに大きな傷を受けなさることでしょうか。あ るいは自分の不誠実さをカバーするための隠れ蓑として、「神の名によって私は正しい 」などと使われたら、神の清さはどんなに傷つくことでしょうか。

今度のオリンピックで金メダルを取った柴田亜衣(=しばた あい ・アテネ五輪800m自由形金メダリスト)さんのコーチの田中(=孝夫・たなかたかお) さんが、「神様の立場に立って物事を考えなさい」と柴田さんに言ったそうです。名言 だと思います。私達が何気なく語っている神に関する言葉を、神の立場に立って考えた いものです。

20:3 あなたには、私の他に、他の神々があってはならない。

神は唯一。人間が真の神以外のものを神として信じ、敬い、礼拝し てはならない。という戒めです。

5.神の名をみだりに唱えるものへの刑罰

そのような呼ばれ方をして、黙っておられる神ではありません。「罰せずにはおかない。」のです。喜んで罰する訳ではありません。心ならずも放っては おけない、正義の実行をせざるを得ない、という気持ちがここに表れています。

モーセという人が生きていた時代に、シェロミテという女性の息子 が神の御名を冒涜してのろったので、人々はこの者をモーセのところに連れて来た、と いうことがありました。

この息子に対する処置について神の導きを求めた結果、彼を石打に することになり、彼の冒涜的な発言を聞いた者達が彼の頭の上に手を置き、全会衆はそ の者に石を投げて殺した、という恐ろしい記事がレビ記24章にあります。

レビ記24:10 さて、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父 とする者が、イスラエル人のうちに出たが、このイスラエルの女の息子と、あるイスラ エル人とが宿営の中で争った。

24:11 そのとき、イスラエルの女の息子が、御名を冒涜しての ろったので、人々はこの者をモーセのところに連れて来た。その母の名はシェロミテで 、ダンの部族のディプリの娘であった。

24:12 人々は主の命令をまって彼らにはっきりと示すため、こ の者を監禁しておいた。

24:13 そこで、主はモーセに告げて仰せられた。

24:14 「あっ、のろった者を宿営の外に連れ出し、それを聞い た者はすべてその者を頭の上に手を置き、全会衆はその者に石を投げて殺せ。

24:15 あなたはイスラエル人に告げて言え。

自分の神をのろう者はだれでも、その罪の罰を受ける。

24:16 主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。 在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。

ちょっと現代の感覚では厳しすぎるようにも思われますが、神の聖 名を清く保つべきという戒めの大切さを教えるエピソードです。

6.現代の私達への語りかけ

私達が今欠けている思想は、神への畏れです。それも恐ろしさへの 恐れではなく、神の清さ、尊さへの畏敬の念です。

私の両親は、心から神を畏れる人間でした。だからといって私が厳 しくこれをするな、あれをしなさい、というスパルタ教育を受けたのではありません。

でも、ふざけた態度でお祈りしたり、祈りの最中にくすくす笑った り、聖書を放り投げたりといったような神の名を汚すような態度は厳しく叱られました 。そしてそれは私の今のあり方、生き方に大きく影響を与えました。感謝をしています 。

7.神を畏れる生活

人間は誰でも、神を畏れ、恭しく神に従って生きているわけではあ りません。心の中で神を呪ったり、否定したり、文句を言ったりという経験は、誰にも あることでしょう。

私達が一番最初に悔い改めねばならないことは、「神様、私はあなたを無視し、敬わず、ある時は呪ったことさえありま した、本当に申し訳ありませんでした」という神への悔い改めではないで しょうか。

そして、悔い改めたものに相応し く、神を畏れつつ生きることではないでしょうか。『伝道者の書』の中に 、人生の様々な経験をしたけれども満足が得られなかった著者が、最後的な結論を披露 しているところがあります。

伝道者の書12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされている ことだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

神を畏れ、神を愛するという基本的な心の態度が私 達の生活の中心にどんと座っていますと、その生き方は大きくぶれることがありません 。それどころか、詩篇には、

詩篇128:1 幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は 。

と神を畏れるもののすばらしい祝福が約束されています。神を畏れ る人間、神を畏れる家庭、神を畏れる社会を造りだそうではありませんか。お祈り致し ます。


Message by Rev.Isaac T.Saoshiro,senior pastor o f IGM Nakameguro Church

Compiled by K.Otsuka/September 5,2004