プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第二版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年9月19日

出エジプト記・十戒から−−−「安息日の大切さ」

竿代 皓子牧師

旧約聖書 出エジプト記 20章9-11節

該当聖句

Exodus 20:9-11  

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければ ならない。

しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あな たはどんな仕事もしてはならない。――― 

それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの 中にいる全てのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝 福し、これを聖なるものと宣言された。

(出エジプト記 20章9-11節)


1.はじめに

安息という言葉の響きに人は強い憧れを持っています。深い安らぎ と安心と憩いが一体となっている言葉ではないでしょうか。私達の日常は安息から程遠 い時間の連続を過ごしているのではないでしょうか。人を創造された神は、人間の必要 を良くご存知です。この十戒と言う大切な神からの掟の中に、安息日という特別な日を 定められたのは、深い神のご目的がある事は間違いありません。

もう一つ、「安息日」と「聖とする」という事の関係も興味深いも のがあります。これは何を意味するものでしょうか。

今日は、これらのことを出エジプト記から学んでみたいと思います 。

2.安息日の起源と意味

まず、安息日について、『新聖書辞典』から引用します。

ヘブル語では「サバス」と言い、動詞のシャッバース、「やめる 」、「休む」から来ている。週の7日目のこと。休息と礼拝の日として守るように定め られた日である。安息日は金曜日の日没から始まって土曜日の日没で終わる。

安息日に関する戒めは十の言葉の第四番目に位置し、対神関係の 戒め(第1戒―第3戒)と対人関係の戒め(第5戒―第10戒)とをつなぐ鎖として重 要な役目を果たしている。それは、安息日の戒めには、イスラエルの出エジプトの恵み の経験が特に付記されていることからも推察される(申命記5:15)。神は安息日を 祝福のしるしとしてイスラエルに与え、ご自分が彼らを聖別する主であることを知らせ ようとされたのである(出エジプト31:13)。

新約時代の安息日遵守については、イエスの安息日に対する態度 に見ることが出来る。(行き過ぎたパリサイ人たちの律法主義に対して)イエスはこの 戒めの基本的な目的を示すことによって安息日の真の意味を明白にしたのである。「安 息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日の為に設けられたのではではあり ません。人の子(イエス)は安息日にも主です。」(マルコの福音書2:27−28)

使徒たちは、キリストの復活の日を「主の日」と定め、神を礼拝 した。それはまた、「週の初めの日」とも言われた(コリント人への手紙第一16:2 )。(かぎ括弧内は引用者による付加)

このような訳で、新約は主の復活を中心にして、今日は安息日を週 の初めの日、日曜日を安息日と考えるようになりましたので、安息日という言葉よりも 今日的には日曜礼拝といったほうが理解しやすいと思います。それで、日曜礼拝という 言葉も安息日の同意語としてお話を進めてまいります。

3.安息日(日曜礼拝)の重要性

1)安息日を守ることは神が命じられた祝福の伴った 大切な命令であるから

生きていくための仕事を休み、それらから一切解き放たれて安息す ることの大切さを、人を創造された神はご存知です。現代の「過労死」と言う言葉ほど 痛ましいものはありません。これは利益追求のみを第一とした人間の貪欲から来ている ことは明らかです。神は人が心身ともに休養が必要であることをご自分の模範を持って この第4戒(上記該当聖句−出エジプト記20章9−11節)で教えておられます。

対神関係の戒めと対人関係の戒めをつなぐ鎖のような位置にあるこ の第4の戒めの意味は、エジプトで奴隷として400年間も束縛の中にあったイスラエ ル民族がモーセを指導者として解放された時に与えられたものであります。

出エジプトというイスラエル民族にとって奴隷から自由人になった という破格な神の恵みの業は、今日ではイエス・キリストによる十字架の死によって、 自己中心という罪の奴隷から解放されて、神の子として自由人となることを意味してお ります。

ですからこの第4戒は、「あなた 方はこんなに素晴らしい神の愛と恵みを受けたのですから、神を礼拝する安息日を守り なさい」と言っておいでなのです。安息日は神とその恵みを受けた人々と の、礼拝という形式を持って出会う大切な日となるわけです。拝は魂に安息を頂く日な のですから、神の贖いの恵みを知ったクリスチャンにとっては、欠くことのできない大 切な戒めです。

卑近な例で恐縮ですが、愛する人と会い、交わることのなんと楽し いことでしょうか。安息日は神とのデートの日 であるのです。

もし、この神とお会いし、交わると言う礼拝の意味 を正しく理解しないで、礼拝を疎ましく思ったり、神からの語りかけよりも自らのやり たい奉仕のために日曜礼拝に出かけていくとしたら、神は悲しまずにはおられないはず です。

特にクリスチャン生活が長くなると、無意識のうち に神に聞くよりも、自分のなすべきことに心の重心が移っていく傾向があるのを警戒し たいと思います。魂の安息を得ることもなく、疲れて帰ってくるとしたらそれはどこか 間違っているサインではないでしょうか。

胸に手を当てて、日曜礼拝に自分は何のために行くのかもう一度確 認させていただきましょう。三森加寿子先生(イムマヌエル綜合伝道団ボリビア宣教師 )の本の一節からです。

「今の時代、もっとも危険な異端は、神が私たちの ために何をなさるかではなく、私たちが神のために何をなすべきかとクリスチャンが強 調するところにあります。」(「知られざる−−クリスチャン」よりの引用)

私達は心を留め、反芻したいものです。

2)安息日は神が「聖」なるものと宣言された日であ るから

日曜礼拝は神との交わりによる安息を得る祝福が伴 った特別な日であります。

他の仕事をする日々と安息日とを区別することを「聖」とするとい うことです。神のためだけに使われる器を聖別された器と言います。ですから安息日(日曜日)は神のためにだけに用いられる日となるわけです。

旧約の時代も、中世も、ピューリタンの人々の時代は一切何にもし てはいけなかったのです。礼拝に行き、後は家にじっとしていたと書かれてあります。 ユダヤ教の律法的な人々は現代の私たちにはまったく馬鹿馬鹿しい規律に縛られていた のです。

ローラ・アルマンゾ・インガルスの「大草原の小さな家」だったで しょうか、確かその様な小さな女の子の退屈さを嘆いていた一節があったように思いま す。それでもう一歩踏み込んで考えると、その様な表面的な聖別だけを意味するのでは なく、礼拝を守ることの中に「聖」とする意味を見出 すべきと考えられます。日曜礼拝出席を心がけることは勿論ですが、安息 日の本来的な目的である神を礼拝することと平行して、私たちの隣人との交わりにおい ての安息を得ることをも含んでいるのではないでしょうか。もし、隣人を憎んだままで礼拝に出るとしたら、神を、また礼拝を汚すことにな るからです。

マタイの福音書5章23,24節を読みます。

マタイ5:23 もし、兄弟に恨まれていることをそこで思い出した なら、

5:24 供え物をそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行っ て、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさ い。

とあります。また、ヨハネの手紙第一 4章20節には、

Tヨハネ4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、 その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛するこ とはできません。

とあります。

4.おわりに

「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」とは、主によって罪 から救われた兄弟姉妹が心から愛し合い、心を一つにして、神を礼拝することと言えま しょう。それは神に対する愛の告白であり、兄弟姉妹に対する愛の告白でもあるのです 。

愛のあるところに私たちは安息を見出します。この様に「聖とせよ 」との意味するところは、大変大きな意味を持っていることがお分かり頂けたでしょう か。神に対する恭しさと兄弟姉妹に対する愛とをもって、安息日を聖なるものとして守 らせて頂きたいものです。


Message by Rev.Hiroko Saoshiro, pastor of IGM N akameguro Church

Compiled and edited by K.Otsuka/September 19,2 004