礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年9月26日

マルコの福音書連講(45)

「弟子となるための代価」

竿代 照夫 牧師

マルコ8章31-9章1節

中心聖句

34 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

(マルコ8章34節)


はじめに

1.ペテロの偉大な信仰告白

 前回は、「イエスとは誰か」という重大な質問に焦点をあてました。ペテロは「あなたは活ける神の子キリストです。」という最高の信仰告白をしました。野球に譬えると、場外ホームランのような大ヒットでした。

2.十字架と死、復活の予告

 その直ぐ後で、イエス様はご自分の十字架と死、復活について、公式には初めて予告をされました。

3.ペテロの人間的配慮ゆえの失敗

 ところがそのペテロが大エラーをしでかしてしまったのです。「イエス様、そんな悲しいことを言わないで下さい。私は愛するイエス様が十字架につけられるなんて嫌です。惨めすぎます。止めて下さい。」と先輩面をして諫め始めました。イエス様は、ペテロの背後にあったサタンの意図を見抜きました。苦しみ無しで栄光を勝ち取る道を教えるのはサタンの常套手段です。ですからイエスは、「サタンよ、退け。あなたは神の思いではなく、同情的な動機であるかも知れないが人間的な思いで、事を判断している!」と厳しく叱りなさいました。

4.弟子たるものが払うべき代価

 今日学ぼうとしている、弟子たるものが払うべき代価についての教えは、そのペテロの間違った考えを正すという流れで語られたと言うことを背景的にしっかり見て置いて頂きたいのです。


A.弟子たるの道(34節)

34 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、・・・」と仰りながら、12弟子の周りにいた群衆(とは言ってもイエスに同調する人々)に向かって語られました。イエスは、彼らが自分に従うことは、あくまでも自発的行為であり、誰からも強制されるべきものではないと言うことをはっきりとされます。そのような願いを持つならば、次の事は覚悟しなさいよ、と釘を差すように語られます。次の事とは以下の三つです。

1.自分を捨てる

1)自分が自分であることを放棄するのではありません。それは有り得ないことです。当然の事ながら、自分の命を絶つことでもありません。

2)主イエスが語っておられることが、理解の鍵です。主は私達の為にご自分の神である立場と特権とを放棄して、人間の姿を取り、しかも僕のように仕えるものとなって下さいました。

3)丁度それと同じように、私達も自分の権利、名誉、計画、プライドを神の国の為に喜んで捨てる用意を言い表すことを意味しています。今の仕事も、財産も、立場も皆一遍に捨てよというのではありません。それら全てはご入り用とあれば皆放棄します、それ程私はあなたに傾倒しています、と告白するのが大切です。請求書は人生のあらゆる場面で私に回ってきます。その度に、そうです、それも私の献身に含まれていましたと静かに捧げ続けるのが献身の生涯です。

4)捨てる(アパルネーサストー<アパルネオマイ)、と言う動詞がアオリスト(一回で完全な所作)であることも、この考え方を支持します。完全な自己放棄は一回で完全に行うのです。後はそのフォロアップと思えばよいのです。

2.自分の十字架を取る

1)十字架とは、ローマの軍隊が反逆者、極悪人を死刑にする際、苦しみの時間を最も長くし、痛みの程度を最も厳しいものにし、一番恥ずかしい状態で罪人を苦しめるための道具として発明したものです。生身の人間を釘付けにして、それを垂直に立てるのですから、その痛みたるや筆舌に尽くしがたいものでした。その刑罰は、犯罪を犯すとこうなるぞという見せしめの意味を持っていましたから、出来るだけむごたらしく、苦しく、恥ずかめを与えることに意味があったのです。本来これは人々に戦慄と恐怖を与えるためのものでした。ですから、十字架とは、恥ずかしめと苦しみと痛みと虐げの象徴でした。今でこそ、十字架のアクセサリーがファッションですが、当時はそんなものではありませんでした。まして十字架を誇るなどと言う思想は生まれるはずもない、という雰囲気でした。

2)それは主イエスが担うべき十字架でした。ご自分が荷物を背負わないで、弟子だけに背負いなさいと言っているのではありません。イエスご自身が先ず十字架を背負って、その重さ、痛さ、辛さを嘗め尽くした者、嘗め尽くすべきものとして、私達に十字架を担いなさいと語っておられます。

3)私達にとっての十字架とは、主のための辱め、苦しみ、悩みを自発的に負うということを意味しています。具体的には、イエス様を証しするときに受ける人々の嘲り、正しいことを貫こうとして受ける迫害、他の方の救いのために必要な労苦と犠牲といったものが含まれています。イエス様の十字架が人類の救いの道となったように、私達も誰かの救いのために時間、労苦、誇りを犠牲にしなければならないのです。バックストン宣教師は路傍伝道しても人が集まらないので、缶からに紐を付けて引きずって歩いたといわれています。珍しがって集まってくる人にキリストの福音を伝えました。イギリスに行って、バックストン家の館を見て改めて感心しましたが、ものすごいお金持ちの貴族の出身であるにも関わらず、チンドン屋のまねごとをしても福音を伝えようとしたのです。形は決められませんが、それぞれが自分に合った十字架を選び取り、担うのです。十字架は喜んで担える性質のものではありません。でも主は私達のために自発的にこの十字架を担って下さいました。

4)これは日毎に取るべき十字架です。イエス様がこのルカ9章で弟子たるものに命 
じておられるのは、受動的な十字架ではありません。自分で自分の十字架を探し、選 
び取って担ぎなさい、とおっしゃっておられるのです。ルカ福音書だけが「日々」と 
いう言葉を加えている点にも注目したいと思います。「取る」(アラトー<アイロ 
ー)と言う動詞もアオリスト(一回で完全な動作)ですが、ルカによれば、日々の決 
断としてそれを行うべきなのです。同じ種類の十字架を来る日も来る日もとも考えら 
れますが、日替わりで、この日に担うべき十字架は何かと探すような気持ちで、とも 
取れないでしょうか。朝毎の祈りで、今日もあなたの為に生き、あなたのためにどん 
な十字架を担いましょうかと主に向かって祈りつつ一日をはじめたい
ものです。

3.キリストの後に付いて行く

1)この言葉と、最初の「従う」と言う言葉は何かダブっているようで、一見無意味に思えます。つまり、「私に従ってきたいと思うなら・・・付いてきなさい」では意味をなさないからです。動詞の面での違いはありません。両方とも「従う」(アコルーテオー、follow, go with, accompany)が使われているからです。ただ、それを修飾する言葉が違っています。

2)前者は、「私の後に」と言う言葉が入っていて、生涯的な弟子になりたいのなら、という意味が含まれています。

3)後者は、私にくっついてきなさいと、毎日毎日、主イエスの足跡を辿り、その生き方に従ってきなさいという生き様を語っています。弟子ではありたい、しかし、毎日付いて行くのはしんどいでは、弟子は務まりません。

4)日本の弟子道は、いきなり本業を教えないで、雑巾掛けから、主人の子供の世話から、店の前の掃除から始まって、腰つきが定まってから、やっと本業を教えて貰うという厳しいものでした。それが主の世界にそのまま当てはまるとは思いませんが、大切な一面を持っていることを忘れてはなりません。


B.自分を捨てるものの幸い(35節)

35 「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」

 そんなに厳しいならば、私はやーめた、と言うような反応が群衆の間にはしったのでしょうか、主イエスは、自分を捨てるものの幸いの大きさを強調されます。

1.捨てるものはこれを得る

 本当にこれは厳粛な法則です。楽をしようと考えるものは苦労をし、苦労をしようとする者は楽しい生活をする。先を走ろうと思うものは後になり、後でもいいや、とゆっくりしているものが結局先になる、ということなのですが、何を主イエスは仰りたいのでしょう。

 神は活きておられ、見ておられ、神のための真実な労苦、犠牲に必ず報いなさると言う真理です。この信仰が無ければ、クリスチャン生活は敗北に終わってしまうことでしょう。主が十字架の後に復活という大きな栄光を得られたように、私達も十字架を担うときにのみ与えられる主の報いと栄光を持つのです。No cross, no crown という諺があります。十字架なくして栄冠なしです。その栄光の冠を主と共に受けるのです。

2.得ようとするものは失う

 逆に、十字架を避けるクリスチャン生活は、勝利を欠いたものです。形はクリスチャンかもしれませんが、ケーキのクリームだけ嘗めるようなもので、本当のクリスチャン生活とは言えません。誰よりもイエス様が、「私に相応しくない」とおっしゃるのです(マタイ10:38)。

 最近教会の中にも、ミー世代(自分のことしか考えない世代)の影響でしょうか、自己実現こそが信仰の目的である、と言った主張が増えてきました。信仰によって御利益を得ることが目的であるというprosperitygospelは、今の時代には歓迎される教えです。信仰によってビジネスを真っ直ぐにして、物質的な経済的な祝福を受ける一面を私は否定しませんが、それが目的となるとクエスチョンです。

 どんなに地上で儲かっても、最後の日、イエス様に私の嫁さんには相応しくない、といわれたらどうしましょう。何という落胆、何という恥ずかしさではないでしょうか。十字架を避けるクリスチャンとならないように、お互い気を付けたいものです。


C.自分を損なう損失の大きさ(36-38節、9:1)

36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。

37  自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。

38 このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」

1.自分の命の損失>全世界の富

 この部分の詳しい解説は省略します。自分を得ようと思って全世界の富を獲得しても、自分を損失したとするならば、その損失のその大きさは、計り知れないものがある、と言うことなのです。その損失は取り返しが付かないほど大きいし、決定的であることを厳粛に自覚せねばなりません。

2.主イエスに否認される可能性

 もっと言いますと、十字架の道を避けて、この世の傾向に妥協して、ただ楽しく賑やかにと言う路線を生きたならば、この世では楽しいかも知れないが、来るべき世では、イエス様と全く関係のない世界に逐いやられ、そこで永遠の後悔をし続けるであろうという厳しい警戒があることを覚えましょう。

3.神の国到来まで生きている弟子

 来るべき世、との関連で、神の国の到来まで死を見ない弟子の存在を予言されます。再臨の時まで死なないとすれば、その人はもう2000歳になっているはずですが、12弟子は皆死んでしまいました。この神の国の到来とは、再臨の雛形であるエルサレムの陥落(AD70年)と考えられます(他にも7つくらいの説がありますが・・・)。そうすると、ヨハネなどはそれ以後に生きていましたので、理解が出来ます。


終わりに

1.主イエスが私のために、ご自分を捨て、ご自分の十字架を取って、十字架にかかり、罪を贖って下さった恵を感謝しましょう。それが聖餐式で表されます。信仰を持って聖餐式に臨みましょう。

2.その恵に感じて、自分を捨てるものとなりましょう。日々十字架を取って主の足跡に倣うものとなりましょう。私にとっての十字架とは何かを考えましょう。日々と語られていますが、今日の私の十字架が何であるかを求め祈りつつ一日を始めましょう

お祈り致します。 


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2004.9.26