プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第三版 =著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年10月3日

出エジプト記・十戒から−−−「生命の重さ」

竿代 照夫牧師

旧約聖書 出エジプト記 20章13節

該当聖句

Exodus 20:13 

殺してはならない。

(出エジプト記 20章13節)


1.はじめに

先週は十戒のうちの第五戒−父と母とを敬え−という非常に大切な 教えを学びました。終わってから何人かの方が「我が身につまされました」とコメント してい たのが印象的でした。

今日は「殺すなかれ」という、いわば当たり前の教えを学びます。 あたり前ですが、それが当たり前でなくなっている社会の現状をとても悲しく思います 。

2.なぜ殺してはいけないのか?

「生命は尊いから」というのが世間一般の答えです。なぜ貴いのか 、そこまでは誰も教えてくれません。聖書は「神が生 命の与え主だから貴いのだ」と明快な答えを与えてくれます。詩篇139編15 節と16節は、

詩篇139:15 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき 、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。

139:16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべて が、書きしるされました。

と、私達が胎児のときも神の知識の中にあり、それが記録されてい る、と記しています。その前の14節の英訳では、

Psalm 139:14(I praise you because)I am fearfully and wonde rfully made(NIV).=(私は感謝します。あなたは私に、奇(くす)しいことをなさって 恐ろしいほどです。=

と記されています。私達は素晴らしく造られているのです。どのよ うに素晴らしいかというと、

ヤコブの手紙3:9b 神にかたどって造られた

のです。ですから一人一人は

イザヤ書43:4(わたしの目には、)神の目には高価で貴い

のです。

その貴い生命を理由もなく奪ってしまうことは、生命の与え主であ る神に対する大変な冒涜であり、赦しがたい犯罪です。創世記9章6節に、

創世記9:6 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人 を神のかたちにお造りになったから。

と記されています。

3.誰を殺してはいけないのか?

1)ここで意味されているのは、人間のことです。

先ほどの詩篇139篇を参照するまでもなく、これは胎児も含むと私は 考えます。

あらゆる中絶は殺人であるかという設問は難しい課題でありますが 、少なくとも日本の優生保護法は、中絶の基準が甘すぎると言うことは言えます。出産 によって母体が危険に曝されるときだけではなく経済的な困難も含んでしまっているか らです。

日本が中絶の歯止めの利かない国として悪名高いのは、胎児も人間 であり、故なくその生命を奪うことは殺人であるという、当然の理解が欠如しているか らです。何とか改める努力をしなければなりません。

2)殺すなかれ、という戒めの対象には、自分自身も含まれています 。 自殺は価値あるものとして造られた自分自身を自分が抹殺することです から、他殺と同様に犯罪です。もちろん、自殺しなければならないような厳しい状況に 追い込まれることはじゅうぶん分かります。昨年の自殺者が人口3千人に一人の割合で あったという統計がありますように、本当に厳しい時代に私達は生きています。

そうではありますが、全ての望みが 尽き果てるときにも望みの神を見いだして、その神によって苦境を通り抜ける力が与え られることを覚えていただきたいのです。

3)それから、この戒めの第二義的な目的かも知れませんが、生命一 般を意味なく取ることも、神のみ心ではありません。

旧約聖書には、例外的に、人の食用に動物の命を頂くこと、生贄の ために捧げることは許されています。

創世記9:2 野の獣、空の鳥、――地の上を動くすべてのもの― ―それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあ なたがたにゆだねている。

9:3 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。 緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。

しかし、最小限度を超えての殺生はいけません。同じ創世記9章5節 に、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を 要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも 、人のいのちを要求する。

と記されているとおりです。仏教やヒンズー教の一派の人が唱える 絶対的な殺生禁止ではありませんが、動物の生命を軽視して良いはずはありません。

4.殺人禁止には、どんな場合でも例外はないか? ある。

1)旧約聖書に見る限り、適正な裁判による死刑は許されています。 殺人罪に対して−−−

出エジプト記 21:12 人を打って死なせた者は、必ず殺されなけ ればならない。

両親への不敬罪に対して−−−

出エジプト記 21:15 自分の父または母を打つ者は、必ず殺され なければならない。

誘拐罪−−−

出エジプト記 21:16 人をさらった者は、その人を売っていても 、自分の手もとに置いていても、必ず殺されなければならない。

安息日破り−−−

出エジプト記 31:15 六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日 目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず 殺されなければならない。

などと死刑の定めがあります。もちろんこれは旧約の定めであり、 新約のより高い光が与えられている現在、死刑の肯定にそのままつながるとは言えない でしょうが、罪は死に当たるという原則は決して忘れてはならないことでしょう。

2) さらに、旧約聖書に見る限り、聖絶の意味を持った戦争は肯定さ れています。約束の地を浄めるために、異なる神々を拝む人々を聖絶することが命じら れています。

申命記 7:2 あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたが これを打つとき、あ なたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦して はならない。

しかし、聖絶という考えは、新約時代に入って、より高い倫理を与 えられて以来、その必要も意義もなくなりました。

その反面、主イエス様の平和の教えに基づいて絶対非戦論を唱えて 実行しているキリスト者がおられることには敬意を表しますが、あらゆる場合の戦争を 否定して世界の秩序が成り立つか、新約聖書がそこまで明確に非戦を主張しているかに ついて、私は疑問に思います。もちろん、自国防衛を理由に戦争を積極的に肯定するこ とには反対であることは付け加えておきます。

3) 正当な自己防衛については、法律上も認められてます。切迫し た状況でやむをえない自己防衛の結果として、人の命を奪ってしまうという事について 、神は殺人の罪を問いなさるとは思いません。律法では、故意ではない(結果としての 殺人)については、寛容な措置を示しています。

出エジプト記21:12 人を打って死なせた者は、必ず殺されなけ ればならない。

21:13 ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こさ れた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。

5.殺人者への刑罰は?

1)命には命を!という原則が適用さ れます。

出エジプト記21:12 人を打って死なせた者は、必ず殺されなけ ればならない。

2)さらに、永遠の命から退けられ ます。

ヨハネの手紙第一3:15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いう までもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはない のです。

6.思いにおける殺人は?

1)上の聖句にもありますように、

ヨハネの手紙第一3:15a 兄弟を憎む者はみな、

主イエス様は特に、行為における殺人よりも憎しみ、行為における 姦淫よりも情欲といった内面の罪を、行為よりも重視されます。なぜなら、人は外の形を見るが、神は心を見給うからです。殺し は、殆どの場合、憎しみ、嫉妬などの動機で行われるからです。

ヨハネの手紙第一3:12 カインのようであってはいけません。彼 は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行な いは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。

2) その光で心を照らされますならば、誰が裁きの座に立ち得まし ょう。ただ、ひたすら神の赦しと聖めを頂くこと以外にありません。

3) さらに積極的な言い方をするならば、神から頂くアガペーの愛は、これらを克服し、律法を全うする動力 です。

ローマ人への手紙13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼ るな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人を あなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。

13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法 を全うします。

7.おわりに

今日は大変重い課題を学びました。

「殺すな」という短い戒めの中に含まれている神の愛、命の重さ、 人間の罪深さ、それらを考えつつ、神の助けを求めて、この礼拝を閉じたいと思います 。お祈り致します。


Message by Isaac T.Saoshiro,senior pastor of I GM Nakameguro Church

Compiled by K.Otsuka/October 3,2004