礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
2004年10月31日
マルコの福音書連講(49)
「だれが一番偉いか」
竿代 照夫 牧師
マルコ9章30-37節
中心聖句 34 彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。 35 イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」 (マルコ9章34-35節) |
はじめに
前回は、神の御手を動かす祈りを学びました。今回は再び、主イエスに相応しくない弟子の姿が扱われます。
A.再度の受難予告(30−32節)
1.ガリラヤへの帰還(30節)
30 さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。
1)ピリポ・カイザリヤやヘルモン山への旅を終えて
この出来事の前のマルコ伝記事を振り返って見ますと、ガリラヤへの帰還は8章22節のベッサイダで盲人を癒しなさった記事以来です。それ以後、北方のピリポ・カイザリヤへ行き、そこでご自分に対する弟子達の評価を聞き、更にヘルモン山に登って姿変わりを経験され、下山の折に悪霊に憑かれた少年を癒し、という風に重要な出来事を含む遠方への旅を果たされての帰還であります。
2)イエスの最後のガリラヤ滞在
そしてもっと大切なことには、この帰還が、イエスの故郷ガリラヤ地方での最後の滞在となったと言うことです。季節的には秋、丁度今頃でありましょうか。それ以後は南に下り、ユダヤ、ペレヤ地方で伝道し、翌年の春に十字架に向かう、こういった状況であることを頭に入れて、この場所を読んでいただきたいのです。
十字架を半年後に見据えつつ過ごす故郷での最後の短期滞在、人間イエスの感慨はどのようなものであったことでしょう。ガリラヤでの表だった奉仕は終わっている、ここでは静かな時を過ごしたい、人々に知られたら、また、忙しい奉仕の渦に巻き込まれる、そこで、イエスは、「人に知られたくないと思われた」のでしょう。
2.受難の予告(31節)
31 それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。
1)予告は二度目
ガリラヤの通過が人々に知られたくなかった理由として、マルコは、主のお考えがこれから起きる十字架の事で一杯であったとコメントしています。それが、31節後半の「話しておられたからである。」という文章になっています。受難の予告は全体向けには二度目ですが、この辺になると、主イエスは口癖のようにこれを繰り返し話されたと思います。
2)イエスは人々の手に引き渡される
その内容は、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」というものです。無法なもの、悪意を持ったもの、憐れみを持たない人々に、聖なる神の御子が陥り、さんざん痛い目に遭う、こんな絵を想像して下さい。人間は集団となると如何に残酷な行動に出得るか、これはアルカイダの仕打ち、イラクでの捕虜への拷問など最近の事例を見ても明らかです。「引き渡され」と受身で語られたことが意味深長です。誰によって、でしょうか。摂理を支配なさる神によって、と言えましょう。神の能動的なご意志が働いて十字架が実現したのです。
3)彼らは殺す
痛い目に遭わせるだけでなく、最後的には亡き者にする、これが学者パリサイ人達の目論見でありました。でも主イエスはその痛みに満ちた道筋でさえも贖いの観点から前向きに捉えておられました。
4)三日後に甦る
これも何度か話されたのですが、弟子達は文字通りという風には考えられなかったようです。
3.弟子達の無理解(32節)
32 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。
1)意図的な無理解
主イエスが何度も語られたこの十字架と復活の予告を、弟子達は理解出来ませんでした。それは彼らの頭が悪いから理解できなかったのではなくて、薄々は分かっているのだが、理解してしまうのが恐かったのです。ルカ9:45は、弟子達が「このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。」と神が彼らの心を閉じなさったようなニュアンスで書いています。
2)現実逃避的
「イエスに尋ねるのを恐れていた。」のは、私達の愛する先生が苦しみを受けるなんて想像するだけでも恐い、そんなことがあって欲しくない、苦しみと言っても精神的なもの位だろう、そうあって欲しいものだ、という感情が先にあって、理解するのを恐れたのです。同じ文脈でマタイ17:23は「彼らは非常に悲しんだ。」と伝えています。
譬えては申し訳ないのですが、或る病気を持った人が居て、医学書を見るとそれに似た自覚症状がある、でも診察を受けて本当に病気であることが分かったらどうしよう、だから医者には行かないで置こう、という心理を持つ人は多いですね。それと似た心境でしょう。はっきり言えば現実逃避ですね。
私達は如何に屡々現実を逃避して、平安でないのに平安、大丈夫ではないのに大丈夫と自分をごまかしてしまうことが多いのでしょうか。主イエスの態度はいつでも現実直視的です。御顔を真っ直ぐに(十字架の場所である)エルサレムに向けて前進なさいました。私達もこの態度に学びたいと思います。
B.権力追求を叱る
1.弟子達の論争(33節)
33 カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」
1)カペナウムの家に
長い旅を終えて、イエスと弟子達はカペナウムの(多分ペテロの)家に着きました。
2)イエスの質問:何の議論?
草鞋を脱いで一息入れるまもなく、イエスは弟子達に質問されます。「道で何を論じ合っていたのですか。」主イエスが全く聞こえなかった訳はなく、大体耳には入っていたと思いますが、余りにも愚かしい論争が延々としていたことを反省せよ、という意味も、この質問には含まれていました。当時の道は今日の様に幅広いものではありませんでしたから、一列か二列程度で進んでいったことでしょう。また、先生と生徒とは一緒に歩かないと言う不文律がありましたから、イエスが先頭に立ち、二列程度の行列で弟子達が続くと言った感じでした。それでも彼らの議論は主イエスには丸聞こえだったようです。
2.弟子達の沈黙(34節)34 彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。
1)弟子達の沈黙
弟子達は答えられませんでした。余りにも恥ずかしかったからです。しかも、先生は何もかもご存知ということで黙っていたようです。
2)「誰が一番偉いか」
彼らの論争は「誰が一番偉いか」と言うことです。人間が社会を作る時に、どうしても問題になるのは、誰がボスであるか、と言うことです。人間だけではなく、動物の世界でも、偉さの順位が決まらないと落ち着いた社会が保てないようです。猿の社会でも、犬の社会でも、ライオンの社会でも同様です。
全てが平等という社会は理想的ですが、誰かがリーダー格にならないと秩序が保てないと言うのは、「社会」が存在する限りの宿命とも言えましょう。弟子達の間では、どの順序でテーブルに着くかという小さな事でも神経がいらだっていたことでしょう。また、大事なときにペテロ、ヤコブ、ヨハネがイエス様の側近として選ばれたことも他の弟子達から嫉妬の対象となっていたことでしょう。
3)論争の理由
ただ、弟子達の間でこのことがこの時点で議論されたのには理由があります。それは、弟子社会の指導者であるイエスのステータスが大きく変わるかも知れないという雰囲気を感じていたからです。そのイエスは、閣僚名簿を発表する気配を示しておられない、それならば私達の間で序列をはっきり決めてしまおう、と言うことになりました。
4)論争の混乱
話し合いが始まったのは良いのですが、自薦他薦相乱れ、結論よりも混乱、平和よりも憎しみが増幅して、掴みかからんばかりの喧嘩となってしまったわけです。
5)「キリストの心」と遠く離れた弟子達の心
もう一度思い出して頂きたいのですが、北方の旅行の目的は、主イエスが来るべき十字架の為に自らを整え、弟子達の心を整え、一つ心となってこの難局に臨もうというものでした。ああ、それなのに、師の心を弟子が悟らず、であります。「キリストの心」がマルコ伝の基本テーマとしますと、サブテーマは、人間の心が絶望的なまでにキリストの心に程遠いか、というものであります。弟子達だけの問題ではありません。
3.イエスの回答(35節)35 イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」
1)真の指導者像
真に謙るものが、真の指導者である、と言うのがキリストの王国の大原則であります。指導的な立場は、奪い取って得られるものではなく、適性の或るものに神が与えなさるものだという思想がその背後にあります。
詩篇 75:6-7「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。とあるからです。」
2) みなのしんがりとなる
神の国での指導者の適性とは、第一にみなのしんがりとなること、ビリであることを喜んで選び、それに甘んじるものであります。その結果、形に於いて或る組織のトップに立たなくても、ビリのままで良いのであります。それが霊の世界の指導者です。
3)みなに仕えるものとなる
第二に、みなに仕えるものとなることです。みなに奉仕するもの、卑しいと仕事を卑しいと思わないで成し遂げるもの、ありがとうを言われなくてもムッとしないで人にサービスするもの、であります。今、人に仕えているのは、後になってから偉くなって仕えられるためのステップではないのです。仕えるままでよい、仕えることが喜びとなり続けるのがキリストの心です。
4)形だけの謙遜に注意!
気を付けなければならないのは、よーし、私は偉くなるために謙ろうとう野心に基づく謙遜です。法王グレゴリウスは、自分を「すべての僕の中の僕」と呼んだまでは良いのですが、その称号を他の人には絶対渡さなかったそうです。これは全くの倒錯です。形だけの謙遜も気をつけねばなりません。謙った言葉遣いをする、席はいつも下座に取る、お茶は自分でサービスして上げる、でも心の中では、私が一番謙っているのだという、これも倒錯した傲慢があると鼻持ちなりません。
5)キリストと共に自我を十字架につけよ
そうではなくて、キリストが自ら実践し、私達に求めておられるのは、自分が砕かれることによって生まれる自然な謙遜であります。完全な自我の放棄をキリストがなさってこの地上にお出で下さり、十字架にかかられたように、私達もキリストと共に十字架につけられる必要があります。それは付けられたという信仰によって始まり、付けられ続ける頷きを繰り返す信仰によって保たれます。
4.幼子の教訓(36-37節)36 それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。
37 「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
弟子達に話し終えた主イエスは、そこに居合わせた子供を手招きして呼び寄せ、ご自分の手を曲げるように回してだっこされました。イエス様の優しい笑顔が浮かんでくるようですね。その子供をだっこしながら弟子達に話を継続されました。
1)幼子のように自分を低くしよう
この言葉はマルコにはありませんが、マタイはこの文脈で「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(マタイ18:3-4)と付け加えています。子供は偉ぶりません。そのように偉ぶらない態度が神の喜びなのです。
2)幼子をキリストの名の故に受け入れよう
謙遜は、その謙遜の象徴である子供に仕え、子供ををあるがまま受け入れることでもあります。
3)キリストの教え、キリストの権威を受け入れよう
さらに、キリストの教えを遜りをもって受け入れましょう。
終わりに
1.一番でなければ、という気負いを棄てよう
自分が世界で一番偉い等と考えている人は少ないかもしれませんが、このグループでは一番だ、あの仲間では一番だ、この社会では一番だ、このクラスでは一番だ、いや一番にならなければならない、という人間誰でもが持っている権力欲とどう向き合うかをよーく考える時間を持ちましょう。
2.イエスの心を心としよう
生まれつき自分が持っているそう言った権力欲をそのまま延ばしていくのではなくて、イエス様の心は一体なんだろうか、静かに考え、教えられる所から実践していく今週でありたいと思います。お祈り致します。
Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2004.10.31