第一礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年11月14日

献堂一年を記念して−−−「建築 者の捨てた石が礎に」

竿代 照夫牧師

詩篇118篇1-7,14-24節

中心聖句

Psalms 118:22 

家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石にな った。

(詩篇 118編22節)


A.詩篇118篇について

1.マルティン・ルターの愛唱歌:詩篇118篇は私の愛唱詩篇の 一つです。マルティン ・ルターもこれを愛し、「この詩篇は、皇帝や王達、学者達、そして聖徒達までもが 私を捨ててしまった時に、私の傍らに立ってくれた詩篇なのだ。」と語っています。

2.神殿の祝いでの交唱歌:この詩篇は、神殿における大きな祝い 事に際して謳われ る公式な歌でありました。聖歌隊が二つのグループに分かれ、この詩篇を交互に謳い 交わしながら神殿にと行進していったのです。

3.この詩篇の起源はゼルバベルが捕囚後に神殿を再建したBC5 18年頃と言われています。

私個人はネヘミヤによる城壁再建(紀元前444年頃)の感謝式の 方が内容的には相応しいのではと考えていますが、支持する聖書学者はあまりありませ んので強くは主張しません。

ただ、ネヘミヤ記12章27−43節を読みますと、この詩篇の情 景がぴったり来るような感じがしているのです。その時に作られたのではなかったにせ よ、その時に意義深く歌われたと考えてもよいのではと思っています。

ダビデに帰す見方も有力です。契約の箱がエルサレムに運び込まれ る時に作られ、後には仮庵の祝いと過ぎ越しの祝いで歌われたと考えられています。ダ ビデ著作説は、その詩篇のスピリット、格調の高さからの類推ですが、私はあまり納得 していません。

4.この詩篇のテーマは「神の救 い」です。14節を鍵の言葉と捉えることができましょう。このテーマの下 に、次のようなのトピックが扱われています。

1)困難:例として10節にあるように、

詩篇118:10a すべての国々が私を取り囲んだ。

この危機的な状況はネヘミヤがエルサレムの城壁を建てていたとき と共通します。まわりの民がやって来て「狐が登っても崩れるような貧弱な材料と、貧 弱な技術で工事が行われている」と外野でさんざん嘲ったのと似ています。神の業を進 めようとするときには必ずこういった反対にぶつかるものです。

2)祈り:例として、

詩篇118:5a 苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。

があります。ネヘミヤにあてはめますと、彼はどんな困難にぶつかっても、めげずに祈 り続けました。

3)勝利:例として、

118:12 彼らは蜂のように、私を取り囲んだ。しかし、彼らはい ばらの火のように消された。

とあります。神が詩篇の作者と共に立ち、敵を粉砕し彼を助けて下 さり、。通常の人間が捨ててしまうような建築材料を、神はそのお働きの礎となさいま した。これは、ネヘミヤが半焼けになっていた昔の城壁の石を彼らの工事の土台として 再利用した史実とも重ねて考えることができます。弱いものを用いて勝利を与えるのが 神の常道です。それは救いは神から来るという雄弁な証だからです。

4)賛美:例として、

118:19 義の門よ。私のために開け。私はそこから入り、主に感 謝しよう。

とあります。これもネヘミヤが城壁の落成祝いの時にエルサレムの 門から入っていったことを思い出させます。救いを与え給う主、救いそのものであり給 う主を賛美しましょう。

B.神の逆転的勝利

今日は22節のみことばに集中したいと思います。私はこれを「神の逆転的勝利」と捉えています。

柔道では、相手の力を利用して投げ飛ばします。巴投げはその典型 です。この詩篇では、建築者達の拒絶した石が基礎部分の門石となった、という表現で なされています。

1.第一義的な(文字通りの)意味

22節が、この歌の作られた時代に文字通り起きた出来事を反映し ていると考えるのがまず自然です。

1)礎石:もちろん、第一義的には建築そのものを描写していると 思われます。

礎石とは、建築過程で、基礎部分の角に置かれ、それ以上の上部構 造の要となる石のことです。つまり、建物の大切な部分がそれによって支えられ、連結 されるような基本となる石のことです。

この詩篇の作者は、こんなに大事な礎石として、建築者達が使用に 耐えないものとして放棄したような石が使われ、結果として見事な建物になった、神の なさることは素晴らしいと讃えているのです。

私達がケニアで第三の教会建設をしたときに、そこにあった古い建 物を再利用して致しました。まさにこれが拒絶された石を礎石としたというケースです 。

2)建物:それでは、その建物とは何でしょう。

詩篇の作者が見ている建物はゼルバベルの時代に再建された神殿と 考えるのが自然ではないかと考えています。ダビデ時代の建物で顕著なものは聖書記事 にありません。逆にネヘミヤの城壁とも考えられますが、これは纏まった建物ではあり ませんからやや不自然です。神殿再建の歌とすると、礎についてはエズラ記(3章11節 参照)と符合します。捕囚から釈放された第一次帰国団がまず最初に行ったのは神殿の 再建でした。

エズラ3:8 彼らがエルサレムにある神の宮のところに着いた翌 年の第二の月に、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアと、 その他の兄弟たちの祭司とレビ人たち、および捕囚からエルサレムに帰って来たすべて の人々は、主の宮の工事を指揮するために二十歳以上のレビ人を立てて工事を始めた。

3:10 建築師たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王 ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサ フの子らのレビ人たちはシンバルを持って出てきた。

3:11 そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、「主 はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに。」と歌い合った。こうし て、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。

この賛美の内容と、この詩篇118篇のなか−−−

詩篇118:1 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その 恵みはとこしえまで。

および29節、

118:29 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵み はとこしえまで。

とを比べると、不思議な符合を見いだします。

3)困難な状況にも拘わらず見事な完成:もっとも、その叫びの中 には、かつてのソロモ ンの神殿を覚えている人々がいて、前の神殿に比べるとその規模が余りに貧弱であった ため悲しみの叫びとして上げたものまで混じっていたとも記されていますから、外面的 には素晴らしいだけではなかったようです。

そのように困難な状況にあった建築工事が見事に立ち上がった、こ れは神の業だとみんなが認めざるを得ませんでした。

ネヘミヤが城壁を再建したときもそうでした。新しい建築材料を購 入するお金も時間もなかったので、古いものを再利用しました。敵は嘲笑いましたが、 出来映えは立派でした。しかも52日という超スピード完成だったので、

ネヘミヤ6:16 敵がみなこれを聞いたとき、私たちの回りの諸国 民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が、私たちの神によってなされたことを 知ったからである。

と述べています。人間側の要素が余りにも乏しく、結果が立派だっ たので、人々は神の手を感じない訳には行きませんでした。

2.象徴的な意味

もちろん、この歌が狙っているポイントは建物への賛歌ではなく、 ある人物、民族への神の業を賛美しています。

1)イスラエルが世界から捨てられつつ、世界の要としての役割を 果たしているという状況がフィットしていると考える聖書学者もいます。あるいは、

2)ダビデがそうではないかと考える人々もいます。サウル王に妬 まれ、政府軍に追いかけられたが、最終的には民族を統一する役割を果たしました。

3)ゼルバベルがそうである、という見方もできましょう。捕囚後 の困難を乗り越えて神殿再建を果たした大きな人物でしたからです。

3.究極的な成就

この節が究極的にはメシアを指しているということは、新約聖書に おける多くの引用からわかります。彼は人々に捨てられ、十字架に付けられましたが、 甦って、教会のかしら石となられました。主イエス様は異邦人とユダヤ人を一つにされ ました。

1)マタイの福音書(21:33-46)の葡萄園の物語で、イエスは収穫物 を取りに遣わされた 葡萄園の主人の息子が、葡萄園の農夫達に殺されてしまう物語を した後で、この118篇22節を引用されます。

そこでイエス様は、「捨てられた石」とは神に遣わされたメシアで あり、自分の属する民には捨てられるが、捨てられた ことが世界の救い主となる大きな祝福を結果し、メシアを否定し、攻撃するものには審 判が加えられるということを指摘されました。

2)ペテロの手紙第一2章4節では、主イエス様が

Tペテロ2:4b 人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊 い、生ける石です。

と記し、イエス様を信じる人々を

Tペテロ2:5a あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げ られなさい。

とすすめています。続く6節の、

Tペテロ2:6 「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎 石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

という言葉はイザヤ書からの引用です。

イザヤ28:16 見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据え る。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、 あわてることがない。

イザヤ書のこの箇所では、メシア的人物の登場を預言しています。 そして、彼により頼むものにとっては彼は信仰の 対象であり、そうでない人々には「つまずきの石、妨げの岩」である、それは、彼らが みことばに従わないからであると記しています。

3)ペテロは使徒の働き4章10-11節で十字架と復活に触れ、それは きょうの中心聖句-詩篇118編22節-に成就であると述べています。

使徒4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎 の石となった。』というのはこの方のことです。

C.私達の逆転的勝利

1.会堂に関する神のみ業を感謝しよう:私達の人生でも、困難な 人物、困難な環境というものに何度となくぶつかるものですが、神はそれを神の業の前 進に用いなさるのです。

この会堂の物語もそうでした。広尾が30年の借地契約の更新とい う大きな課題を前にしたとき、その困難が私達には前進のきっかけとなりました。経済 不況という大きな困難も私達にとっては追い風となって、この土地の購入のし易さ、建 築のし易さとなって跳ね返ってきました。

2.逆風を前進へのエネルギーに:神は人間の困難さを逆手にとっ てみ業を進めなさいます。

今抱えている困難、逆風、それらに苦しんだり、何故私だけがと落 ち込んでいる人はいませんか。神は逆風を利用して、それを前進へのエネルギーに変え て、勝利を与え給うお方です。感謝を新たにし、将来の勝利を信じつつ前進しましょう 。


Message by Isaac T.Saoshiro,senior pastor of IG M Nakameguro Church

Compiled by K.Otsuka/November 14,2004