プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年11月14日

出エジプト記・十戒から−−−「 偽証するな」

竿代 照夫牧師

旧約聖書 出エジプト記 20章13節

該当聖句

Exodus 20:13 

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならな い。

(出エジプト記 20章16節)


1.今回とりあげるこの戒めの第一の強調点は、裁判などにおける偽 証を禁止していることです。公 式の場所で偽証をして、その相手を不利な立場に立たせることは、相手に対してだけ ではなく、真実そのものであられる神のみ心を痛めることになります。

同時にこれは私的な場所での偽りの言葉の禁止を含みます。例えば 、噂話、ひそ ひそ話、陰口、虚偽の讒言等です。つまり真実でない言葉、態度、商売、等によって 他の人の所有物、名誉、評判を傷つける一切から遠ざかることがこの戒めの精神で す。

2.ここで質問です。嘘はあらゆる場合に禁じられているでしょう か。仏教では嘘も 方便というではありませんか。良い目的ならば、多少の嘘は許されるのでしょうか。 難しい問題です。

聖書の中で嘘をついて人を隠し、賞賛された人がいます。ラハブと いうエリコの女性です。イスラエルから送られたスパイを隠しておいて、追っ手には 嘘をついて遠くに行かせてしまい、スパイを助けるのです。状況によっては良い嘘も あるのでは、という例として挙げられるものです。医者は常に患者に真実を語るべき でしょうか。

お腹が空いているときに、訪問先で「お食事はお済みですか」と問 われ たら、「はい、まだです。」と正直に言うべきなのでしょうか。私達が真実であると いうときに、真実の全てを述べるのではなく、状況によって知恵を用いて「言わない で済むことは言わない」ということは十分可能であり、それは、この戒めの趣旨に反 することとは思えません。

3.偽りに満ちた社会に囲まれてはいますが、少なくとも信仰者同 士の交わりにおい ては無限の真実さを持ちたいものです。

新約聖書では、「心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖 をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきこと」がその勧めの中心 であり、その様にして作られた新しい共同体の一番大切な倫理は「真実さ」であると語 っています。

エペソ人への手紙4:25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、お のおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれ のものだからです。

私達の交わりに偽りが入り込んだら、もう共同体でなくなってしま うのです。それくらい偽りは恐ろしいものです。

4.ここで話がぐっと変わりますが、大変評判になっている「冬の ソナタ」を一部見ました。

きれいな女優さん(チェ・ジウ)とハンサムな男優さん(ペ・ヨン ジュン)が織りなす純愛物語だそうで、私もそんなものかなと思って見ていましたら、 どうも、私の印象は違っていて、ストーリーの中で嘘がやたらに多いのです。嘘で真実 を隠し、それが何かの拍子に顕れると言ったことの繰り返しで、私はあまり続きを見た いと思わなくなりました。

多くのファンの方を敵に回すような発言で申し訳ないのですが、ど うも私の様な率直を好む 人間には向かないお話だなと思いました。

この話は私達の社会の現実を表しているのかもしれませんが、悲し いことです。私達の日常生活の中でも、何度も騙したり、騙されたりの繰り返しで、結 局の所、他人を信用するのは愚かだと悟って用心深く生きるという悲しい性を身につけ てしまっています。これでよいのでしょうか。互いに信用しない家庭が本当に幸福なの でしょうか。

5.小さな嘘が段々エスカレートしていって、自分を滅ぼしてしま った例としてサウ ル王が挙げられます。

戦いに行って敵を全滅しなさいという命令を受けて、戦いに行って 勝利するまではよかったのですが、分捕りものの中で良いものを残しておきます。

預言者サムエルに見とがめられた時、とっさにこれは生贄のために 取って置いた物だ、と嘘をつきます。生贄はいらないのだ、とサムエルが言いますと、 自分ではなく家来がやったのだ、とまた嘘をつきます。サムエルがそれを咎めると、自 分だけれども民に脅されただけだ、と嘘の上塗りをします。

業を煮やしたサムエルが、もうおまえは王様として失格だと宣告し ますと、悪かった、赦してくれ、でも、家来の前で面目だけは保たせてくれ、と往生際 が悪いのです。とうとうサウルは、神に全く捨てられてしまいました。他人事とは思え ないエピソードです。

6.残念ながら、人間の性質は限りなく偽りに満ちています。

エレミヤ書 17:9 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。 だれが、それを知ることができよう。

と記されているとおりです。他の人ではなく、自分の心に偽りの心があ ることを自覚します。 自分を有利に導く嘘、自分を守る嘘、嫌いな人を陥れる嘘、それらが小 さなものであったとしても、ちょろっと嘘が口を衝いて出てしまう悪い傾向性を持った もの、それが人間です。しかも聖書は、それは直らないと諦めています。嘘つきの元祖 はサタンですが、サタンは、

ヨハネの黙示録12:9 全世界を惑わす、あの古い蛇

と聖書に記されています。嘘は諸悪の始まりです。嘘で塗り固められた 社会とは、サタンの影響と認めざるを得ません。嘘がそんなに影響力の強いものである とすると、私達はそこからの脱出を諦めねばならないのでしょうか。

7.でも、ここに一人の人が存在しています。その言葉には偽りが 無く、真実そのものがそのご性質であった方−−イエス・キリストです。

ペテロの手紙第一2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その 口に何の偽りも見いだされませんでした。

コリント人への手紙第二1:19 …神の子キリスト・イエスは、「 しかり」と同時に「否」であるような方ではありません。この方には「しかり」だけが あるのです。

ヨハネの黙示録3:14b アーメンである方、忠実で、真実な証人 、神に造られたものの根源である方

と紹介しています。文字通り彼の生涯は真実そのものでありました。

8.私達には真実のひとかけらも無いのですが、このお方が真実を 私達に分け与えて 下さいます。それは聖霊と共に歩くことがもたらす、聖霊の実としてであります。

ガラテヤ人への手紙5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、 親切、善意、誠実、

5:23 柔和、自制です。

この7番目の誠実ということは真実さ、嘘の混じらないまっすぐさとい うことです。それは、持って生まれた率直さ、正直さということよりも、キリストと一 緒に歩くことから来る、キリストの性質の分与、影響なのです。私達はこの誠実さを求 めたい、そして実行したいものです。 9.私達が死んだ後、誰かが弔辞を読んでくれるという状況を想像しま しょう。私達には何の取り柄がなかったとしても、あの人は真実な人であったと評され る人間でありたいものですね。バプテスマのヨハネという人の説教を聞いた人々が、ヨ ハネの死後、イエス・キリストの説教を聞きました。彼らは、

ヨハネの福音書10:41 ヨハネは何一つしるしを行なわなかった けれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。

と言いました。 私達の生涯が終わった時、人々はどのように私達を評価するでしょうか 。口八丁手八丁の人だったね、とか、こんなことあんなことをやり遂げた立派な人物だ ったね、と評価するでしょう。 しかし、彼は目立たない男だったけれど、言ったことはみな本当だったね、と言われる ような生涯だったらどんなに素晴らしいことでしょうか。お祈り致します。

Message by Isaac T.Saoshiro,senior pastor of IG M Nakameguro Church

Compiled by K.Otsuka/November 14,2004