礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年11月21日

マルコの福音書連講(51)

「結婚の理想」

竿代 照夫 牧師

マルコ10章1-12節

中心聖句

6-8 しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。

(マルコ10章6-8節)


はじめに

 今、アメリカでは二組に一組の割合で離婚がなされています。日本では2000年に五組に一組ですが、その比率は増えつつあります。20代ではその倍、また、熟年離婚も増えています。相対的には離婚率は他の先進国に比べるとまだ少ないのですが、家庭内離婚は28%に及ぶという統計もあるほどです。それがもたらす子供達への影響も計り知れないものがあります。

 主イエスは、こうした社会問題、家庭問題にどう答えておられるでしょうか。今日はその事の扱われたマルコ10章から学びます。


A.離婚に関する質問(1-4節)

1.ユダヤ・ペレヤ伝道(1節)

1 イエスは、そこを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれた。すると、群衆がまたみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。

 前回は主イエスが最後のガリラヤ滞在をなさった時のお話から、公同的精神について学びました。それからずっと南へ下り、ユダヤ地方とその東の地方(ペレア地方とも呼ばれています)で十字架に至る数ヶ月を過ごされます。この問答はその時のものです。

2.パリサイ人の質問(2節)

2 すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。

 そこへパリサイ人達がやって来ます。真にハイエナのような人々で、主イエスの行く所々にくっついてきて、隙あらばやっつけてやろうという魂胆が見え見えです。

1)質問の内容

 「何か理由があれば離婚は許されているか」という質問ですが、これも純粋にイエスの立場を謙って伺いたいというものではなくて、イエスを試そうとした真に嫌な動機からの質問です。

2)質問の背景:ヒルレル学派とシャンマイ学派の対立

 当時のユダヤ教には二つの大きな学派がありました。その一つのヒルレル学派は、小さな過ちでも離婚理由にして良いという立場で、一方のシャンマイ学派は、不倫以外は離婚理由にしてはいけないという立場でした。パリサイ人の質問にはこの学派同士の対立が背景として存在していました。

 もし主イエスが、何でも理由があれば離婚は構わないといえば、ああこの人はリベラルだ、というレッテルを貼れます。先ほど申し上げましたように、ヒルレル学派は妻の側での小さな過ちでも離婚の理由に用いるという立場でした。小さな過ちの中には、料理を焦がしてしまったとか、大通りで喧嘩するとかが含まれていたそうです。さらに、妻よりも美しい女性がいたことでも離婚の理由になり得たのです。 

 さて、主イエスがこれに味方したとなると、イエスご自身がかつて語られた「だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。」(マタイ5:32)という教えとの矛盾を衝くこともできます。

 他方、主イエスが離婚はまかりならぬと言えば、なんと頭の固い頑固者だというレッテルを貼れます。実際シャンマイ学派は人々の人気が少なく、これに味方するとなると、イエスの任期に傷を付けることもできたのです。つまり、どっちに転んでも、イエスをやっつける隙が出来るのです。世の中にこういう悪しき動機に満ちた人がいますね。

3.主イエスの対応:モーセに戻る(3節)

3 イエスは答えて言われた。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」

 主イエスは彼らの悪しき動機を見抜きつつも、問題が問題であっただけに、真っ正面からこれに取り組まれます。先ずパリサイ人達が絶対的な権威をそこに置いているモーセの言葉を取り上げます。賢いですね。モーセは何と言っているか、そこを共通の土俵となさった訳です。答えは予め分かっているのですが、敢えてお尋ねになりました。

4.パリサイ人の答え(4節):申命記24:1

4 彼らは言った。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」

 これは申命記24:1の引用ですが、正確な引用ではありません。離婚状さえ書けば、離婚は堂々行えるよ、というニュアンスをわざと出しています。元々はそうではありません。読んでみましょう。

申命記24:1 人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。2 女がその家を出て、行って、ほかの人の妻となったなら、3 次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、4 彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。

とありまして、かなり強い条件付きであり、慎重なものであるべきでした。しかも、これは離婚を奨励するためのものではなく、離婚された妻を保護するためのものでした。1節の強調は「家から去らせなければならない」ではなくて、「離婚状を書いて」にあるのです。彼女が文書も持たず、夫の一時の感情で逐い出されないため、仮に離婚が成立したときも、その後の生活(再婚も含め)の保証を得るためのものであります。


B.結婚の理想から考え直す(5-9節)

1.モーセの許容の理由(5節):消極的許容

5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。

 主イエスは、この離婚許可というおきてが定められたのは、決して離婚を推奨したり、堂々と認めたりする事から出たのではなく、人間の心が頑なであり、自己中心であるために、神が大いに譲って、そのようなときには正式な離婚状を必要とするよ、それも万一已むをえないときに限るよ、と制限付きのしかも消極的許可なのだと強調されます。

2.結婚のついての神のご意図(6-8節)

6 しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。7 それゆえ、人はその父と母を離れて、8 ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。

 主イエスは、結婚がそもそも定められた人祖アダムとエバの物語に立ち返り、結婚の理想に迫りなさいます。

1)男と女の創造

 神は男女両性を意味と目的を持ってお造りになったということが第一点です。男と女は違うものであり、お互いに惹き合うものとして造られている。一つの性で完結するのではない、両者が相協力して良い家庭・社会を造り出すのだという非常に大切な見方です。

2)結婚による一体性

 その違いを持ち、互いに惹き合う者同士が結婚という形で一体となる。その一体性という者は父も母も入り込めないくらいの強い絆なのだ、ということです。創世記の言葉はもう一つここに「妻と結び合い」という語が入っています。強力ボンドでくっつけるというニュアンスです。

創世記 2:24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

 そして二人の者は一体となる、この新改訳聖書では「一心同体」と記しています。心が一つ、身も一つ、なんと強い表現でしょうか。勿論結婚した途端に、二人が同じ思想、同じ趣味、同じものの言い方をするわけではありません。あくまで人格は別々です。別々だが一体、というのは神ご自身の三位一体と類比されます。

 父と子と聖霊と別々なご人格を持ちつつ、一人の神であられるのと同様、妻と夫は別人格でありながら、愛の絆で結ばれて一体となるのです。「聖書カウンセリング」の著者である山口勝政氏が「一心同体」についてこのように述べています、「結婚は全人格的一体を目指すものである。しかし初めから全人格的一体は存在しない。人間はすべて自己中心的だからである。クリスチャンの聖化の過程の中で与えられる。それゆえにこの一体を目指して絶えざる信仰的努力、自我に死に、新しい人によみがえる訓練と努力をするのである。」と。

3)「もはや二人ではない」

 一心同体であるという真理が別の表現となり、「もはや二人ではなく一人である」のです。いかがでしょうか、結婚して何年も経ちながら、未だ二人別々、つまり、心のどこかにすきま風が吹いていて、一人となり切れない、というもどかしさを感じるケースは無いでしょうか。そのすきま風がどこから来るか、どんな性質のものか、それらが二人の努力で克服されつつあるのかが問題です。

 キリスト教大辞典の中で竹中氏は「結婚の生活は、現実世界の葛藤の中にあって、幾多の苦闘や誘惑に囲まれている。経済的な困窮や子供の養育の為の煩い、そして当事者双方の自己主張が常に繰り返されるものである。」積極的に言えば、二人の愛が育まれつつあるか、慣れっこになっていないか、もう一度「もはや二人ではなく一人である」というステートメントの重さを考えたいと思います。

3.離婚は考えられない(9節)

9 こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」

1)離せる筈がない

 この一体関係がしっかりと捉えられる限り、「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」という結論が自ずと出てきます。ボンドでくっつけた板を剥がそうとすると、板そのものが傷つきます。結婚の絆を解くと言うことは、それ以上の痛みを伴うもので、本当から言えば有り得ないのだと主は宣います。他人が剥がしてはがれるものではありません。人為的に離婚をもたらすことは出来ません。

2)離れる筈もない

 「人は」という言葉に含まれるのは、どんな人でしょうか。まず当事者である夫婦に当てられます。本人同士が剥がそうとと思っても離れられる筈はありません。今の時代は、浮気とか、不倫という言葉が罪意識なしに夫婦の間に割り込み、その間を裂こうとしています。でも、この一体というものを本当に経験したものにとっては、離婚とは正に生木を裂く経験なのです。考えられないことなのです。


C.離別された相手との結婚(10-12節)

10 家に戻った弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた。11 そこで、イエスは彼らに言われた。「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。12 妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」

1.離婚・再婚はどうか?

 弟子達の質問は、もっと詳しくこの関係を説明してくれということでした。そこで、主は再婚を目的とする離婚の不道徳性を説かれます。この場合の再婚への警戒は、再婚を見越しての離婚を戒めるという目的が強く表に出ています。「妻を離別して別の女を妻にする」という表現の中に、別な女を妻にしたいから離別をするという男の身勝手さ、また、別な男に嫁ぎたいために今の夫と別れるという女の身勝手さが戒められています。

2.これは絶対的な戒律か?

 問題は、これがやむを得ない理由で離婚した人と再婚することを絶対的に禁止するものと取るべきかどうかです。ある方は、また教会は、これを厳格に捉えて、離婚経験のある男性または女性が、いかなる場合でも再婚不可という風に考え、主張しますが、それは極端でしょう。後に述べる「正当な理由での」離婚の経験者を将来の結婚の対象から外しなさい、とまで主イエスは意図しておられない、と私は考えます。


D.離婚に関する幾つかのコメント

1.結婚の理想から離れた現実の問題

 6-8節が結婚のあるべき姿(理想)を示しているとすれば、5節は結婚の現実を示しているように思います。

1)結婚の理想:アガペーの愛にねざした一体性

 愛に根差した互いの尊敬、いたわり、譲歩、励まし、助けは真の一体性を育てます。その愛とはキリストの愛、己の利を求めない与える愛、己を犠牲にするアガペーの愛です。どの夫婦でも一気にここまでは行かないと思いますが、この方向に進みつつあるカップルは幸いです。夫婦に限らず、愛を基とし、愛に根差した社会、家庭、教会は幸いです。

2)現実:自己中心主義のぶつかり合い?離婚(家庭内離婚)

 しかし、一旦自己中心主義が二人の間にどっかりと腰を据えますと、そこに不信感、わがまま、相手への暴力(言葉や物理的なもの)、蔑みが入り込んできます。これが正しく処理できませんと、抜き差しならぬ関係に入ってしまいます。山口勝政氏が述べているように、双方の自我が砕かれて、聖化の恵が徹底する以外に解決はありません。これは夫婦以外のかんけいにおいても言えることです。

2.離婚はいかなる場合も不可か?

1)配偶者の不倫の場合

 これについては既に申し上げました。その場合でも、直ぐにというのではなく、悔い改めと和解の余地は充分にあります。

2)未信者である配偶者が去る場合

 パウロは、未信者である配偶者が、パートナーを捨てていく場合、(引き止める努力はするけれども)已むを得ないこともあると、この離婚を許容しています。

第一コリント7:15 しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そのようなばあいには、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。

3)その他の場合

 主イエスの教えに従って、基本的には離婚のあり得ない事は、どの教会も認めるところです。カトリック教会は16世紀のトリエント宗教会議以来、離婚を認めない立場を堅持しています。プロテスタント教会一般は、形だけの結婚の維持を強制するよりも、より充実した結婚が実現するよう努力を勧めます。キリスト教大事典の中で、竹中氏は「充分な反省と誠意を持った努力のなされた後に於いてもなお、その結合が神の合わせ給うものでなかったことと信仰において受け取られた時にのみ、例外的な状況として離婚が認められる」と述べています。これはパウロが第一コリント7章で述べた原則の適用として考えられると私は考えています。


終わりに

 今日は結婚と離婚の問題に焦点を合わせてお話ししましたが、そこで語られた主イエスの原則はあらゆる人間関係に当てはまります。神から与えられる愛をもって己の様に隣り人を愛する者となりましょう。お祈り致します。 


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2004.11.21