第一礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年11月28日

「神の冒険」

井川 正一郎牧師

ルカの福音書2章8-20節

中心聖句

Luke 2:10-12 

御使いたちは彼らに言った。「恐れることはあり ません。私はこの民全体にすばらしい喜びを知らせに来たのです。

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い 主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝てお られるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

(ルカの福音書 2章10-12節)


A.はじめに

新約聖書 ルカの福音書2章10節から12節を読みます。

ルカ2:10 御使いたちは彼らに言った。「恐れるこ とはありません。私はこの民全体にすばらしい喜びを知らせに来たのです。

2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、 救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝 ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

待降節=アドヴェントに入ります。アドヴェントとは主の降誕を迎 える心の準備期間です。11月30日前後の最も近い日曜日から始まります。

ラテン語のアドヴェントゥス−「到来」「到着」「来訪」でありま す。また、アドヴェントール−「訪問者」「客」であります。ギリシャではエピファネ イア−「顕現」、英語のアドヴェンチュア−「冒険」はアドヴェントゥスに由来します 。

クリスマスは神の冒険でありま す。冒険とは、成功のたしかでない危険をおかすこと、危険な場所に行くこと、身を寄 せることであり、未知(未開拓)の世界に踏み入ることであります。

今回は、最初にご紹介したルカの福音書2章10節から12節を中心とし つつ、箇条書き的に1つ、2つ、3つのポイントを申し上げてメッセージとします。

B.神が人となられた

まず一つめは、神が人となられたということであります。 具体的には、まず人を救う壮大な計画と実行−すな わち人を救おうとする神の大冒険であります。テトスへの手紙二章に、

テトス2:11 …すべての人を救う神の恵みが現れ、

とあります。計画を立てるのみでなく、それを実行、実現されたところ に意義があるのであります。「現われ」−すなわち、歴史の事実、出来事としてこの世 に示されたのであります。

また、御子なる神が人となられた=受肉された< /font>ということであります。

神が人間の性質を持たれました。真の神であられるが、同時に人間 の罪の解決のために真の人となりました。神が人間の救い主となるために人間の世界に 踏み込まれたのであります。

よく言われるように、蟻の世界の問題を本当に理解してその解決を 図るためには蟻にならねばわからないのであり、神は人間の罪の問題を解決すべく壮大 な計画を立て、実行されるために同じ人間となられたのであります。まさに未知の世界 への大冒険、危険な場所へ踏み込む冒険です。

なぜ、このような敢えての冒険をなされるか、それは人を是が非でも救いたいがためであります。

C.すべての始まり

二つめは、すべてのはじまりである ということであります。

まず未知(未開拓)分野への第一歩、はじめ、 冒険であります。

人間となられたが、それは成人・大人からスタートしたものではな く、胎児、幼子、人としてのはじめからであります。人間として罪以外んすべてを経験 されました。

神が人となられることは全くの未開拓の分野であります。人のスタ ートから終わりまで過ごされる、これもある意味で全くの未開拓分野であります。

聖霊受胎、聖霊の満たしの生涯、十字架、復活、再臨等々、全くの はじめであり、そしてこれはこれで終わり、あとに続くもの無しとの意味ではありませ ん。

主イエス様の経験が後に続くものにあてはまっていく。その意味で 見本,実例、あるいは初穂という意味であり、真の人間とはこう生 きるものであるとの見本、実例であります。テモテへの手紙第一、あるいはコ リント人への手紙にある「初穂」をご覧頂くとおわかりになると思います。

主イエス様はキリストははじめ、先頭に立って見本、実例となりま した。その後に続くものがあるとの意味を込めたはじめでありました。真の人間の生涯 とはいかなるものか、人間の品性、生活の過ごし方等においてであります。

D.自由意思を与える

三つ目は、自由意思を与えると いうことであります。

そもそも、人に自由意思を与えられたこと自体大冒険であり、危険 極まりないことであります。

神は人をロボットとして造られませんでした。人格を持ったものと して自由な意思を与え、善悪を判断し、善を選びとり行動できるような判断能力、決断 能力を与えられました。もちろん、罪によってすべての人はその意思も善悪を判断し、 決断できる能力が壊されました。しかし、恵み豊かな神は、豊かな愛を持っておられる 神は、人を何としても滅びに至らせたくない、救いたいとの願いをもって聖霊なる神の 働きで、神に立ち返ろうとする、信じるとの応答ができるだけのものを先行的恵みをも って臨んで下さっています。

難しいことはともかく、主イエス様を受け入れるか否か、信じるか 信じないかの意思決定を、もとよりあくまでも聖霊の働きではあるが、人は信じるか、 信じないか、自由であり任されているのであります。 あとはどうするか、ということであります。

E.おわりに−−−しめくくり

メッセージがはっきりしてまいりました。今回は2つのことを申し上 げて終わりたいと思います。まず、

冒険、開拓者的に進もう!というこ とであります。もう一つは、

すべて主イエス様が切り開いた道である。それを たどっていく冒険をしよう! ということであります。

今回の聖書の箇所−−−「私はこの民全体 にすばらしい喜びを知らせに来たのです。」−−−これが今回のメッセー ジです。ご一緒にお祈りしましょう。


Message by  Rev. Shoichiro Ikawa,pastor of IG M Nakameguro Church

Compiled by K.Otsuka/November 28,2004