プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2004年11月28日

「今年のプレゼントは?」

竿代 照夫牧師

ローマ人への手紙 8章31-32節

中心聖句

Rome 8:31-32

では、これらのことからどう言えるでしょう。神 が私たちの味方であるなら、だ れが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜し まずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵ん でくださらないことがありましょう。

(ローマ人への手紙 8章31-32節)


A.クリスマス・プレゼントをめぐって

1.プレゼントの期待:クリスマスが近づきました。親しい方々の 間でプレゼントを やり取りする季節です。きっと皆さんも、誰に何をあげようか、リストを作って準備し ていらっしゃるでしょう。あるいは、誰から何かをもらえるかなと期待していることで しょう。プレゼントは、もらうのもあげるのも嬉しいものです。

2.プレゼントへの犠牲:しかし、そこに問題があります。プレゼ ントを買うにはお金がかかります。持ち金を全部はたいて、つまり、ふところを空っぽ にしてまでクリスマスプレゼントをすると言うことは考えられません。O・ヘンリーが 書いた『賢者の贈り物』という短編小説は、貧しい若夫婦がお互いにクリスマスプレゼ ントを贈りたいがお金がなく、自分の持っている一番良いものを売り払って互いにプレ ゼントしたという心暖まる物語です。

3.犠牲の伴った愛:クリスマスプレゼントのはじまりは、まさに 懐を空っぽにしての一 番素晴らしい、一番価値のある神からのプレゼントでした。ヨハネの福音書に、

ヨハネの福音書3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになっ たほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとし て滅びることなく、 永遠のいのちを持つためである。

とありますように、父なる人類に対する神 の最大のプレゼントが主イエス・キリストだったのです。

今回とり上げましたローマ人への手紙 8章32節には、これに答える かのように、

ローマ人への手紙8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子を さえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私た ちに恵んでくださらないことがありましょう。

と記されています。この言葉の意味を今回は考えます。

B.ローマ人への手紙8章32節の意味するもの

1.私達すべてへのプレゼント:私達すべてのために、と宛先が指 定されています。 私達の間でのプレゼントでしたら、あげる人は限定されます。親しい人々の間だけです 。

でも神のプレゼントは「すべてのため」です。もらいそこなう人はいません。「あなたは除いて」と除外されてしまう ことはありません。

今年は誰も何もプレゼントはくれなかったと仮定しても、それでも 神のプレゼントはあなた向けに与えられます。神のプレゼントは万人に向けられていま す。僻む必要はありません。

2.最高の価値のプレゼント:何が頂けるのでしょう。「ご自分の御子」です。何は大切といっても自分の子供ほど大 切なものは世にないことでしょう。

「しろがねも こがねも珠もなにせんに まされる宝 子にしかめ やも」と山上憶良が詠んだように、どんな宝物に勝って子供はかわいい、大切なものだ ということで、この真理は今も昔も変わりません。

神はその愛する一人子である主イエス・キリストを、飢えた狼のよ うに彼を飲み尽くしてしまうような恐ろしい世に遣わされましたのであります。

聖書は神は三つのご人格をお持ちで、その三つのご人格の間には愛 し、愛されるすばらしい一体感があることを示唆しています。 父の神が、子なる神を汚れと争いに満ちた世に送って下さった、これがクリスマスです。

3.惜しみなく下さったプレゼント:その神の御子は死に渡された 、徹底的な苦しみ と辱めと悩みを嘗めるために罪人達の手に渡されたのです。それは、その悩みと苦しみ を通して罪人を救い、永遠のいのちを与えるためでした。

ここで「渡す」− give up−という表現はとても強い言葉で、渡し 切った、と訳すべき言葉です。いったん渡したのだから、煮て も焼いても文句は言わない、という徹底的な放棄を意味しています。

神はキリストの十字架の苦しみを見つつ、どんなに途中で助けて上 げたいと願われたことでしょうか。でも、敢えて手を下しませんでした。それは渡し切 った行為によってもたらされた十字架の死が、私達すべての救いとなることをご存知だ ったからです。

旧約聖書に出てくるアブラハムという人は、「(自分の息子の)イ サクを生贄として捧げなさい」という命令を受けて実行します。でもこの場合は生贄を 捧げる寸前でストップがかかりました。しかし、神の御子の場合には誰も止めず、文字 通り十字架で死なれました。

何で神の御子が、人々から罵られ、むち打たれ、唾され、釘づけら れ、十字架に架けられ、槍で刺されねばならなかったのでしょうか。神はこれを正視な さらなかったのでしょうか。私が親ならば、とても正視できません。でも神はそのむご たらしい十字架を止めなさらなかった。それは私達を救いたい という純粋な愛の故です。それ以外に救いの方法が なかったからです。

4.最高のプレゼントの意味するもの:この手紙を書いたパウロは 、ここからもう一歩、

「もし、神がその愛する御子を惜しまないで私達すべてのために渡 し切って下さったとすれば、それ以下の価値のものも、御子と一緒に下さらないわけが あろうか。神は惜しみ給わない、全部を下さるのが神様である。そして、私は今苦しい 環境に生きているが、神から助けと慰めと、物理的な治癒力と心の平安を全部与えられ ている。これは素晴らしい恵みではないか」と想像を進めます。

5.パウロの環境:パウロは、この時決して生やさしい境遇にいた わけではありません。8章35節で

ローマ人への手紙 8:35 …患難ですか、苦しみですか、迫害で すか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

と列挙したものは、架空のことではなくて、パウロが現実に経験し た事、経験している事を述べたものです。

パウロは伝道のために、牢屋に入れられたり、石を投げられたり、 騙されたり、溺れて死にそうになったり、と踏んだり蹴ったりされるような辛い人生を 送っていました。

でもそのパウロが、キリストを下さったこと の中に、神が私達を愛して下さっていること、ご自分の御子を世に遣わして下さったこ と、この中に神の恵みの姿勢が凝縮されていると確信したのです。

6.パウロの確信:ですから、全てこれらのまただ中にあってもな お勝ち得て余りがあ る、と大胆に告白していたのです。37節に、

ローマ人への手紙 8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してく ださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるので す。

とあります。パウロはそれらの艱難から逃げ出さず、患難のただ中 に留まり続けながら、「なお勝利者以上(圧倒的な勝利者の原意)でありうるのだ」と 言っています。それはやせ我慢ではなく、文字通り主の臨在と 助けを頂いているという深い自覚から来るものでした。

C.私達への励まし

1.私達への約束:そこまで徹底した愛を注いで下さった神が私達 の安全と保護を怠りなさることがありましょうか。

それ以外の小さな恵みを保留なさることがあり得ましょうか。否、 否です。

大きな恵みを下さったお方が、小さな恵みは保留することがあるで しょうか。これを単純に信じるものをクリスチャンと言います。少なくともこの手紙を 書いたパウロはそう信じていました。

2.クリスマスの御子を見よう:私達も同じです。

難しい問題にぶつかっている人はいらっしゃいますでしょうか。

貧しさの中に落ち込んで、明日の食べ物すらめどが立たない人はい らっしゃいますか。

孤独をかこって、誰も自分は顧みないと僻んでいる人はいらっしゃ いますか。

どんな人であっても、2千年前のベツレヘムの薄暗い馬小屋を思い 出しましょう。その飼い葉桶の中に眠っている幼子を見つめましょう。そこに示された 神の愛と恵みの大きさを知りましょう。

現実の生活では、色々な不足があり、困難、迫害があるかもしれま せんが、御子に添えて万物を下さる神の愛と、その資源の豊か さと、その御力の無限を信じて、明るい信仰をもって進んでいきたいと思います。

3.確信を持とう:もう一度、最初にとり上げた聖句を読んでみま しょう。そこに自分をあてはめて、「私たちすべて」に自分の名前を入れて読んでみま しょう。

ローマ人への手紙 8:32 (サマ リーをお読みの皆さんのお名前)のために、ご自分の御子をさ え惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、(サマリーをお読みの皆さんのお名前)に恵んでくだ さらないことがありましょう。

(編者注:8章32節の中に白くなっている箇所があります。そこに皆 さんのお名前を入れて お読みになって下さい)

そう読んでみると、この言葉は私達に生き甲 斐と支えと希望を与えてくれます。お祈り致します。


Message by Rev.Issac.T.Saoshiro, senior pastor of IGM Nakameguro Church

Compiled by K.Otsuka/November 28,2004