第一礼拝 メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2005年1月9日 教会総会準備講壇

「あらゆる国の人々を弟子に…」

竿代 照夫牧師

マタイの福音書 28章16-20節

該当聖句

Matthew 28:20 

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人 々を弟子としなさい。

(マタイの福音書 28章19節)


A.はじめに

1.今年は、私達の内側の確立を聖言から促され、励まされている ように感じ、エペソ人への手紙3章16節、

エペソ3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従 い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人々を強くしてくださいますように 。

を標語とさせて頂きました。今日は、教会総会に備えて、私達の行 動的な面に焦点を当て、主イエス様がのこされた宣教の大命令に直面させていただきた いと思います。

B.命令が与えられた状況

1.時期:紀元前30年の春、復活後しばらくして、弟子達は少な くとも復活後1週間はエルサレムに留まり、その後、主のご命令に従ってガリラヤに戻 って主の現れを待ちました。ヨハネの福音書21章に記されている大漁の出来事がそこ に挿入され、その後のイベントであったと考えられます。おおよそ、復活後4週間くら いと考えてよいのではないかと思います。

でも主のご昇天の直前ではなかったことでしょう。それは使徒の働 き1章に記されているエルサレムに近いオリブ山での出来事です。

2.場所:ガリラヤの山とだけ記されています。おそらく、山上の 垂訓のなされたハッティン山と考えられますが、確かなことはわかりません。主イエス と弟子達の間にはガリラヤの山と言えばあそこだ、という言わずもがなの了解があった ことでしょう。

どうしてガリラヤなのかは、マタイの福音書に答えがあります。2 6章32節に、主イエス様は

しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたよ り先に、ガリラヤへ行きます。

と約束し、28章7節では、御使いが、

…お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが 死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あ なたがたは、そこで、お会いできるということです。…」

と伝え、28章10節では、主イエス様が再び、

「…行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行く ように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」

というように、マタイの福音書だけでも三回、ガリラヤでのアポイ ントメントに言及していることを覚えたいと思います。

3.集まった人々:11人の弟子とだけマタイは記していますが、 コリント人への手紙第一15章の

Tコリント15:6「キリストは五百人以上の兄弟たち に同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠っ た者もいくらかいます。」

という記事と並行するものと考えると−−−そして、この考えは多 くの聖書学者に支持されていますが−−−広い意味での弟子達が大勢加わっていたもの と思われます。これらの人々に同時に現れるのが主のご目的であったからです。

考えて下さい。そうでなければ主はエルサレムだけでその現れを止 めることもできなさったはずです。どうしてもガリラヤで、つまり伝道の本拠地であり 大勢のシンパがいたガリラヤで、ご自分を現しなさる必要があられたのです。

4.疑ったものの存在:さらに、ここで「疑う者があった」という 表現があります。 誰が疑ったのでしょうか。11弟子の中の誰かでしょうか。トマス が、もう一回疑いに陥ったのでしょうか。ペテロでしょうか。ヨハネでしょうか。

私は今までの物語の流れから見てその誰でもなく、周辺の弟子達の 中の誰かであると思います。−−−「疑った」のは11弟子の何人かが、現れたお方が 主イエス様かどうかと疑ったと解釈する人もいますが、私はその可能性は低いと思って います。

C.命令の根拠

1.行くこと

1)求心的宣教(旧約)から遠心的宣教(新約)へ:旧約における 宣教は求心的であったが、新約の宣教は遠心的であると宣教学者であるヨハネス・ブラ ウという人が指摘しました。

礼拝の中心であったエルサレムにやって来なさい、ユダヤ教に帰依 しなさい、割礼を受けて(宗教的には)ユダヤ人になりなさい、これが旧約における宣 教観でありました。

しかし、新約の宣教は異なります。全世界に出ていきなさい、人々 のいるその場所に福音を携えて行きなさい、宗教的にユダヤ人になる必要はない、その ままの姿でイエスを主と受け入れれば救われるのですよ、という積極的な姿勢です。

私達が「開かれた教会」と言っているのは、建物とかプログラムの ことだけではありません。福音が全ての方に開かれている、その福音を持ったものらし く開かれた姿勢で、出来るだけ多くの人に福音を伝えましょう、ということであります 。

2)大使のような権威をもって:権威を持って行きなさい、という ニュアンスが、「それゆえ」の中に含まれています。

天と地の全ての権威を持ち給う主がその権威を使命を分与しした大 使として、行けと仰っておられるのです。必ずしも地理的な旅行ではなく、証しにおけ る積極的行動を促しておられます。

2. 弟子を作る

1)弟子を作ることが中心的命令:福音を種まきに譬えると、種を 蒔いただけで満足してしまわないで、信じるものを募り、その人々をキリストの弟子と して訓練しなさい、という大切な命令がここに含まれています。

実はこの四つの命令の中で、この動詞(マテテウオー)だけが命令 形で、他の三つは分詞なのです。「行きながら、弟子作りをしなさい。バプテスマを授 け、教えをしながら・・・」と言うことなのです。弟子化は中心です。

2)弟子を作るとは訓練すること:弟子とするということは、教え と人格的な感化を通して他の人々がキリストの弟子となるように訓練しなさい、という ことです。その前提は私達がキリストに倣うものとなることです。

訓練するということは、する方もされる方も辛いことです。朝から 晩まで寝起きを共にし、働きをともにしながら、欠点を正し、良い点を誉める、これの 繰り返しだからです。

イエス様はそれを嫌がらずになさいました。出来の悪い弟子達と共 に、ある時は叱り、ある時は誉め、模範を示し、コーチをなさいました。それで弟子が 作られたのです。

イエス様は弟子達に向かって、それをやりなさい、と命じておられ ます。それが回り回って私達に伝わってきたのです。私達もこの仕事を嫌がらずに他の 方々のためになすべきなのです。

「弟子訓練」ということを今年の目標の一つに掲げました。未だ内 容的には煮詰まっていません。しかし、それ自体は今年の目新しい標語ではなく、イエ ス様以来古いものなのです。私達も弟子として学び、弟子を作るために労したいもので す。

3.バプテスマ:弟子作りの一歩

信仰の告白としてのバプテスマです。弟子作りの最初の一歩と言え ましょう。入学式のようなものです。「キリストと一つとなりますよ」という信仰の告 白としてのバプテスマです。今年も、多くの方々がバプテスマをとおして主への信仰を 告白するように皆さんでともにお祈りしたいと思います。

4.教え:弟子作りの過程

1)教えの根拠は聖書:主イエス様が命じられた全てのこと、これ を教えるのも弟子訓練の一つです。

主イエス様の命じられたことはみな聖書に記されています。従って 、それを教えると言うことは聖書を教えることです。聖書に直付けにくらいつき、その 中から主の教えを学び取り、他の人々にも教えうる力を養いましょう。

2)宣教の命令も:弟子達が教えるべき主のご命令の中には、この 宣教命令が当然含まれています。ですから、弟子の弟子、その次の弟子が、次々に受け 継ぐのはこの宣教の命令です。

宗教改革者達は、マタイ28章の宣教大命令は11弟子達に与えら れたものであり、それは彼らによって成就したと考えました。ですから宗教改革時代に は世界宣教はあまり強調されませんでした。でもそれは違います。私達に脈々と受け継 がれてきているのです。

D.命令に伴う約束

「見よ。私は世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます 」とイエス様は約束されました。これについても幾つかコメントします。

1.聖霊を通して:主は、聖霊という第三位の神を通して私達の心 に臨在されます。 目には見えませんが、こんなに確かな喜びはありません。

2.どんなときにも:どんな時にも、悲しいときにも、嬉しいとき にも、日が輝くような順境でも、嵐のような逆境でも、いつでもともにいて下さいます 。感謝しましょう。

3.世の終わりまで、いつまでも:キリストの再臨で締め括られる 現在の世界の終わ りまで、いつまでも主はともにいて下さいます。

4.命令に伴う約束:それは、主の命令に従っているもののために 特別に約束された 同行です。

5.大きな助けを伴う同行:それは、大きな力と助けと守りとを約 束する同行です。今回の箇所と並行しているマルコの福音書16章20節を見ますと、

マルコ16:20 そこで、彼らは出て行って、至る所で 福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことば を確かなものとされた。

とあります。主のご同行は、それに伴う徴をもって確かなものと確 証されるのです。私達の働きを助け、落胆したときには慰め、欠乏しているときには豊 かな供給を与え、敵の攻撃と悪の誘惑から守ってくださる力ある助けが約束されていま す。

E.おわりに

1.置かれた立場で宣教師:私達みんなが遠くに宣教師として出て いくことはできない かも知れません。でも、置かれた立場で宣教師だという自覚を持って、家庭を、職場を 、学校を宣教地として、福音のために励みましょう。

2.教会の目標はこの一点:教会総会が近づきました。みながそれ ぞれの立場で、心を合わせて宣教のために労しましょう。教会には色々な活動がありま すが、全部を絞ると、主イエス様の宣教命令の遂行にまとまるのです。この一点に心を 合わせてこの一年、共に労させていただきましょう。お祈り致します。


Message by Isaac T.Saoshiro,senior pastor of IG M Nakameguro Church

Compiled by K.Otsuka/January 9,2005