プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日 本聖書刊行会)によります。

2005年1月9日

「驚くほどの平安」

渡辺 寛伝道師

ヨハネの福音書16章25-33節

該当聖句

John 16:33 

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは 、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難 があります。しかし、夕刊でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

(ヨハネの福音書 16章33節)


1.2004年もいろいろなことがありました。「災」という字に代表 されるように様々な事件、事故の多い年でした。誰もがいつその渦中の人になってもお かしくない状況に置かれているのです。一寸先は闇。この先、何が起きるかは誰にも予測不可能なのです。私たちに、明日の保証はありません。

人生に患難はつきものです。ヨハネの福音書16章33節にも

…世にあっては艱難があります。…

といっています。この新約聖書の中だけでも、「患難」という言葉 が11箇所出て来ます。

「人生楽ありゃ苦もあるさ…」と某テレビ局の長寿番組でも歌い続 けているほど、誰もが当然のことと思っています。そして患難に遭遇した時、人はうろ たえてしまうのです。

2.私も昨年末、とうとうある事件に巻き込まれてしまいました。

携帯電話の架空請求の電話がかかって来ました。全く身に覚えのな いことで、無視しました。ちょうどそれから一ヶ月後ドスの聞いた声で電話がありまし た。確実に身に覚えがなかったので、途中で切りました。幸いその後何もありません。

「まさかうちにも来たか」という思いで多少びっくりして慌ててし まいましたが、神の前に祈り、すぐに区の相談所に電話をし、念のため警察にも通報致 しました。これが現実です。

変な話ですが、私たちが人生の航海に乗る船は、意外と豪華客船な のです。

どういうところが豪華客船かといいますと、いかに優雅に、いかに 快適に人生を楽しく送るかに力を注ぐからです。そして残念なことに案外行き先がある ようで、実はあまり定まっていないのです。初めから行き先を決め、船は出発するので はなく、航海を続けるうちに、どこかいい港はないかとさまようように進むのです。終 点がない航海ともいえます。

だいぶ昔になりますが、ビデオで映画「タイタニック」を見ました 。

タイタニック号は750万ドルの巨額を投じ3年がかりで完成させた豪 華客船です。その旅をいかに贅沢にまた優雅に過せるかいくつかの施設がつくられてい ました。レストラン、ナイトクラブ、王宮風のラウンジ、プール、サウナ、ジム、そし てカジノ、まさに豪華なつくり、退屈しない夢の豪華客船でした。

この映画の主題は豪華客船を襲った悲劇です。なぜ、このような悲 劇は起きたのでしょうか。

巨額を投じて造られた豪華な施設の数々。しかし船である以上装備 されていなければならない物が幾つか欠けていました。このタイタニック号は、その旅 路をいかに楽しく、贅沢に、優雅に過ごすことにあまりにも目が注がれすぎてその航路 の安全面に欠けがありました。

タイタニック号のオーナーは、外観が損なうという理由で、たった2 0隻の救命ボートしか装備していませんでした。これは 乗客の半分しか乗れない数です 。

船に装備するレーダーがまだ発達していない時代、前方の確認を二 人の水夫がマストの見張り台に乗って、寒さをこらえながら、彼等の目で行っていまし た。(世界中には、視力6.0の人がいると聞きました。そんな人がのっていたならどうな っていたかわかりませんが―――)

危険なところを通ることも予想されていた航海であったはず。その 旅を無事終えるためになくてはならないものがかけていた航海でした。行き先はアメリ カ大陸でしたが、そこへ到達する前に海に沈みました。

3.私たちの人生の航海の到達地点はどこでしょう。自分がこの先 どうなるのか、どこへ向かっているのかを考えて人生の大海原を進んでいるでしょうか 。

私たちの人生の航海の到達地点はどこでしょう。自分がこの先どう なるのか、どこへ向かっているのかを考えて人生の大海原を進んでいるでしょうか。私 達の目指す最終港は天国です。そのことを知らない人、自分の航海の終点がないかのよ うに生きている人もいます。

私たちの人生の航海は、今は穏やかに満足して送っていても、突然 、雲が立ちこめ、雨がふり、嵐となり、船はゆれ、デッキでは右往左往するのです。厳 しい人生の航海を進む時、装備不良、装備不足ではその旅を最後まで続けることはでき ません。この航海に欠かせないものがあるのです。

今回とり上げる箇所中からその航海に必要なもの。私たちの人生の 航海に何はさておき、これだけは装備していなければならないことを見て今回のお話を 締めくくります。

 33節にある「わたしにあって平安を持つ」−私達の人生の航海に 必要不可欠なもの、それは「平安」です。 「わたしにあって平安を持つ」の「わたし」とはイエス・キリストのことです。つまり 神と人との関係を回復する唯一の道であるイエス・キ リストが与える平安、イエス・キリストを救い主として信じるものに与えられる神の平 安です。

ヨハネ16:27 …また、わたしを神から出て来た者と 信じたので…

16:28 わたしは父から出て、世に来ました。もう一 度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」

16:30 …これで、私たちはあなたが神から来られた ことを信じます。」

イエス・キリストはただの人ではありません。父なる神が遣わした真の「神の子」です。

ヨハネ 14:6  イエスは彼に言われた。「わたしが 道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父の みもとに来ることはありません。」

信じる者を罪から救い、天国へと導く救い主を信じて与えられた平 安こそ私達の人生の航海になくてはならない装備なのです。具体的には、

ヨハネ16:27 …それはあなたがたがわたしを愛し、 また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられ るからです。

神は私たちに絶えず愛を注ぎ続けて 下さいます。これはイエスを神の子と信じた者に与え られる愛です。

それは永遠の愛です。人が与える愛とはくらべることができないほどの愛です。

どんな患難の中にあっても、私達を 見放さない愛です。私たちに降り掛かるあらゆる困難の中にあっても神様 は絶対に支えて下さる愛です。たとえ一人になっても寂しくない愛です。

4.私たちは、生きているうちに、生活の知恵を身に付けます。サ バイバル術を学びます。しかし、それだけでは人生の大海原を最後まで乗り切ることは 不可能です。イエス・キリストによって得る平安が心にないと航海の終わり、天国へは 到達することはできません。さらに、

ヨハネ16:33 …しかし、勇敢でありなさい、わたし はすでに世に勝ったのです。

と神様は、勝利を約束しておられます。十字架の死に勝ち、復活を通し、すべてのことに勝利をおさめた方が注ぐ愛と平安 です。

皆さんは『パッション(The Passion of the Christ)』という映画 を御覧になりましたか。そのラストシーンは、ぼろぼろの体で十字架にかかり、「神の 子なら自分を救え」と罵倒されながら、私達の罪のために死なれましたが、三日目に甦 り、墓の中から雄々しく王の王として進まれる姿で終わりました。その手にはくっきり と釘でさされた穴があいていました。イエス・キリストは本当の神の子です。もはや私 たちに恐れるものは何もありません。

5.タイタニックの映画のラストシーンで、船が沈むのも時間の問 題。これで自分の命が終わるという時、人生で最大の困難にぶつかった時、この船上で は様々な人間の姿が現わされていました。

ある者は、なんとか生き延びようと、地をはい泣き叫ぶ姿。あるも のは救命ボートに何とかして乗り込もうと、できる限りの策を講じる姿。お金や権力で その権利を得ようとする姿。しかし、もはやそれらに何の抗力もありませんでした。

対照的なのは、天を仰いでヨハネの黙示録21章を口ずさみ集まる乗 客の手を握り励ます船に乗り合わせた牧師の姿であり、甲板には行かず船室のベッドに いつものように子供達をつかせ、かたわらで眠る前のお話を聞かせる小さい子供を連れ た母親の姿でした。

また、甲板で右往左往する乗客を少しでも落ち着かせるために、寒 さをこらえつつ楽器を演奏する楽士たちの姿でもありました。甲板が傾き、もうこれ以 上は無理と判断した楽士のリーダーが他のメンバーを解散させ、心を決め、ひとり最後 に「主よみもとに近づかん」をバイオリンで静かに奏でました。すると、一度はいなく なりかけたほかのメンバーが戻って最後の曲をともに弾き始めました。

人々が右往左往する中で輝くこの牧師の姿。母親の姿。そして、最 後まで演奏し続けた楽士達の姿。まるでこの神の平安を持っているかのような穏やかな 姿。否、彼らの心には神の平安が満ちていたことでしょう。 

6.神の平安。世が与えるのとは違う平安。心を騒がすことのない 平安。恐れることのない平安。いかなる時にも動じない「驚くほどの平安」です。この平安が私たちにとって、いかに大切であり 、いかに重要なことでしょうか。私たちも、常に神様の驚くほどの平安を心にもちつつ 、患難の時代にも、勝利を持って進ませて頂きましょう。最後に、16章26節をご紹介し ます。

ヨハネ16:26 …わたしの名によって、求めるのです 。

とあります。この「求める」は、新共同訳では「願う」とあります 。「求める、願う」とは祈るということです。

ありとあらゆる問題をイエスの御名によって祈るこ とで、すべてをご存じのイエス・キリストの名によって祈るなら必ず応答して下さいま す。

まだこの平安を持っておられない方は、イエス・キ リストの名によって今、求めて下さい。そうすれば今日からあなたの心にもイエス・キ リストの平安が与えられます。

2005年も主の祝福が豊かであることを確信しつつ、ご一緒に短くお 祈り致しましょう。


Message by Hiroshi Watanabe,preacher of IGM Nak ameguro Church

Compiled by K.Otsuka/January 9,2005