礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2005年1月16日

教団総会準備講壇(2)

「主がともにおられ、成功させて下さる」

井川 正一郎 牧師

創世記39章1-23節

中心聖句

2 主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。

3 彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることを成功させてくださるのを見た。

23 監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。

(創世記39章2-3、23節)


はじめに

 先週の礼拝メッセージの締め括りの約束は、マタイ28章20節より、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」でした。神の常なる臨在と同行です。この1年、主がともない続けて下さる歩み、何と幸いなことでしょうか。

 きょうはそのメッセージを受け継いだ形で、主がともにいて下さる生涯、神が共にいて下さる生涯とは具体的にいかなるものか、旧約聖書の「ヨセフの記事」から学びたいと願っております。

 創世記39章のヨセフに、主が共にいて下さる姿を見ることができます。ヨセフの物語は37章から始まります。

 ヤコブの子供達の中にあってヨセフがいました。ヤコブが年をとったときの年寄り子ということもあって、他の兄以上に愛されました。ヨセフもそれをいいことにしてか、余り芳しい態度ではなかったようです。夢を見て、父母も兄弟もみな、ヨセフを拝むようになるといったことを平気でみんなの前で言ってしまうのです。兄たちはヨセフを退けてしまおうと悪い策略を練ったのでした。

 ある日、あらかじめ作っておいた穴の中にヨセフを落としてしまいます。殺そうと思ったのですが、やはり殺すには忍びない。ちょうど、通りかかった商人達にヨセフを売ってしまったのです。

 父ヤコブにはヨセフは獣によって殺されてしまった、死んだと嘘の報告をしました。父は兄たちが証拠として持ってきたヨセフの長服をみて、嘆き悲しんだのです。商人たちに売られたヨセフはどうなったのでしょうか。

 エジプトに下り、そして、パロの家来であるポティファルのところに奴隷として売られていったのです。しかし39章に入って、神がヨセフと共におられた故に、主人の厚意を受けてその家の管理人、家司として奉仕するようになったのです。すべての財産を管理するだけの信用を受けて、責任を担ったのです。しかし、ポティファルの妻の誘惑に遭い、それを退けたことによって、主人の誤解を受けて投獄されてしまいました。しかし、その獄中にも神はヨセフと共にいて下さったのでした。


ダビデとヨセフ、その共通点

 ヨセフは主イエス様の姿に似ているとよく学びます。旧約の中で他にはダビデがいます。この二人に共通することは、大きな失敗、罪を犯してしまうことがあります。ダビデはバテシバに対する罪。ヨセフの失敗は言うまでもなく、他の兄弟とは違って父ヤコブの年寄り子であったこともあってか、父親の偏愛を受け、それをよいことに自惚れ、高慢の姿をとっていたのです。

 夢を見たのは良いのですが、兄たちもそして親もみな、いずれはこの私を拝むようになる。言わなくてもよいことを、自慢話のように口にしてしまう。父ヤコブから与えられた素敵な晴れ着を着て、ちゃらちゃらと見せびらかせる。

 しかし、ダビデもヨセフもその失敗を心から悔い改めたのです。ダビデもしかり。そしてヨセフも奴隷に売られエジプトまで連れてこられる中、心の中で色々と考え反省吟味したでしょう。この39章のポティファルの妻の誘惑を退けた記事、また常に主が共にいて下さった事実から推測できることは、確かに悔い改めがなされ、主に受け入れられたのであろうということです。

 厳しい誘惑と試練、どん底と言ってよい程の苦難の時期を通過したこと、家族はじめ人々の誤解やそしりなどを受けたこと、しかしその中にあっても神を仰ぎ信頼したこと、父なる神に心から愛されていたこと、そしてついには神によって高く挙げられたこと、主に似た生涯を送ったダビデであり、ヨセフでした。

 その主に似た者としての歩みの中心は言うまでもなく、神が共にあって下さるとの事実であります。


きょうの学び

 きょう、このヨセフの記事を学びつつ、この新しい1年、お互いに主が共にいて下さる歩みをしたいと願っております。

 では、神が、主が共にいて下さるとは、具体的にどういうことでしょうか。一言で言えば、成功させて下さること、ではないでしょうか。それを具体的に更に分析すると、4つ挙げられます。

@人間の人格に表わされること

A神が人の手のなすところを栄えさせること

B他人にわかるもの、あかしとなるもの、見えるもの

C周囲の者をも祝福させるもの

 はじめにこの4つのことを箇条書き的に学んでみたいと思います。そして最後に、主が共にあって下さる理由は何であったか、その理由を学んで行きたいと思います。


主が共にいて下さるとは

1.人の人格に表わさせるもの

 「幸運な人となり」=幸運と成功とはもともとは同じことば、意味です。幸運な人となりとは、その人自身を幸運な者、成功させる器とするとの意味です。「幸運な人となり」「人となり」は、ダジャレではありませんが、名詞形の「人となり」とは、その人そのものの性質、天性、性格、人柄等を意味します。

 ヨセフの人柄、人格、性質を幸運な者として下さる。それは主が共にいて下さるとの結果、結実の一つなのです。成功させて下さる=その人そのものへの祝福、成功。故に、その人の仕事とか、手のわざを成功させて下さるという前の事柄です。

 本当の宗教の目的はここにあるのです。仕事やなす業を祝して下さいとのことも大切には違いないが、宗教の目的はこの点を目指すものであったら、それは違うものです。本当の宗教、聖書の宗教の目的はあくまでも、その人自身、その人そのものを変貌させること、言い換えると幸運な人、成功する人とすること、です。

 ヨセフは主と似た者としての人物の一人です。そして彼の品性、人格もまた、主イエスに似たとして作られていったといってよいでしょう。聖霊の実としてあげられている事柄がすべて彼の内側に宿っていったのです。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。聖書の宗教の奇跡は神のご性質が人間の内に宿ることなのです。

2.神が人の手のなすところを栄えさせること

 第二はその人の働きの上に注がれる祝福のことです。繰返しますが、これは人となり、すなわち人格・品性の成功の上に立ったものなのです。順番は決して間違ってはいけないこと。これはその人間の何かによって実現されるのでなく、神によるわざであることが強調されねばならないものです。

 ヨセフに対する手のわざの成功は何でしょうか。ポティファルの信頼を勝ち得たことです。家司として主人の信頼を得て、その仕事をまかされたことです。そしてまかされたことに対して信頼を裏切らずに、忠実に誠実に事に当たったこと。その結果、その手のなすところみな、栄えたのです。3〜6節にあります(参照=詩篇1篇)。

3.主が共にいて下さる

 第3にそれは「人にわかること、あかしとなる、見えるもの」です。主がヨセフと共におられる。エジプト人の主人=ポティファルがヨセフの人格と働きの上に、神の臨在と祝福があることを見て取ったのでした。3節です。

 人にわかる、人の目にとまる。それなりの人が見るとわかることなのです。それが主が共にいて下さるということなのです。ポティファルは見て取ったのです。ヨセフが自分自身の持ち場・立場をよく弁えている。謙遜さも持っている。不平不満も漏らさず、おごらず、くさらず、柔らかい心を持ち合わせているのを見て取ったのでした。

4.主が共にいて下さるとの事実は、その人の周りの人々をも祝福させるもの

 ポティファルはヨセフに、その所有・管理をまかせました。まかせた・委ねたことによってポティファルの家にも祝福が注がれたことを見出すのです。5節にある通りです。主が共にいて下さる祝福成功は、その人に留まりません。その人の周りの方々にもそれが及んで行くものなのです。


主が共にあって下さる理由

 では、なぜ、このようにヨセフは幸運な人となり、成功させてくださったのでしょうか。神がして下さった、神が共にいて下さったからということに尽きるのですが、ヨセフの側からその理由をこの箇所から探れば、2つあります。

罪に対する姿勢

 一つは罪に対する姿勢にありました。誘惑を受けたとき、上着を脱ぎ捨て、その場に残してまでも(残すということは誤解を生み出す者にもなり得る)、退けたのです。言い換えると神への信仰です。主人ポティファルの信頼を裏切ってはいけないとの思いと共に、そのことが神への信仰信頼を失わせてしまうことだと弁えていたからです。

 罪に対する敏感さ。罪から遠ざかること。その姿勢こそが、主が共にいて下さる、成功させ下さる秘訣なのです。

神の摂理に身を委ねたこと、まかせたこと

 もう一つの理由は、神の摂理に身を委ねたこと、まかせたことです。ある有名な説教者が言いました。「ヨセフはあの失敗から、ここに至るまで口を開いていない。彼の沈黙に目をとめるべきである」と。彼はじたばたしませんでした。良い意味で受け身的受動的。摂理に委ねたのです。神のなさることに信頼して身をまかせたのであります。といってもなすべき事柄は神に受け入れられるように忠実誠実な態度で事に当たったのではありますが・・。

 神のなさることには間違いがない、すべてのことを益として下さる方だと信頼したのです。後に兄たちと和解したときのことばが50章にあります。あなたがたは悪を計ったが、神はそれを良いことのための計らいとして下さった。多くの人々を生かすためであった」=彼の、神に対する信頼を示した、素晴らしい告白です。神のみこころ、ご計画に委ね切ったヨセフでありました。

 幸運な人、成功の人とはそういうものであると教えられます。


しめくくり

.「主はともにあって下さる、主は成功させて下さる」この約束は不変と信じましょう!


罪から離れ、神のみこころに身を委ねましょう!

 お祈り致します。


Written by S. Ikawa and Edited by N. Sakakibara on 2005.1.16