プレイズ・ワーシップ メッセ ージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日 本聖書刊行会)によります。

2005年1月23日

「教会を知る(2)−−私達は家 族」

竿代 照夫牧師

エペソ人への手紙 2章19節

該当聖句

 

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人で も寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

(エペソ人への手紙 2章19節)


A.はじめに

きょうの午前、教会総会が開かれました。このワーシップグループ も、形態こそちがいますが、同じ教会の家族の一員です。その意味で、この数週間、 「教会を知る」というシリーズにしました。今日は、教会は家族だという聖書の教えを 学 びます。

B.家族となるための備え

1.モーターボート協会の笹川会長が、「人類は地球家族の兄弟姉 妹」といったようなコマーシャルを流していたことを思い出します。こういう言葉はス ローガンとしては美しいのですが、実態は全くかけ離れています。民族同士、国同士が ぶつかり合い、殺し合っていて、いつ終わるとも分からない状態です。

聖書はどう言っているでしょうか。聖書はまず、人間という者が、 「この世にあって望みもなく、神もない人たちである」という認識からスタートします 。元々は神によって造られ、神を愛し、神と交わることによって喜びを感じる者だった のです。でも、そこに罪が入ってしまったために、神から遠く離れた存在となってしま いました。

2.主イエス様の十字架は、神と人との隔てを取り除くものです。2 章13節に、

以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリス ト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

とあります。神は人に対して怒っておられた訳ではありません。で もその正義の故に罪をそのまま受け入れることはできませんでした。人の側も、罪責感 がありますから、素直に神に近づくことはできません。そう言った形での疎外感が生ま れてしまいました。

それを打ち破ったのが主イエス様の十字架です。罪は罰しなければならないと言う神の正義の要求を満たし、同時に人の側か らも、この方の身代わりの犠牲によって私達は赦されたという自覚を持つことができた のです。

3.パウロはもっと進んで、互いの文化的障壁の故に敵意を持って いたユダヤ人と非ユダヤ人が、キリストの十字架によってその敵意を除かれたと記して います。14節と15節に、 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立 っている戒めの律法なのです。

とあります。ユダヤ人とは、神の律法を厳格に守ろうとした人々、 異邦人とは神の律法をもたずに気楽に過ごしている人々です。人間が救われるのは律法 を守る努力の結果ではなく、主イエス様の身代わりの十 字架を信じる信仰だけによるという道が開かれたのです。

つまりユダヤ人によって代表される「まじめ人間」も、異邦人とい う言葉で表わされる「いいかげん人間」も、同じように主イエス様の十字架を信じる信 仰によって救われることによって、ふた種類の人間の間にあった優越感、劣等感の壁は 除かれたのです。

私達の間にも民族の間に優越感と劣等感があります。エスノセント リズム(自民族優越主義)という乗り越え難い壁があります。同じ民族でも、家柄の違 い、教育の違い、体力の違い、貧富の差、社会的階層の違い、それらによる対立がどう しても起きてきます。

でも、キリストの十字架はそれらの違いを忘れさせます。私達はみんな同じ罪人、みじめな罪人なのだ、でも、神の豊かな恵 みによって救われるのだ、という福音の原理によるのです。

C.家族となるすばらしさ

1.神の養子:私達がキリストを個人的な救い主として受け入れる 時、私達は神の子供(養子)として受け入れられます。天地を造り、天地を所有し、全 世界をおさめる神を私の父と呼ぶことが出来るのです。これは素晴らしいことではない でしょうか。

木村清松という伝道者は、ナイアガラの滝を自慢したアメリカ人に 向かって、「これは私の父さんのものだよ」と豪語したそうです。神をお父さんとする ということは、私達の心を大きなものとします(神の富の相続人なのですから)。その 木村さんの集会のテーマは「ナイアガラの所有者の子来る」だったそうで、一体誰なの かと見に来た人がいたそうです。

そのお父さんは私達の人生のすべてに責任をもって下さいます。今 日、この会衆の中に、明日の事を心配している人はいませんか。天のお父様が大きな大 きな腕をもって私達を支えて下さることを信じましょう。

2.そんな神様を共通のお父さんとして持っているのが、クリスチ ャンなのです。ですから、私達は神の家族です。肉の家族より親しい間柄になりうるの です。19節に、

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも 寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

とあります。

この会衆の中にも、私は家族がいない、ひとりぼっちだという方も あるかも知れません。家族はあっても、お互いに他人同士のような冷え切った関係だ、 という人もおりましょう。崩壊寸前の危機にあるんだという方があるかも知れません。

でも、主イエス様が「天の父のみ心を 行うものはみんな私の父母兄弟姉妹なのだ」と仰ったことを覚えてくださ い。他で見ることの出来ない麗しい家族関係が教会にはあるのです。

私自身、幸いなクリスチャンの家庭に恵まれましたが、それ以上に 教会にしょっちゅう集まり、楽しい交わりを経験しながら若い時を過ごしました。感謝 しています。

D.家族への配慮

教会が家族なのですから、それを深めるためのいくつかの提案を致 します。

1.まず、呼び方。:教会では、お互い の事を「兄弟姉妹」と呼んでいます。どんなに偉そうなおじさんでも「兄弟」と呼んで いいのです。お年を召したご婦人のことも、「姉妹」と呼ぶのです。愛情を込めてこの 呼び方を続けましょう。

2.違いは違いとして互いに受け入れ合おう。:同じ家族の中では、色々な個性の違いはあっても、互いに受け入れると思いま す。

教会も同じです。あの人は考え方が違うから友達になれないとか、 気にくわないから挨拶もしないとか、そんなことはおかしいと思います。

違いがあるからこそ貴いとパウロは別な場所で語っています。自分と違う種類の人々、世代の違う人々、趣味の違う人々をこ とさらに受け入れましょう。それによって私達は豊かな交わりを経験します。

3.互いのために祈り、愛を行動で示そう。:一週間のうち、わずかでも時間を取って、お互いの名前を挙げて祈りましょう。

特に苦手と思われる人々、問題を抱えていると思われ る人のために祈りましょう。示されたら愛を具体的に示しましょう。

はがき一枚でも出して、愛を示しましょう。意地悪をされたとして も、どうか決して悪に対して悪を報いないで、真実な心からの愛を示しましょう。

ぎすぎすしたこの世にあって、「この プレイズ・ワ−シップの会衆が世界中で一番愛しあっているグループだ」と言われるよ うな愛を育てましょう。お祈り致します。


Message by Isaac T.Saoshiro,senior pastor of IGM Nakameguro Church

Compiled by K.Otsuka/January 23,2005