礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2005年1月30日

 マルコの福音書連講(52)

「子供のように神の国を受け入れる」

竿代 照夫 牧師

マルコ10章13-16節

中心聖句

15 神の国は、このような者たちのものです。16 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。

(マルコ10章15-16節)


はじめに

1.前回:離婚の問題(理想の結婚)

 年末年始の特別講壇で二ヶ月あまり中断していましたが、もう一度マルコの福音書連講に戻ります。前回は離婚の問題で主が語られたこと、イエスの言わんとしておられる結婚についての理想像を学びました。

2.子どもとイエスのエピソード

 この離婚問答の直ぐ後で、その終わるのを待ちかまえていたように沢山のお母さん達がその子供をイエス様の下に連れて参ります。「主イエスと子供」のエピソードはマルコでは二回(9章では、弟子達の権力闘争の際の反面教師として、この10章では祝福を求めて)マタイではその並行記事二回とイエスのエルサレム入城の際のサポーターが子どもが多かったという記事が出てきます。これらのエピソードは、イエスが子供を愛された事、イエスが子供に愛された事、イエスが子供をとても大切に思っておられた事、その気持ちを分かる事の出来ない弟子達の悲しさ等を物語っています。

3.背景

 この出来事の場所はペレア地方(ヨルダンの東)です(10:1を参照して下さい「イエスは、そこを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こう(ペレア地方)に行かれた。すると、群衆がまたみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。」)。 ペレア伝道と言えば、有名な放蕩息子の譬えを語られたり、ルカの福音書の13-18章が扱っているところです。

 時期的には、十字架がおよそ一ヶ月くらいに迫ったところです。物語としてはのんびりした、のどかな感じのするものではありますが、主イエスの心には間近に迫った十字架が大きくのしかかっていた、そんな時期であったことを物語の背景として覚えなければなりません。


A.子供達と弟子達(13節)

1.子どもがイエス様へ

13a さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。

 「人々が」と記されていますが、たぶんお母さん達が多かったと想像するのは妥当でしょう。お父さんやおじさんおばさんも入っていたかも知れません。ペレア地方でも、偉大な預言者、清い善なる方としての主イエスの評判は行き渡っていましたから、この機会を逃さないようにと、イエスの下に殺到したものでしょう。連れてこられたのは子どもたちですが、ルカによれば「ブレフェー」(幼児達)の事であって10歳を過ぎた大きな子どもたちというよりも、まだ歩くか歩けないような幼児が多数であったと思われます。かれらは、子供達を祝福して頂きたいとの願いを持って、子供達を連れて来ました。今日で言えばそれらは一種の献児式、子供祝福式としての意味を持っていました。

2.弟子達が叱る

13b ところが、弟子たちは彼らをしかった。

 何と気が利かない弟子達でしょう。でも、弟子達が子供達を直接叱ったと書かれていないのはやや救いです。かれらの叱責はその両親達に向けられた訳です。「この忙しく貴い先生を子どもなんかで煩わせるなんて何と非常識な、何と図々しい」という気持ちが表れています。この大切な先生を守らなければ、というイエス様の忠実なボディガードとしての忠義の心は多少あったかも知れませんが、それよりも邪魔な存在だ、迷惑だという気持ちの方が強かったのではないでしょうか。

 いずれにせよ、どうしてここまで鈍感なのかと思うくらい、弟子達は主イエスの心を汲み取れませんでした。私達が自分にとって迷惑であったり、邪魔であったりする人々に怒鳴り散らしたり、ヒステリックな金切り声をあげたりするとき、主イエスのみ心とは全く遠いものとなっていると言うことを覚えたいと思います。私達の最大の関心事は、イエス様の心は何だろうかと自分の行動と内比べて振り返り、そのみ心を行えるように助けを祈り求めることです。その点で弟子達は誠に未熟というか、鈍感でありました。


B.イエスと子ども達(13-16節)

1.イエス、弟子達を怒り給う

14a イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。」

 かつてお話ししたことがありますが、「主イエスの怒り」は福音書の記事では滅多に見られません。マルコの連講で3:35「イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。」という記事から、イエスの怒りについて言及しました。

 纏めますと、主イエスが怒られた時は、わずか3回だけ(パリサイ人の頑なさに対して、この場合の弟子達に対して、神殿で金儲けをしている人々に対して)だったということです。その三回とも、感情的な爆発ではなく、神の正義と憐れみに反する行動に関してでした。私憤ではありません。

 さて、この場合は、頑是無い無邪気な子供達がイエスの許に連れてきた、それを叱った弟子達の大人的論理、子供達への無理解、無関心、それに対して主は優しい注意ではなく、憤られたのです。どうして私の心が分かってくれないのか、もう三年も寝起きを共にして、私の心はある程度分かっているはずなのにどうして、というお気持ちが、優しい注意ではなく憤りへと主を駆り立てたのでしょう。子どもたちを私の所に、とは随分意味深い言葉ではないでしょうか。

 私達は多くの子どもたちが虐待を受けている恐ろしい時代に生きています。虐待まではいかなくても、学校でも家庭でも友達関係においても多くのプレッシャーを受けながら育っています。主イエスがその肉の眼をもって現代の子どもたちをご覧になったなら、どんなに大きな悲しみを表しなさることでしょう。主は今も、「子どもたちを私の所に」と招いておられます。その招きをリレーするのは私達大人です。何らかの形で幼子をイエスの所に連れていくお手伝いをさせていただきたいものです。

2.イエス、神の国を示し給う

14a 神の国は、このような者たちのものです。15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。

1)幼子は天国に入る

 イエスが感情的に叱ったのではない証拠に、ここでは穏やかに理由を説明されます。イエスは、天の御国はこのようなものたちの集まりと語られました。文字通り、幼子達はダイレクトに天国に行けるという意味とも考えられます。殆どの神学者達は、幼児期に無くなった場合に、キリストの贖いの恩恵として彼らは天国に行くのだと説いています。私もそう信じます。「再び主イエスの来たります日、召さるる幼子御国にて、御空の星と輝きつつ、主のみ冠の珠とならん」と小さいときに歌いましたが、本当にその通りです。

2)幼子に似た単純さ、素直さ、・・をもったものが天国に

 更に、主は、この小さな子供に似ているものだけが天国に招き入れられる語っておられるのです。どんな風にでしょうか。子供の持つ単純さ、素直さ、無邪気さ、謙遜さ、柔和さを学ばねばなりません。イエスご自身もそのような無邪気な幼少期を過ごされましたから、子供の心を持つ事の素晴らしさをご存じでした。キリストの福音と言うものは誠に単純です。私達人間は救い難い罪人である事、イエス・キリストが私達のすべての罪を背負って十字架にかかられた事、復活して今も生きておられるお方である事を聖書が語っているように信じ、受け入れる事です。つまり、幼子のような単純さがなくては信じられない単純な福音なのです。

3)幼子のようになりなさい

 ですからイエスは、幼子になりなさい、と語られるのです。マタイは幼子になる為には「翻って」でなければならないと付け加えます。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(18:3-4)この「悔い改めて」と言う言葉はもともと「翻って」と言う意味です。180度方向を転換する、ひっくり返すという革命的な意味なのです。

 大人が持っている猜疑心、野心、権謀術数を捨てて、子供のような素直さをもって福音を受け入れ、他の人々を受け入れるものとなりなさいとの強い勧めがここにあります。そして、これがないと絶対に天国には入れないのです(ギリシャ語の二重否定で、強意)。彼等が天国に入ると言うよりも、天国は彼等に属する、天国は彼等を主人公として成り立っているんだ、というこれも私達の通常の発送を逆転させるものであります。

 私達は誠にひねくれています。右と言えば左、左と言えば右と疑ってかかります。石橋を叩いても渡らないうたぐり深い人間です。まあ、そうしないと生きていけないような社会にいるわけですから、仕方がないと言えば仕方がないのですが・・・。でも思いきって、翻って幼子のようになりましょう。少なくとも神の前では・・・。その時神の国に相応しいものとなるのです。

3. イエス、子どもを祝し給う

16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

 主イエスに抱かれた子ども達どんなに嬉しかった事でしょう。蔦田二雄先生のお好きだった歌は、「君(イエス様)は今もみ空にて、子らを待ち給う。いでいで君の御側にて、かしらなでられたや」だったそうです。真実先生が、あんなに髪が薄くなっても、イエス様に頭を撫でて欲しいんだなあ、というようなコメントをしておられた事を覚えております。イエス様に抱かれ、頭に手をおいて祈って頂いた子供達は決してその思い出を忘れなかった事でしょう。主は同じ祝福を幼子に、私達神の幼子に注いで下さいます。


終わりに

1.「翻って」幼子のようになれるよう祈ろう。

2.幼子のように主に頼ろう。

3.幼子を受け入れ、主に導こう。

お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2005.1.30