第一礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日 本聖書刊行会)によります。

2005年2月13日

マルコの福音書連講(54)「人には 不可能、神には可能」

竿代 照夫牧師

マルコの福音書 10章17-35節

中心聖句

Mark 10:27 

イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは 人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはでき るのです。」

(マルコの福音書 10章27節)


A.はじめに

前回は金持ちの青年が、根本的な欠陥を指摘されながら、それを敢 えて主の下に持ち出して解決しようとはせず、悲しみながら何も言わずに去ってしまっ た悲しい物語を学びました。今日はその続きですが、金持ちの救いを巡ってイエスと弟 子との間に交わされた問答です。

B.金持ちと神の国(23−27節)

1.「金持ちは神の国に入り難い」

1)主イエスの嘆き:主イエスは、金持ちの青年が悲しそうに去っ ていくのを見て、ご自分の心も痛みました。弟子達を見回して言われたのは、去ってい った青年を断罪するためではありません。実に残念だねえ、惜しいねえ、という悲しみ を共感して欲しかったのだと思います。それが、「裕福な者が神の国にはいることは、 何とむずかしいことでしょう。」という一般的なコメントになって現れているのです。

金持ちを断罪するのではなく、地上のものに執着するような環境に あるものが、それを断ち切って、ただ神に信頼していく、という信仰的な行き方をする のはとても難しい、という意味なのです。主イエス様は山上の垂訓で、

マタイ6:24 あなたがたは、神にも仕え、また富に も仕えるということはできません。

とも語られました。金持ちの一般的な習性として、金を神とより頼 んでしまい、神に対する単純で純粋な信仰が持ちにくいということは言えましょう。

もちろん、これに例外は有り得ることでしょう。お金という形の富 を持っていなくても、自分は教養がある、道徳的に正しい、という精神的な富が、神の 国の障壁となることもあります。イエスの非難は、富自体へのものではなく、富に頼る 心にあるのです。

2)弟子達の驚き:弟子達が驚いたのは言うまでもありません。彼 らは、富というものは神の祝福の徴であり、その富を 所有しているということは、神を畏れ、神に従った結果なのだから、金持ちは神を畏れ た人に違いない、というナイーブな認識を持っていたからです。

どうかすると、現代でも「繁栄の 福音」を説く人々の中にはこうした考えに傾く傾向があります。クリスチ ャンのメディアでは、世の中で成功した人々が脚光を浴びることが多いこともその現れ の一つでしょう。神の国自体をこの世的なものと考えていた節があります。

2.「らくだが針穴を通るよりも困難」

主は、驚く弟子を横目に、24-25節で更に強い声明を与えます。幾つ かの解説が必要です。

1)らくだと針の穴の譬えは、絶対に不可能ということを物語って いるのか、という点です。

物理的には全く不可能です。どうしてこの二つの物体が結びつくの か、訝る方もおありでしょう。月とすっぽんという日本の諺にもありますように、二つ のものが釣り合わないということを示すための大袈裟な比喩なのでしょうか。そうかも 知れません。

でも、ある聖書学者は、エルサレムの城には、「針の穴」と呼ばれ る小さな門があった、それは(他の門を通り抜けられる)らくだも通過不能である、と いう風に解釈します。

さらにある学者は、この「らくだ」(ギリシャ語でカメーロン)は 、ある写本では「綱」(ギリシャ語のカミロン)となっているので、それが正しいのだ 、と説明します。いろいろな解釈がありうるでしょうが、まあ、これは結論には影響し ません。

金持ちの神の国入りは難しい、のであります。

2)では、金持ちは絶対に神の国に行けないのか、神の国に行くた めにはみんな貧乏にならなければならないのか、という疑問が湧いてきます。どう考え ればよいのでしょうか。

今のキリスト教世界にあてはめればどうなるのでしょうか。ソニー の会長であった方はクリスチャンだそうですが、その富の故に神の国に行き損なったの でしょうか。

主イエス様の声明を理解するとき、その状況、目的を弁えませんと 、極端な考えになることがあり得ますこの声明はその一例です。

私は、主イエス様が、どんな例外もなく金持ちを断罪し、金を捨て ねば神の国に行けない、と仰ったとは思いません。この声明の趣旨は、金持ちは知らず 知らずのうちにその富に信頼し、その富に溺れて傲慢になったり贅沢になったりして、 神に信頼すること、神に従った行き方をすることが非常に難しいという傾向を物語った ものであると理解します。

ですから、貧乏であっても、神以外の何者かを信頼の対象と考えて 生きている人は、精神的な意味で、(神の国に入れない)金持ちです。

3.「しかし、神には可能」

ますます分からなくなった弟子達に対して、主イエス様は冒頭の27 節の通りお答えになりました。今日の説教題をここから取りました。

人にはできない、しかし、神には可能、と主は語られました。しか も、「どんなことでも」と無条件であり ます。ルカの福音書は同じような記事を残していますが、ニュアンスが少し違います。 ルカの福音書16章27節には、

人にはできないことが、神にはできるのです。

と記されています。人間がもう駄目だ とギブアップするそのこと、ギブアップするその時、それが神様の出番なのです。万策尽きて、新たに主を待ち望むのです。

私達には、これは困難、あれは不可能と思う課題が沢山あります。 家族の救いの為に祈っているがなかなか答えられない、日本の救いのために祈っている が、なかなか土壌が固くてクリスチャン人口が1%の壁を超えられない、主人のあの性 格は治らないかと祈るが全く変わらない、などなど、困難を感じる分野がありませんか 。

日本の救いを妨げている大きな要素は富です。物 質的な豊かさ、知識の豊かさ、それから来る「神なんかいらない」という観念が多くの 人から救いを遠くしています。

主は、それらを知りながら、神には可能だと仰る のです。神は私達の祈りに答えて、富めるものにその富に頼るなと直接的な警戒を与え 、信仰に導きなさることが可能なお方です。

C.弟子の自慢とイエスのコメント(28−31節)

1.弟子達の自慢

金持ちが神の国入りに向いていない、という声明、それから去って いった青年が自分の財産を捨てきれなかったという実例を我が身に引き比べて、ペテロ は自慢を始めました。

「私は」と言わずに「私達は」と弟子達全てを含んで言っていると ころはやや謙遜が伺えますが、それにしても自慢の表現です。私達は何もかも捨ててあ なたの弟子となりました、と言いながら、あのガリラヤ湖の辺で主の召しの声を頂いた とき、躊躇しないで、船も捨て、網も捨て、家族も捨てて従ったあの単純さ、まっすぐ さを思い出しながら、それに対するイエスの評価を求めるのです。これだけ捨てたから 、そのご褒美に何が頂けるか、と誠に正直というか、子どもっぽいというか、ペテロら しいです。

2.イエスの約束:「捨てるものは得る」

1)福音のために捨てる:イエスのためにと福音のためにとは、同 義と考えて良いでしょう。福音を述べ伝えることに伴う犠牲、福音が示す生き方を貫く ために受ける迫害、がその中に含まれます。イエス様は、それらの犠牲を神は見ておら れるし、充分な(百倍の)報いを与えなさる、と約束されます。

2)この世で報われる:この世においても報いを受ける、とは文字 通り私達が生きているこの世における報いです。

神は、本気で従うものを飢えさせることはありません。しっかりと 受け止め、支え、守り、必要を満たして下さいます。たとえ迫害のただ中でも、それと 共に豊かな支え、守り、供給を受けます。

3)来る世ではさらに:さらに、来る世ではもっと大きな報いがあ ると約束して下さいます。

3.イエスの警戒:「後なるものが先に」

こうお約束した後に、主イエス様はペテロに警戒を与えます。

・・・確かにあなたは一番先に何もかも捨てて、単 純に私に従って来た、それは貴いことで、神は豊かにその献身に報いなさる、ただ、そ れをもって霊的傲慢に陥ることは充分警戒しなさい、そうでないと、あなたは神の国入 りの一番後回しになるかも知れない。もっと言えば、そのリストに漏れることだってあ る。・・・

という警戒なのです。

信仰生活を長く送っているキリスト者達に与えられる、いわば頂門 の一針です。私達はよく考えなければならない主のご警戒です。

これは多くの場合、先に選ばれたユダヤ人と、後になって神の国に 招かれた異邦人の比較において語られる言葉です。多くの聖書学者は、この場合もその 意味に限定して解釈しますが、私はこの文章の冒頭にある「しかし」ということばから 、ペテロ達への警戒と考えます(幾分かの学者は私の立場を支持しています)。

D.私達への挑戦

1.「不可能」と決めている課題に再挑戦しよう

私達が、これは不可能、あれは困難と、諦めかかっている課題はな いでしょうか。

私にもありますし、皆さんもそれぞれの課題をお持ちと思います。 それを諦めきってしまわずに、もう一度神の全能に目 を留め、神の可能を信じ、祈り、委ねようではありませんか。

2.霊的な高ぶりに警戒しよう

仮にどんなに祈りが答えられる経験をし、献身を告白・実行し、豊 かな霊的生活を送ったとしても、それが他と比較して 自慢の種になったら、霊的傲慢という誠に始末の負えない罪に陥ります。

絶えず絶えず徹底的に謙りつつ、信仰生活を全うしようではありま せんか。

3.キリストの心を持とう

それにしても、イエスの心と弟子達の心の差というものの大きさを あらゆるエピソードにおいて感じます。

このギャップはペンテコステまで続き、弟子達が真に砕かれ、聖霊 に満たされることで埋められていきます。私達も同様で、自らが砕かれ、聖霊に満たされたいと思います。お祈り致します。


Message by Isaac T.Saoshiro,senior pastor of IG M Nakameguro Church

Compiled by K.Otsuka/February 13,2005 < BLOCKQUOTE>