伝道会メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日 本聖書刊行会)によります。

2005年2月13日

「愛を表現してみましょう」

竿代 照夫牧師

ヨハネの手紙第一 3章11-18節

該当聖句

1 John 3:11-18  

互いに愛し合うべきであるということは、あなた がたが初めから聞いている教えです。

カインのようであってはいけません。彼は悪い者 から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。

兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いては いけません。

私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知 っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっ ているのです。

兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもな く、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちを お捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、 兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見て も、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。

子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛 することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。

(ヨハネの手紙第一 3章11-18節)


1.愛とはキャッチボールのようなもの(ボールを投げ る)

今プロ野球のキャンプが始まっています。私も小さい頃は野球少年 でした。

野球の基本はキャッチボールですね。球を投げる、受け取る、また 投げる、単純な繰り返しですが、繰り返しているうちに会話が生まれます。

投げるほうは相手の胸に投げようと努めます。受け取るほうは、た とえ外れた球であっても胸で受け取るようにします。胸から胸へ、このコミュニケーシ ョンが愛情ですね。

2.ビタミン I(愛)不足

ビタミンAが欠けると目が悪くなるとか、Cが欠けると脚気になる とか、Eが欠けると骨が弱くなるとか学校で習った記憶があります。でも一番のビタミ ン不足 は「ビタミンI(愛)」ではない でしょうか。

残念ながら、愛されている経験がない、またはその経験が乏しい、 というケースがどんどん増えています。子どもが虐められたり、殺されたりする事件が 頻発していますが、犯人はというと、決まって幼いときに 愛される経験が乏しかった 、または、全くなかった人です。

この人々は特別なのでしょうか。そうではなく、これは皆が大なり 小なり、経験していることではないでしょうか。

愛を体験せずに育ち、家族も敬えず、友人もいなく、ゲームやネッ トの中でのみ会話をする人も多いといいます。親も核家族化してからというもの、子供 の接し方が分からない、育て方がわからないという人も多くなっているそうです。愛さ れていなかった、感謝されなかった、配慮されなかったということが、私たちの心の傷 となって残ります。

愛されていないだけではなく、善意を疑ったり、中傷したりする世 の中に私たちは住んでいます。無情な人から非難の言葉を聞かされます。そのような環 境で、愛が育つことは難しいのです。

3.愛の不足からの殺人事件

愛の不足から殺人事件が起きたことが聖書に書いてあります。カイ ンという人物です。

カインは人祖アダムとエバの長男です。弟にアベルがいました。常 々二人の 仲が良かったか悪かったか、聖書にはしるされていませんが、きっかけは弟アベルが 神に喜ばれ、カインは喜ばれなかったということです。そこから始まった嫉妬心が憎 しみとなり、憎しみが殺意となり、犯行に及んだというわけです。

今日読みました冒頭に、

カインのようであってはいけません。彼は悪い者か ら出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、 兄弟の行ないは正しかったからです。

とあるのはその物語を背景にしています。

兄弟ですと、カインとアベルのような競争心、嫉妬、争いというも のは起きがちです。私も7人の男兄弟、1人の姉という大家族に育ちましたから、兄弟 同士の微妙なぶつかり合いというものはよくわかります。

でも、この物語で残念なのはコミュニケーション不足です。カイン はアベルに向かって「ちょっとおまえ生意気だぞ」とかもっと正直に「おれのどこが悪 くて神様から遠ざけられたと思う?」とか、少しの会話があれば、喧嘩はあっても殺人 までは行かなかったのではないかと思います。

両親との間の会話もなさそうな雰囲気です。愛の不足ですね。です から、この聖書では、「互いに愛し合いましょう。」という勧めのあとでこのカインの 例が引かれるわけです。

4.愛のボールは最初に神の側から

愛の不足から殺人事件が起きたことが聖書に書いてあります。カイ ンという人物です。

人間が投げるボールには、暴投があったり、カーブがあったり、い わゆるくせ球があります。うっかりすると、デッドボールになりかねません。でも神は 私達にストレートなしかも決定的な「愛のストライク 」を投げて下さいました。聖書では、

ヨハネの手紙第一4:10 私たちが神を愛したのでは なく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、 なだめの供え物としての御子を遣わ されました。ここに愛があるのです。

ヨハネの手紙第一4:19 私たちは愛しています。神 がまず私たちを愛してくださったからです。

と言います。私は無条件であなた をありのまま愛しているよ、そのためにご自分の御子を遣わして十字架にかけることも 惜しくないほどなのだよ、というメッセージがキリストによって示されま した。そのキリストは十字架の上で命を捨てるまでに私達を愛して下さいました。

この手紙を書いたヨハネという人は、キリストの弟子です。一番可 愛がられた弟子と言えるでしょう。キリストが宗教家達と政治家達の陰謀で官憲の手に 捕まった時、他の弟子達は一目散に逃げてしまいました。ヨハネもその1人でした。

でも先生の行方が心配で、そっとついてきました。最後にはエルサ レム郊外のカルバリという丘のうえで十字架刑についたキリストの足下に吸い寄せられ るように来てしまいました。その十字架にかかった先生の口から、「天のお父様、私を 十字架につけた人々を赦してあげて下さい。彼らは自分達のしていることの意味が分か らないのですから。」と祈る祈りを聞き、「ああ、そうか、私の先生は私達の罪の赦し のためにご自分から命を捨てて下さった。ここに愛が見える形で現れた。」と実感した のです。ですから、

ヨハネの手紙第一3:16 キリストは、私たちのため に、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです 。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と言ったのです。ヨハネの実感がこの言葉に込められています。

5.愛のボールをしっかりと受け止めよう

私達はヨハネではありませんから、実感としてはこの愛を捉えにく いかもしれません。でもいつぞや公開された『パッション』や『ジーザス』という映画 を見たり、聖書の物語を読んだりすると、「神は私を愛して下さっている。 そのため に神の御子が命を捨てて下さった」ということが分かります。

特に、私がどんなに罪深い、曲がりくねった性質を持ち、愛しよう と思ってもそこに利己主義や偽善的な気持ちが混じってしまうと言うことを自覚すれば するほど、キリストの身代わりの十字架の重みがわかりましょう。

その時、この愛のボールを真正面から受け取りましょう。「神様、有り難うございました。私のような罪深い人間を見捨 てずに愛して下さいました。私はキリストの愛を受け入れます。あなたを救い主と信じ ます。感謝します。」と素直に、はっきりと告白しようではありませんか 。

若い恋人同士でも、「あなたは私と結婚してくれますか。」という 真剣な問いかけがあったならば、はぐらかさないで真剣に答えるものでしょう?それな らばなおさら、私達のために命を捨てて愛を示されたキリストに対して真剣に向き合い 、「イエス」と告白しようではありませんか。

6.愛を表現してみましょう

今日の最後のチャレンジは、愛の表現です。

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう 。愛は神から出ているのです。

私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、 行ないと真実をもって愛そうではありませんか。

とありますように、表面的な愛ではない、真実な愛をもって互いへ の愛を表現したいと思います。

イエス様は嫌いな相手でもその人をそのまま愛することを示されま した。どのように愛を表現すればよいかわかりませんという方もいらっしゃるでしょう 。

難しいことではありません。自分のまわりの人(家族、友人、職場 の人等)の願っていることをともに願ってみましょう。

その人がつまずいている問題点が解決するように願ってみましょう 。

そのように願うほどに自分のまわりのあの人を許 せるようになります。イエス様はそのような愛を私達にお与え下さる方で す。

7.おわりに−−−『テンダー・ラブ』から

1)時間と労を注ごう

日野原重明先生が、最近の著書である『テンダー・ラブ』の中で、 愛というものは、どれだけの時間をその愛の対象にあげるかによって計られる、という 趣旨のことを書いておられます。

教えられました。ともにいるだけではなく、愛しているよと動作や 言葉に出して言うことも大切と書いています。日本人はとかく恥ずかしがり屋ですから 、以心伝心でわかるじゃないか、と仏頂面を通すことが多いのですが、これは多くの場 合マイナスです。

思い切って家族同士、夫婦は勿論、友達同士でも時間を取り、愛を 言い表す努力をしてみましょう。

ある牧師のお嬢さんがお医者さんと結婚し、二人の男の子を設けま したが、乳ガンの診断を受けた話を日野原先生が記しています。それも体のあちこちに 転移してほとんど回復の望みのないところまで進行していたことがわかったのです。

そのお母さんは7歳と9歳の男の子にあてて、16歳になるまでの 毎年の誕生日と、中学の入学祝い、高校の入学祝いに向けて、沢山の手紙を残しました 。

子どもとの別れをただ嘆き悲しむだけでなく、手紙を書き続けるこ とによって、お母さんの愛が、その死後も子どもたちの中で成長し続けることを願った のです。

さらに葬儀の時のためにお友だちにあてた手紙も書きました。その 中で、病にかかって初めて、互いを思いやること、互いに赦すことの大切さが分かった こと、神の愛の中に子どもたちを委ねられることをはっきりと語っています。感動しま した。

2)笑顔を向けよう

やはりその本の中で日野原先生が、

・・・愛には、与える愛と受ける愛とがあり、愛は その二つの思いと行動のバランスの中に成り立つものです。・・・

と言いながら、自分は本当に愛を相手に注いでいたか、相手の心を 満たすことよりも、受けることばかりを考えてはいなかったかを問いかけるように勧め ています。強張った表情をまず取り除き、笑顔をもって愛を表現してみましょう。

3)赦しがたい人を赦そう

さらに日野原先生は、愛とは赦すことだと語ります。

今は憎しみの連鎖が中東を始め、多くの地域での果てしない戦いを 生んでいます。どこかで赦すという勇気ある行動を起こさなければ、この連鎖は断ち切 れません。

愛がマントであれば、そのマントは赦しの布で裏が付けられていな ければなりません。愛の行為は、自分が着ているマントを犠牲を払って脱ぎ去って、相 手に着せてあげることです。日野原先生の言葉をもう一度引用します。

・・・愛するということの裏には辛いこと、血の出 るような苦しみもあるのです。だから、私は本当の無償の愛というマントの裏地は、辛 さで血のにじんだ布で覆われていると言いたいのです。人を赦すということには、血の 出るような苦しみを伴うことがあるのです。その血の代償として、愛を受け入れる人は 救われるのです。・・・

本当に重い言葉ですね。私はイエス・キリストの命がけの愛によっ て救われ、愛を知った、だから、私も命がけで隣人を愛する。みんなもそうして欲しい 、と語ったヨハネの言葉をもってこのお話を終わります。お祈り致します。


Message by Isaac T.Saoshiro,senior pastor of IG M Nakameguro Church

Compiled by K.Otsuka /February 13,2005