礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2005年2月20日

「御前の破れに立つ」

井川 正一郎 牧師

詩篇106篇23節、出エジプト記32章1-4節

中心聖句

11-14 しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言った。「・・どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。・・」すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。

(出エジプト記32章11-14節

23 それゆえ、神は、「彼らを滅ぼす。」と言われた。もしモーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、御前の破れに立たなかったなら、どうなっていたことか。

詩篇106篇23節)


はじめに

 終末の様相を呈する時代です。これで本当に終わりとなるのでしょうか。或いは今の時代文化(米国を頂点した世界体制、石油文明等)を終えて、次のもう一つ新しい段階の時代(米国に代わる国民、或いは石油に代わる新しい資源が主力となるような)がやってくるのでしょうか。

 お互い、終わりに近付きつつあるとの意識をもって、今を生きています。個人的にも終わりを強く意識しています。今年のことば、すなわち、黙示録22章の終わり「主よ、来て下さい。早くして下さい」のことば、或いは旧約のダニエル書を改めて深く思い巡らします。

 もとより、不健全な終わりの意識に立ってはいけませんが、終わりを強く意識すると共に、今の日常生活を普段着の姿をもって、信仰をもって、たんたんと生き続ける必要があると考えております。

 終わりが近付いている時代が今の時代です。きよい者はますますきよくなり、汚れた者はますます汚れた者となるのです。しかし、神から離れて行く者が大多数です。滅びが迫って来ている緊迫した状況にある時代です。

 そのような時代にあって、必要なことは、まさに御前の破れに立つ器の存在ではないでしょうか。神と人との間に立って、とりなす器の存在、その必要を強く覚えるのです。聖書の中にそのような器たちが居たことを思い起こしまあす。アブラハム、ダニエル、エレミヤ等の預言者たち、ステパノ、そして主イエス・キリスト。

 きょうはその中の一人、モーセを取り上げました。詩篇106篇と出エジプト32章です。「御前の破れに立った器」。御前の破れとは、城壁の破れ口に立って、命がけで敵の軍隊を撃退・死守する勇士の姿のたとえです。


モーセが御前の破れに立った理由

 モーセはなぜ、御前の破れに立ったのでしょうか。3つの理由を学びます。

(1)破れているから

 御前に破れ口があるからです。敵の激しい攻撃によって、守るべきところが守れなくなっているのです。破られているのです。弱くなっているその場所に敵軍の主力部隊がやってきたら、一気に敗北、滅びをまねいてしまうとの状況です。イスラエルの民は金の子牛を造る偶像礼拝の罪を犯してしまったのでした。罪の払う価は死です。滅びが迫っている緊急事態です。

(2)神の約束に訴えたいから、まだチャンスが残されているから

 約束にすがって、何としても民を救ってほしい。滅びを免れせてほしい。神の約束とは具体的に何でしょうか。11-13節。神は父祖たちに約束して下さったではないでしょうか。御自身をかけて誓われたではないでしょうか。約束の地を永遠に与えて下さると。その約束に基づきモーセは必死に祈ったのです。

・この民を滅ぼすことは、ひいてはエジプト人の目には神が悪意をもって滅ぼしたとして、神の恥と写るであろう

・エジプト人で勝ち得たあの勝利の栄光が失われるであろう

・エジプト人に勝ち誇らす機会を与えてしまう

・アブラハムに対する約束に違反することになろう

と訴えたのです。一言で言えば、神の栄光(11-13節)がかかっている事柄であると強く迫る祈り、願い、訴えなのです。「思い直して下さい。」

 思い直すとは興味深いことばです。神は思い直されることがあるのでしょうか。議論があるところです。ともかく、神の目的・計画・みこころは変わらないものなのです。正しい者には正しく、悪い者には悪く、それ相応に対処されます。ここで言っているのは、神のみこころを選び歩もうとする者に、それに相応しく対応されるとのニュアンスです。

(3)モーセしかいないから

 本来からすれば、神とイスラエルの民の間に立ってとりなす務めを持つのは、大祭司アロンです。アロンが果たすべき役割こそ、御前の破れに立つことなのです。彼はコラの事件のとき存分にその役割を果たしました。

 しかし、モーセが山に上っていたこのとき、アロンはその役割を果たす事ができなかったのです。みずからが消極的姿勢ではありましたが、民と同じ状況の中にあったのです。とりなす人はいないのでしょうか。

 モーセは自分しかいいない。いや、あてはまるべきだ。大祭司でなかったとしても、彼は言うまでもなく指導者、預言者なのです。まさに狭い意味での立場とか地位とかに言っている場合ではないのでした。それらを越えて、或いはリーダーとして、預言者として当然のこととして、あてはまったのです。モーセ、あなたがあてはまるべき。彼は御前の破れ口に立ったのでした。

 あてはまることのできたモーセ。言うまでもなくリーダーだからとか、預言者であるとか、職務上だからといった形であてはまったのではありません。民を滅びから救いたいがために必死に祈ったのでした。彼はイスラエルの民のために、神にお願いしたのです。その願いの奥底には、おのれを捨てた心があったのです。31-32節です。彼の祈りの根底にあったものです。真の預言者、真のとりなし手の姿を見ることができます。

(結果)神は思い直して下さった、即刻の応答

 ただ、即刻の応答がないと思うことのほうが多いのではないでしょうか。そのように人間は思うってしまうものです。しかし、神は真のとりなし手の願いに実は、即刻的に応えて下さっているのです。それを目の前の実体験として手に入れるのに、長い時間、長い月日、年月を要することがあるものです(ダニエル10章12節)。


締めくくり

1)あてはまろう!(押し出される場合でも…)

 私しかいないという場合、モーセのように大きなことは為せないかも知れませんが、私の友人、隣人、私が一番近くにいる人のために、あてはまりましょう。一番近くにいるのは私なのです。神様はあなたをモーセとして必要としておられるのです。それは自分の意志でなく、神様から背中をポンと押し出される場合もあるかも知れません。

2)信仰をもって待ち望もう!

 あなたは21日待てますか、40日待てますか、1年待てますか。神様は、あなた願い、祈りにもう答えているのです。

 ご一緒に、お祈り致しましょう。


Written by S. Ikawa and Edited by N. Sakakibara on 2005.2.20