礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2005年3月27日

「新しい命の15年

井川 正一郎 牧師

イザヤ書38章1-20節

中心聖句

4 あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられます。「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう15年を加えよう。」

イザヤ書38章4節)


はじめに

 イースター、おめでとうございます。高い所からですが、長い間のお祈りを心より感謝申し上げます。本日から正式に奉仕に復帰することになりました。まさに、イースターの記念すべき朝から、復活がゆるされました。長い間、ご迷惑、ご心配をおかけ致しました。竿代先生はじめスタッフの皆様方の厚い御配慮を賜り、長い日々の静養期間を頂いたこと、感謝申し上げます。また病の期間中の皆様方の厚きお祈り、またお手紙、おはがき等による多くのお見舞い、お励ましを頂戴したことも大きな感謝でありました。有難うございました。

 病名はヘルペスです。腎臓機能の低下もあいまって耳の前、後ろ、目、まぶた、左側頭部に多くの発疹、腫れです。おたふく風邪はこのあたりがふくれますが、私は耳のこのあたりがふくらみ、腫れ、そして鋭い痛みが生じました。痛みの激しい病気の中で、ベスト3に入ると言われるヘルペスです。その痛みは激しいものがあります。

 その処置のために薬の服用と共に、痛みをとるための神経ブロック注射を、この首筋に10回行うことになりました。何よりも目、耳、あるいは頭の部分に出ていることは危険なことであるので、慎重に処置が行われました。食事の内容にも気をつけました。薬の服用、神経ブロック注射の継続により、幸いにも、否、その治療以上に皆様の厚いお祈りにより全き回復となりました。

 病院の医師は言いました。「井川さん、あなたの年齢になると多くは脳硬塞、あるいは心筋梗塞にあらわれるもの。ヘルペスでよかったよ。」「よかったよ」と言われても困るのですが、「ともかく脳硬塞、心筋梗塞にあらわれなかったことを幸いに思いなさいよ。」と医師に言われたことが心に刺さりました。病の症状をみると、何となく頭に梗塞があるのではないかと思われるふしがあったのです。痛いことは痛いが、梗塞にあらわれなかったことは幸いであるとの医師のことばを受け入れ、静かに治療に当たりました。

 治療の期間、静養期間、この霊的意味は何かを深く考えました。ある方は「神が隠されたのですよ。」と話して下さりました。その言葉を重く受け止めながら、幾つかのおことばが示されました。その一つがきょうのメッセージの箇所です。ヘルペスという病。どういう意味があるのでしょうか。「そうだ、私はやはり死んでいた。新しい別の命が与えられたのだ。ヒゼキヤのように15年が加えられたのだ!」

 15という数字通りとすると70歳まで。15が象徴的数字とすれば、70よりも加えられるか、それとも少ないか分かりませんが、それ相当の年数の奉仕がゆるされることでしょう。


病からの癒し(ヒゼキヤの感謝の祈り

 きょうはイースターです。きょうのメッセージ、本来ならば、復活の出来事それ自体、またその意義等を取り上げるべきでしょうが、病から癒されたとの復活の関わりから、証しを含めた少し違ったメッセージ、扱いになることをゆるして頂きたいと思います。

 イザヤ38章、平行記事が第2列王記、第2暦代誌にありますが、ヒゼキヤの感謝の祈りがあるのはイザヤ書だけなので、この部分を取り上げました。

 ヒゼキヤは死に至る病にかかりました。「あなたの家を整理せよ。死ぬ。直らない。」と神に言われました。「そのころ」(1節)とあります。そのころとは、紀元前701年頃、アッシリヤに攻撃される直前の時、あるいは侵攻中と言われています。イザヤ書はご存じの通り66章です。2つに分けると1-39章=イスラエルの罪と審判、40-66章=イスラエルの回復。3つに分けると1-35章、36-39章、40-66章です。

 36-39章は歴史的部分でヒゼキヤに焦点が合わされています。難しいことはともかくも、実は38-39章は36-37章よりも前に起きた出来事であると考えられています。とすると、そのころとはアッシリヤが攻め込む直前、あるいは攻撃されつつある時期です。ユダにとって切迫した状況、緊急状態にある時期です。そのような最中に死に至る病にかかったヒゼキヤでした。

 神に死の宣告を受けたヒゼキヤはどうしたのでしょうか。必死のお祈りをささげました。その結果、神が答えて下さったのです。癒して下さる、15年の寿命を加えると約束して下さったのです。そのしるしとして、日時計の影が十度戻るとの奇跡を表わして下さったのです。

 きょう、この箇所から新しい命の15年と題して、3つのことをお話したいと願っております。


1.新しい命が与えられた15年

 人間の命、生涯は神のみこころにかかっているということ、です。人の命、生涯すべては神の手の中にあるということです。生きるも死ぬも神にかかっていることを教えられます。ヒゼキヤがどんな病にかかったのでしょうか。21節の記事から推測できるのは腫物に関係するものでしょうか。内臓にできた腫物か、外側の皮膚に現れた腫物でしょうか?

 人は多くの場合、病にかかって死ぬのです。もとより、事故であるとか、他のケースもあり得りますが、ともかく病気はあくまでも死に至る方法手段であり、人の生死は人が決めるものでないのです。神のみこころにあるものなのです。病にかかり、何とか直ると思って治療にあたっていたかどうか。すぐに死の宣告を受けたか、ある程度の期間を経て死の宣告を受けたか、どちらにせよ、死の宣告を受けたヒゼキヤでした。

 改めて人の生死は神にあることを深く思い知らされます。彼は懸命にお祈りをささげました。彼は壁に向かってお祈りをささげたのです。その祈りが答えられました。死ぬと宣告された者が新しい15年の命が与えられたのです。たしかに外側だけをみれば、別に肉体は死なずに直ったというだけのこと=継続された命であるかもしれませんが、それは全く新しく神にゆるされた「新しい、別の命」と理解したいと思います。その理由は神が奇跡的なみわざをもってヒゼキヤのためにわざわざ与えられた命だからです。

 「主与え、主取り給うなり。」人の生死は神の手にあるものです。改めて心に深く刻み込まれます。

 脱線するようですが、日時計におりた時計の影を10度戻すとの奇跡は具体的にどのようなものなのでしょうか。 


2.新しい性質をもった15年

 新しい命に基づく15年であれば、当然にそれは性質的にも違ったものです。新しい霊的性質を持ったものと言いたい。言い換えると、さらなる霊的扱いを受けた15年なのです。

 それは家を整理せよとのみことば、またヒゼキヤの祈りの中に見出すことができます。整理とは家の片づけをせよと言うことではありません。ある人は死ぬ前にきちんと遺言をして混乱を避けるようにと解釈します。要は、死ぬにあたって必要不可欠な処置をしておくように、とのことです。彼はその宣告を受けた時、お祈りをささげました。祈りの内容が3節です。もとより私は正しいと自己主張しているような祈りではありません。遜りつつも大胆に神に迫っている祈りです。神の恵みの契約の約束に基づく祈り、これからの生涯すべてを神に信頼するとの決意の祈りです。まさに命をかけた、命を投げ出した祈りとも言えるのではないでしょうか。改めて整理せよとのみことばは意義深いものです。

1)身の回りの整理=もとより片付けろとの意味が第一ではないが、必要不可欠なものでないものが、多くありすぎるのではないでしょうか。

2)霊的整理=罪の処置、悔改め、です。多くの失敗、過誤、欠陥、足りなさ・不足等に対する悔改め、です。神への絶対的信頼、献身、服従はいかに。反省・吟味したいものです。

 それは9節以降の祈りからも伺えます。生涯の半ばで死ななければならない。死ぬとはいかなることでしょうか。彼は告白します。18節=よみは主をほめたたえることができない。まことを待ち望むこともできない。健やかなからだをもっての主のご奉仕にも当たれない=死んでは、語ることができない(15)。

 祈りの中での格闘によって、ヒゼキヤは神に扱われたのです。底の底にまで落ち込んで扱われたのです。17節。滅びから引き戻されたのです。すべての罪を後ろに投げて下さった=忘れ去って下さった。神が扱って下さったのでした。


3.新しい使命目的を持った15年

 もとより人の召命は変わらないものですが、新しい命をゆるされたヒゼキヤにとって、この15年の歩みは今までとは全く違った、別の新しいものとなるのです。具体的に言うと、

1)まず肉体的にいわゆる健康体をもっての使命奉仕。ここで言う所の健康体とはまさに体満足で特に、脳硬塞・心筋梗塞等によって病床の中にあっての奉仕であるとか、手足等が不自由になっての奉仕であるとか、頭の出血による言語障害の影響のある体をもっての奉仕ということでなく、という意味です。もとより、奉仕使命の果たし方はひとり一人違うものです。ある人はいわば体満足での奉仕。ある人は病床にあっての奉仕。ある人は手足が不自由な中にあっての奉仕という形。どれが良くて悪くてというものは神の前にはありません。どれもどの形も神のみこころにあってはその人にとっての最善の奉仕の形なのです。

 ヒゼキヤの場合はもとの健康体に戻るのでした。否、あたかも新しい復活体・健康体です。その体をもっての15年です。いかなる奉仕でしょうか。

2)6節。そして19-20節。6節=あなたとこの町の救い。ヒゼキヤは一度、アッシリヤに降伏しかかったのですが、この約束のことばでもう一度立ち上がって、アッシリヤと戦おうとしました。主が不思議なことをして下さり、アッシリヤの陣営を乱され、多くの者が主の使いによって打たれたのです。ヒゼキヤの病の回復とエルサレムの救いが不可分の関係にあることが示されています。これからの戦いは今までの戦いの姿勢ではないのです。救いをもたらす方はあくまでも神ご自身。あなたもエルサレムの民の救いも神がなさること。神がすべてを治め、導き、戦い、救って下さる。ヒゼキヤよ、それを深く理解した上で、あなたの使命目的を改めて吟味せよ。19-20節=彼は死から戻された者として生きることは、主が与える罪からの救いを伝え、主を宮で讃美することである。救いの喜びがユダの民の喜び、讃美となる願いが「私たちの生きている日々の間」に示されているかのようです。主の宮に上るとは、主の宮こそ、ヒゼキヤの働きの原点であることを明らかにしているのです。神はヒゼキヤに15年をゆるされました。アッシリヤとの戦いにおいて、その姿勢が示されたのです。

 しかし、みなさんがご存じのように最後の最後まで全うした生き方ではなかったのでした。彼はバビロンからの思い掛けない賓客を迎えて、大きな間違いを犯したのです。そして、この15年の間にあのマナセが誕生しています。最後に警戒せねばならないことは、15年与えられたからと言って、軽率極まりない態度にならないように、です。祈って頂きたいと思います。バビロンの使者に見せてしまう。そこには高ぶり、見栄を張るといった心が潜んでいます。マナセの誕生はそれ自体喜ぶべきではあるが、その後の対処に間違いがあったでしょうか。

 イースターの朝です。主イエスの復活の記念日です。よみがえりの命を与えられ、約束された者に相応しい心と態度をもって新しい生涯を歩みたいと思います。


しめくくり

(1)そのころと言われる「その時」があるのです。節目節目に神の深い扱いがあるのです。それは一度だけでありません。何度か人生の中で、神は我らを扱いなさる時があるのです。

(2)残された人生の月日、日数は神のものです。神から与えられたものとしての人生の使い方をしたい、神にすべてを投げ出した奉仕をしたい。換言すると、永遠に残る使命にあずかっていたいのです。20節。

  ご一緒に、お祈り致しましょう。


Written by S. Ikawa and Edited by N. Sakakibara on 2005.3.27