プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日 本聖書刊行会)によります。

2005年3月27日

「キリストの復活と私」

竿代 照夫牧師

ローマ人への手紙 5章6,8節

中心聖句

Rome 5:6,8 

もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリ ストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになってい るからです。

もし私たちがキリストとともに死んだので あれば、キリストとともに生きることになる、と信じます。

(ローマ人への手紙 5章6,8節)


A.はじめに

イースターおめでとうございます。

イースターは、十字架について葬られたイエスが、三日後に甦られ たことを祝う日です。死んだ人が甦るなんて、おとぎ話ではあるまいし、と本心では思 っている人はいませんか。しかし、皆さんが思おうが思うまいが、これは歴史の中に起 こった出来事です。少なくとも、弟子達はそれを真面目に信じ、その復活のメッセージ のために命を賭けました。

今日は、その事実性についてよりも、イエスの復活が私達、いや、 この「私」にとってどんな意味があるのか、そこに焦点を当て、聖書のあちこちを拾い ながら皆さんと考えてみたいと思います。

B.復活によって

1.私はイエスを神の子と信じる

ローマ人への手紙1:4b 死者の中からの復活により 、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。

もし、イエス様が十字架にかかり死んだだけで終わったならば、私 達は「そうか、今から2千年ほど前に、偉いひとがいて、貴い教えを垂れ、その教えの ために命を捧げた。そういうひとに見習いたいものだ」くらいにしか考えなかったこと でしょう。

でも、イエス様は死の中から甦っ て、「公に神の御子」としてご自分を示されました。だから、彼を主とし 、神として仰ぐことが出来るのです。感謝しましょう。

2.私の罪は確かに葬られた

ローマ人への手紙4:25 主イエスは、私たちの罪の ために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

旧約聖書には、動物の生贄についての思想で満ちています。罪を犯 したならば、その身代わりに動物の血が流される、という思想と実践です。でもその身 代わりは予行練習にしか過ぎない、本当に私達を罪から徹底的に救う力はありませんで した。世の罪を除く神の子羊として来られたイエス様が、徹底的な苦しみを受け、身代 わりとなってくださいました。

でも、彼が、死んだままだったらどうでしょう。「私達の罪のため に、誰かが死んだそうだ。ありがたいことだ。しかし待てよ。そんなふうに自分で勝手 に思っているだけじゃないの?」と考える人もいるでしょう。私だったらそう思います 。

その考えに釘を刺すように、聖書は

主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たち が義と認められるために、よみがえられたからです。

とだめ押しをしてくれます。「私 達の罪の解決は文字通り十字架でなされた、その証拠が復活である」と聖 書は確証を与えます。

3.私に復活の希望を与える

コリント人への手紙第一15:20 しかし、今やキリス トは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たよ うに、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。

主イエス様の復活は、後に続く私達のための初穂、先駆け、トップ バッターなのです。イチローがヒットを打つ、すると味方が全部元気づけられてどんど んヒットが出る、こんな関係なのです。

主イエス様が死に打ち勝ち、死を蹴破って甦られた、彼は後に続く 私達の先駆けです。つまり、私達も彼とともにいつの 日か甦るのです。この希望はクリスチャンである私に大きな励ましを与え ます。

どんなに人生で報われなかったとしても、惨めな状態が続いたとし ても、私達には光栄ある復活の希望があります。その希望は、失望をうち消します。何 と素晴らしいことでしょうか。

4.私を死の恐怖から解放する

コリント人への手紙第一15:53 「死よ。おまえの勝 利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」

15:54 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

15:55 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たち の主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

死ぬことを考えるのは誰でもいやです。私も、死に伴う苦痛、別れ を思うと、死ぬのが楽しいなどとは思いません。しかし、恐怖も持ってはいません。タ ブー視もしません。忌み事と恐れもしません。なぜな ら、死の針は除かれているからです。明るく死について語ることができま す。

昨年末に亡くなったある教会員は、亡くなられる数十日前から「聖 書の中の天国について書いてあることを読んでくれ」とリクエストしておられました。

一通り読んだとき、彼は本当に嬉しそうでした。「蔦田先生(=二 雄−つただつぎお・イムマヌエル綜合伝道団初代総理)に会えるなあ、(蔦田)眞実先 生(=まこと・インマヌエル主都中央教会第二代主任牧師)に会えるなあ」と楽しそう でさえありました。死の恐怖から解放する原動力、そ れは主イエス様の復活にあります。

5.私の体に活力を与える

ローマ人への手紙8:11b キリスト・イエスを死者の 中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなた がたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

主イエス様の復活を可能にした神の御霊は、私達の死ぬべき体をも 活かしてくださいます。肉体的に限界を感じ、疲れを覚え、もう駄目だと思うような肉 体的コンディションにある人でも、イエス様の復活を可能にした同じ御霊に頼ると、不 思議なような力が湧いてきます。

パウロは、その厳しい伝道者生涯の中で何度かノックダウンのよう な目に遭いました。でも彼は、「私はノックダウンされてもノックアウトはされない。 なぜならキリストの死に似たような体験をするときに こそ、私には不思議なキリストの復活の力が与えられるのだ」と言ってい ます。

これは本当です。私達は弱いとき にこそ強いのです。

6.私はキリストと共に生きる

ローマ人への手紙6:5 もし私たちが、キリストにつ ぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも 同じようになるからです。

ローマ人への手紙6:8 もし私たちがキリストととも に死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

私がイエス様を受け入れるということは、彼が私達の罪のために死 んだように、私も私の罪に関して−イエス様の身代わりを受け入れることによって−死 んだと計算することです。

すると、不思議なことが起きます。イエス様が私といっしょに生きておられるという実感が湧いてきます。実 感としての強い弱いはありますが、復活のキリストが私のうちに生きなさるのです。こ れこそが本当の意味でキリスト復活の恵みと言うべきです。

イースターが、遠い昔のおめでとうではなく、今 日の私のために祝われることを祈ります。お祈り致します。


Message by Isaac T.Saoshiro,senior pastor of IG M Nakameguro Church

Compiled by K.Otsuka /March 27,2005