礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2005年4月17日

 召天者記念礼拝

「その信仰に倣う」

竿代 照夫 牧師

ヘブル13章5-8節

中心聖句

7 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。

(ヘブル13章7節)


はじめに

 今日は今年度の召天者記念礼拝です。私達の教会では、毎年4月の第三日曜日を召天者記念礼拝と定めて、私達の教会で信仰生活をともにした方々で、先に天に帰られた人々を偲び、私達の希望を天に向けるという趣旨の礼拝をもっています。

 仏教では冥福を祈るために一定の時に供養を致しますが、私達の礼拝はそのようなものではありません。信仰をもって天国に行かれた方々ばかりですから、冥福を祈るまでもなく、天国での豊かな祝福に既に与っておられます。冥途でさまよっておられる心配は一つも要らないのです。ただ、地上に残っている私達が、先駆った人々を思いだし、彼らに尊敬を払い、その徳を偲び、その足跡に倣おうとする態度はとても大切です。キリスト教は、先祖を粗末にする宗教ではありません。先祖を崇拝はしませんが、尊敬は払います。先祖のために祈ることはしませんが、残ったものが彼らの足跡に倣うようにお祈りを致します。

 そのような意味で、今日はヘブル書の13章7節を説教のテキストとして選びました。「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」この中には三つの命令がありますので、それに沿ってお話致します。


A.思い出しなさい

13:7 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。

1.初代教会の指導者達を

 ここで「思い出す対象」となっているのは、神のみ言葉を人々に話した信仰の指導者のことです。教会において、指導者となる条件は、神の御言葉を学び、それに従う生活をし、それをきちんと整理してのべつたえることであります。この手紙が書かれた時に意識されていた指導者とは、恐らく最初の殉教者、ステパノ、ヨハネの兄弟のヤコブ、義人ヤコブらの事でありましょう。彼らはユダヤ人の怒りを買って殺されました。彼らの終わりは誠に見事であり、推賞に値するものでした。彼らは迫害のただ中でも神に対する忠誠を尽くしました。そのような彼らを神は決して見捨てなさいませんでした。ですから、彼らの死は光栄に満ちたものでありました。彼等は命 
をかけて神のみ言葉を伝えた人々でした。

2.この教会の指導者達も

 中目黒、その前身であった主都中央、更にその前の丸の内を含めて、指導者と言える方は、何としても創立者蔦田二雄先生、それに続く真実先生、国光先生、その他神の言葉を取次がれた先生方を指すと言えましょう。週報に挟んであった人々のリストで、その影響を直接間接に受けた人が殆どですから・・・。どの教会も聖書の聖言に立脚し、聖言を伝えることをその土台としていることは間違いありませんが、聖言をしっかり学び、捉え、それに生き抜こうというスピリットにおいて、蔦田先生始め、この教会が人後に落ちることは無かったと申しあげられます。

 蔦田先生は、聖言のメッセージにいきるために、戦争中は牢屋での生活をされました。多くの教会が時の政府と妥協して政府の喜びそうな事を話し、政府の喜ばないことを語らないとい 
う姿勢を示したときに、断固として、神の言葉を真っ直ぐに伝え、それに生き抜くことを、命を賭けて貫きなさいました。私はそこにインマヌエルのもっている強さがあると信じています。教団創立60周年を今年祝っており、その際に創立者達の説教がCDとなって発売されました。私もそれを伺いつつ感じたことは、何よりも説教が長いと言うこと、それも、背景の説明とか聖書が言おうとしていることが何であるかを忠実に説明しようとして、長くなっている、ということに気付きました。私達はそのような指導者に養われ、育てられたことを感謝し、誇りに思います。

3.み言に生きた信徒達も

 ですから、彼に育てられた信徒達は、神の聖言への信頼と服従のスピリットを打ち込まれました。例えば、祈祷会の証などで、信徒達は多く聖書の聖言を開いてから証しするという習慣がありました。自分の語る言葉が、聖書の思想に裏付けられたものであるという証をそこで示した訳です。先週の祈祷会でも司会の田中大五郎さんが、書き込みでいっぱいになった聖書を示しながら、如何に詳しく聖書を学んでいたかの証をされました。召天された人々の聖書がいっしょにお棺に収められることがありますが、まあ、実に良く読んでおられるな、と感心させられるものばかりです。私達はそのようなタイプの聖徒達を持っていたことを誇りに思い、その足跡に倣いたいものと思います。


B.見なさい

1.ステパノの終わり方を

 この手紙が書かれたのは、紀元60年代です。キリスト教が始まって、まだ30年くらいしか経っていません。ですから、「彼らの生活の結末を」といっても、まだ聖書に記されている限りでは数人しか考えられません。でも、その終わり方は強烈な印象を初代教会に与えたものと思われます。

 その中でも、最初の殉教者・ステパノは、大きな印象を人々に与えました。彼は、キリスト教に反対するユダヤ人達の前でキリストを神の子と公言します。しかも、反論できないまでのきちんとした理由を順序立てて行ったものですから、人々はただ石打を持って彼を殺してしまうのです。でも、その石が雨霰と自分に降り注いで来る中で、彼は二つのことをします。一つは、自分を石打にするものに対する赦しを祈るのです。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」(使徒7:60)と。もう一つは、開かれた天に、キリストが神の右に立っておられるのを見て、「主イエスよ。私の霊をお受けください。」と祈ります(59節)。

 その姿は余りにも神々しく、迫害の筆頭にいたサウロという若者に拭いがたい印象を与え、暫く後に彼がキリストを信じて、世界を股に掛ける宣教師とさせる結果と生みます。

2.聖徒達の最後を

 今日記念する聖徒達の何人かの最後を私も覚えています。どの一人も、良心の呵責に悩みつつ、悶えて、というケースはありませんでした。むしろ、「天国って素晴らしいところですよ。お医者さんも、看護婦さんも、みんないらっしゃい。」と、笑みを湛えつつ召された方、感謝、感謝、と叫んで終わった方、イエス様万歳!と叫んだ方などなど、その終わり方は印象的でした。そして、その終わり方は、人生はそこで終わらないで、永遠に続くんだという希望を私達に印象づけるものであったということが出来ます。

 今日ここに集われた皆さんも、既に召された方がどんな終わり方をなさったかを印象深く覚えてお出ででしょう。その終わり方に象徴される普段の生き様、それに象徴される天国への希望を、しっかり見たいのです。このヘブル書の記者は、それをチラッとではなく、しっかり見つめなさい、と言っています。画家がモデルを見つめるように、よーく見るのです。私達がここに集ったのは、私達の先輩方のいきざま、終わり方、そして現在のありかたを、漠然としてではなく、画家がその対象をしっかりと見るように、しっかりと見つめるためなのです。


C.倣いなさい

1.「信仰に」注目

 私達は人間ですから、よく見れば見るほど、欠点も見えて参ります。昨今白内障の手術をなさった方が、手術後は見えすぎて困ったと言っておられました。何が見えすぎるのですか、と聞きましたら、テーブルの上のゴミとか、そんなものが気になって仕方がない、のだそうです。私達も、先がけった人々を見ると、あれも悪かった、これも悪かったと思う点は沢山あるでしょう。あれでもよくクリスチャンなどと言えたものだ、なんて思える面が一つもない人はいないでしょう。それらに目をつぶる必要もありませんが、あえて拡大する必要もありません。何を見るか、むしろその弱さ、過ちを弁えつつも、その故にこそ彼らが抱いたキリストへの信仰を学びたいのです。

 信仰とは、信念の強さのことではありません。人間は全く神の前には弱いもの、罪深いもの、愚かなもの、ということを徹底的に認めた上で、それ故にこそ神の恵に依りすがる、これが信仰です。少なくとも、聖書が述べ伝えている信仰とはこのような信仰です。その意味で、私達も、故人となった方々が何故キリストを信じていたのか、そうせざるをえなかったのか、その本質を見極めたいと思います。

2.「倣う」こと

 見極めたならば、それに倣いたいと思います。倣うとは、「真似をする」ということです。その信仰を自分のものとすることです。難しいことではありません。たしかに、信仰の大きさという点からいえば、私は蔦田先生のようにはなれません。かれは、徒手空拳、無から有を生じる信仰をもって群を建て上げ、育てなさいました。経済的にも、大きなプロジェクトに大胆に挑戦し、それをクリアされました。日本の福音派を纏めて、一つの同盟にするという事業を信仰によって成し遂げた方でもありました。

 そのようなスケールの大きな信仰は、それぞれの個性なり賜物なりというものがありますから、みんなが蔦田先生の真似はできません。けれども真似しなければならない、真似できる面はあります。それは、人間の限界をはっきりと見極めて、100%の信頼をキリストに置くという点であります。私はその点では人後に落ちないと思っています。それは、自分の足りないこと、弱いことを人一倍自覚しているからであります。その意味での信仰ならば、ここにおられる方はみな、倣うことが出来なさるのではないでしょうか。


終わりに(キリストに注目)

13:8 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」

 今も、申しあげましたように、私達が最終的に目を付けるべきお方はキリスト、キリストのみであります。そして、このキリストは「昨日も今日も何時までも変わらない」お方です。昨日も、という言葉の中に、キリストが成し遂げて下さった救い、身代わりの死が含まれています。

 今日という言葉の中に、甦って今も活きておられるキリストが示されています。何時までもという言葉の中に、私達の肉体が朽ち果てても、永遠に続く至福の世界に導きなさるキリストが示唆されています。このキリストにより頼むことをもって、今年の召天者記念を意義あるものとさせて頂きましょう。お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2005.4.17