プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日 本聖書刊行会)によります。

2005年5月1日

信仰に生きる1
「信仰による救い」

井川 正一郎牧師

マルコの福音書 10章46-52節

中心聖句

Mark 10:52 

するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きな さい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようにな り、イエスの行かれる所についていった。

(マルコの福音書 10章52節)


A.はじめに

マルコの福音書10章をお読みしました。

主イエス様がエリコという名の町にやって来られたとき、バル テマイという道ばたに座っている目の不自由な人がいました。

主イエス様のことを何かによって聞きつけていたのでありましょう 、懸命に、

マルコの福音書10:48b 「ダビデの子よ、私をあわ れんで ください」と叫んだ。

とあります。

まわりの者たちは黙らせようとしてたしなめましたが、主イエス様 は わざわざ立ち止まって、その人をお呼びになりました。

目の不自由な人は立ち上がって、イエス様のところにとんできまし た。主イエス様にしてほしいことは目が見えるようになることでありました。そのあと の主イエス様のおことばは興味深く、「あなたの信仰 があなたを救ったのです。」と仰いました。

信仰に生きる1として、「信仰に よる救い」が今回のテーマです。

今回はこの10章52節を中心に、信 仰による救いとはどういうものかを学びたいと思います。

B.救いの条件は信仰

まず一つ目は、あくまでも救いの 条件は信仰との意味であるということです。これは何かの行いによって、 救いを得るのでなく、信仰によって、ということであります。

自分の努力や勤行を積み重ねて、ついには悟りを開く、救いを得る というものでなく、救いの条件は信仰によります。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救 われます」という聖書の言葉があります。信仰によってのみ、人は救われるのでありま す。

このバルテマイもその例外ではなく、彼の信仰によって救いを得ま した。それでは、信仰とは具体的にどういう意味か。次に考えたいと思います。

C.主イエスを救い主であると 心から受け入れる

二つ目は、信仰とは、主イエスを 自分の、私の救い主であると心から受け 入れることであるということです。これで良いのだと心から納得し、信頼 することです。

信仰とは主イエスに対する信頼をいいます。主イエス様に対する信 仰の中に、悔改めと主を主として受け入れる絶対的信頼が含まれます。すなわち当然な ことですが、主イエス様を私の救い主として認め、受け入れるためには、今までの違っ た方向、信頼、そう言った事柄から離れて、「回れ右 」する必要があります。箇条書き的にまとめますと、まず、

1)今までの心や生活が間違った方向やそういった事 柄に向いていたことを認めること

「私は神に逆らい、神を信じない、間違った事柄をし、間違った方 向に心を向けていた」という罪を認めることであり、悔い改めることです。具体的に言 えば、その罪から離れることであります。

2)間違ったものと認めたならば、回れ右する。方向 転換すること

です。心、目を正しいものに向ける、 180度の転換であります。

3)その正しいものとは主イエス様であり、私の罪の 解決主/救い主として信頼すること

です。具体的に言いますと、主イエス に向けられた信頼を信仰といいます。今までの罪、また悪い生活をゆるし、ま た新しくして下さる方は主イエス様であり、主がそれを行って下さると、主ご自身と主 のわざを信じることであります。

4)信頼した、その時点その瞬間を大切にしつつ、そ れは日常の生活となっていくことが大事。正しいお方に信頼を置いたならば、その信頼 に基づいて生活を始めること

です。

D.生活することにつながるものを受け入れる

ですから三つ目は、信仰とは生活 することにつながるものであるということです。

これでいよのだと心から納得し、信頼することです。今回とりあげ た箇所から学ぶとすれば、

マルコの福音書10:52b すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所についていった。

とあります。確かなことではありませんが、彼は主イエス様の弟子 の一人となって、主イエス様のお役に立つ人物となったのではないでしょうか。

たとえ献身者のようにならなくとも、日常の信仰者として、主イエ ス様に従うことはできます。今までの道ばたにすわって動かなかった人−ある意味で人 生の脇道(道ばたに)座り込んで動かなかった人−が、主イエスを知ることによって 見事に方向転換しました。

主イエスの行かれる所についていく人生であります。道の真ん中を 歩み、目的・使命のある、動きのある、自由で活発な働きの人生がスタートし、継続さ れていったに違いありません。

信仰は生活となっていきます。そしてそれは相互交流のものですか ら、信仰は交わり、あるいはお互いを更に深く知るとの営みともなります。

E.おわりに

「信仰は聞くことから始まる」と他の聖書の箇所にありますが、信 仰は聞くとの姿勢から始まることを最後に話したいと思います。 信仰者とは、常にどこかの地点での始まりがある人のことであ ります。

バルテマイは主イエス様のことを聞いて、救いを求めました。彼の 一番の課題であった目の不自由さを訴えました。それゆえか、それだけでないかもしれ ませんが、そのことで彼は生産的でない、道ばたの人生を送っていました。

『神なんかいるものか』と罪の心を持ち、その生活をしていたに違 いないバルテマイでした。そのとき、主がやって来られ、人生が大きく変わったことを 心に留めたいと思います。

「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救っ たのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所についてい った。---今回のメッセージです。お祈りします。


Message by Shoichiro Ikawa,deputy pastor of Na kameguro IGM Church

Compiled by K.Otsuka /May 1,2005