礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2005年5月15日

 五旬節に因んで

「みなが聖霊に満たされ・・」

竿代 照夫 牧師

使徒の働き2章1-4節

中心聖句

4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

(使徒2章4節)


はじめに

 ペンテコステの朝を迎えました。今日は、いわば教会の誕生日です。世界のキリスト教会が一緒になって、現在の教会をこのようにあらしめた誕生の原点を、しっかり見つめることはとても大切でありましょう。その意味で、今日はペンテコステの時に「みなが聖霊に満たされた」という記事に焦点を当てて、使徒2章を学びたいと思います。


A.満たされた時

1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

1.旧約における五旬節

1)三大祝祭の一つ

 五旬節というのは、ユダヤ人たちが聖書の定めに従って毎年守っていた三つのお祝いの一つです。
 一つは3、4月ころの過越の祭で、子羊の生贄を捧げ、種を入れないパンを食べることによって出エジプトを記念するものです。二つ目は5、6月の五旬節で、収穫の感謝を表すものです。第三は9、10月頃の仮庵の祭で、仮庵に住むことで出エジプトの苦しみを記念するものでした。

2)五旬節の意味

 五旬節とは、大麦の収穫の終わりを祝うもので、さらには、過越によってエジプトを出たイスラエルが、その50日後にシナイ山で律法が与えられたことを記念する、という目的を持っていました。キリスト時代に当てはめると、過越の祭の時にキリストが十字架に付けられ、その50日後に聖霊によって内なる律法が与えられたことと対比されます。

 その喜びには、全イスラエル人だけではなく、在留異国人も加えるべきことが勧められています。外国人のために、畑を丸く刈って、落ち穂を拾わせなさいなどという規定が記されているのは収穫祭である五旬節との関連で記されています。新約の五旬節が、多くの国々から巡礼に来た人々に福音を伝える機会となったことと対比されます。実際的には、過ぎ越しの祭に集まるのはパレスチナのユダヤ人、五旬節には離散ユダヤ人が多く集まる傾向にありました。これは季節的にも春の真ん中で、旅行には最適のシーズンだったからでしょう。

2.弟子達の祈りと備え

 主イエスが昇天されたのは、復活節の40日後でした。その後、弟子達はエルサレムを離れないで、聖霊を求める祈り会をずっと続けていました。10日目の五旬節の日に、その祈り会が答えられるという保証は何もありませんでしたが、心を合わせた熱心な祈りがずっと続けられていました。

 ガリラヤ出身の人々が殆どである弟子達が10日間もエルサレムに留まると言うことは容易いことではなかったことでしょう。食事はどうしていたのか、泊る所はどうだったのか、具体的なことを考えると、大変なことが多かったと思います。彼等が留まっていた二階座敷の持ち主はマルコのお母さんのものであったと思いますが、いくらお金持ちでも、この大勢の居候を養うことは大変だったことでしょう。そんな裏方のストーリーは一切明かすことなく、聖書は単純に「みなが一つ所に集まっていた」と報告しています。

 一ケ所に皆が集まる、心一つに祈る、そこに力があったのですね。「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」(マタイ18:19)まして、二人でなく、120名くらいが心を合わせて祈ったのですから、大きな力となったことでしょう。


B.聖霊の満たし

2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。

1.音:聖霊降臨の象徴

 風のような響きが突然起きました。ゴーッというような物凄い響きであったことでしょう。風が吹いたとは記されていません。風のような響きであった、と記されています。その時に竜巻が起きたのではなく、音だけが天から響いてきたのでしょう。聖霊が満ちなさる時に、必ずこのような徴が伴うとは限りません。むしろ静かな形で満ちなさるケースの方が多いと思いますが、この時ばかりは、ここから聖霊の時代が始まるのだ、という就任式の祝砲と考えられましょう。それは弟子達にとって、ああ、今祈りが答えられたのだという実感を与える為であり、またエルサレム市民にとっては、あの辺の家で大きな音がした、行ってみよう、という一つのアトラクション的な効果を持っていた、とも思えます。

2.火:聖霊によるきよめの象徴

 火そのものではなく、「火のようなもの」とあります。モーセが見た燃える柴を思い出させます。弟子達も熱かったとは感じなかったようです。バプテスマのヨハネが、主イエスを指して、「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイ3:11)と預言したことを思い出します。

 火はきよめの象徴です。清き霊である聖霊は、きよめる霊でもあります。信じる者の心にある罪の残りかすを浄化なさるお方です。ワイレーという神学者がここを解説して「火というシンボルは、聖霊のお働きが、心をきよめ、魂を貫き、活かし、造り変えるものであることを意味する。それが、各人に分かれて与えられたことは、一つの御霊が一つのキリストの体をなしている個々人に与えられたことを意味する」と、言っています。難民キャンプにヘリコプターで救援物資をドサッと天から送るような乱暴な方法ではなく、一人一人に届けられるような丁寧さをもって配達されたのです。それも一つの火の塊から分かれた、という形です。つまり、同じ御霊が私にも、友にも、与えられたのです。「みなが聖霊に満たされた」とはこのような意義深いものでした。

3.心のきよめ

 このペンテコステから約10年後、ペテロの奉仕を通してコルネリオというローマ軍人とその家族が聖霊を受けます。それは第二のペンテコステとも呼ばれる出来事です。さらにその5年程後のエルサレム会議でペテロは、始めのペンテコステと10年後のペンテコステの共通的な核心は、「彼らの心を信仰によってきよめてくださった」ことだ(使徒15:9)と断言しています。耳で聞こえる音も印象的でした。目で見える火のようなものも驚くような経験でした。異国の言葉で話出したことも驚くような奇跡でした。

 しかし、それらの現象は過ぎ去るものです。ペテロは、心のきよめこそがペンテコステの核心的な経験であると自らの経験も含めて見抜いたのです。今日の必要も、バタバタと倒れてみたり、笑い出してみたり、とかいう心を興奮させるような経験ではなく、徹底的な心のきよめなのです。明け渡して、御霊よ、満ちて下さい、私の心を占領して下さい、清めて下さいと単純にそして真実に祈るとき、主は満たして下さいます。「つばさ」五月号に、国光勝美先生が、聖霊に満たされるという経験は、いわゆる霊的な巨人と言われる人々だけの経験ではなく、「誰にでも手の届く経験、誰もが期待されている経験である、と述べておられます。(p.7)


C.聖霊による宣教

4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

1.聖霊に押し出された宣教者

 他国の言葉で話しだしたことも、驚くような出来事でした。注意すべきは、少なくともペンテコステにおけるこの発言は、訳の分からない恍惚的な言葉ではなく、理性に満ちた外国語による説教であった、という点です。五旬節のために地中海沿岸各地から集まって来たユダヤ人に対して、その土地の言葉で福音の説教がなされたのです。それが出来た理由は、「御霊が話させてくださるとおりに」であったと記されています。自分勝手に何かをしゃべったのではなく、語る毎に、聖霊の導きを信頼しつつ、彼の主導権を認めつつそれに従ったのです。

2.聖霊に捉えられた聴衆

 この「聖霊に押し出された」宣教は、聖霊に捉えられた魂を結果しました。37節を見ると「人々はこれを聞いて心を刺され」と記されています。この言葉は、文字通りの意味は、鋭い切っ先で刺されるということで、この場合は、ペテロの説教で引き起こされた鋭い痛みの伴う感情です。彼らは、慈愛に満ちた主イエスを「十字架につけよ!」と叫んだその行為を本当に申し訳ないと感じたのです。そして主イエスを信じ、バプテスマを受け、そして一人一人が聖霊をうけました

 38節にペテロの言葉が記録されています。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」そして41節「彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」のです。これが教会の始まりであります。


終わりに

1.教会の鍵:みなが聖霊に満たされること

 教会の始まりのは何だったのでしょう。私は4節にあると思います。「みなが聖霊に満たされ・・・た。」特に、「みな」ということに心を留めましょう。

2.聖霊に明け渡す真実な祈りを

 クリスチャンとして歩んでいますが、1度、カバンをひっくり返して中身を全部出すように、自分の考えや思いをすべて出し切って、「このような者ですけれど、聖霊で満たして下さい」と、真実な祈りを捧げることを、主は望んでおられるのです。お祈り致しましょう。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2005.5.15