第一礼拝 メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日 本聖書刊行会)によります。

2005年5月22日

第一礼拝 「最も小さい者たちの ひとりにしたこと」

井川 正一郎牧師

マタイの福音書 25章31-46節

中心聖句

Matthew 25:40

すると、王は彼らに答えていいます。『まことに 、あなたがたに告げます。あなたがたは、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さ い者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

(マタイの福音書 25章40節)


A.はじめに

マタイの福音書25章40節をお読みします。

すると、王は彼らに答えていいます。『まことに、 あなたがたに告げます。あなたがたは、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい 者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

今週なかば、5月24日はジョン・ウェスレー回心記念日です。1738年 、既に伝道者になってそれなりの奉仕に当たっていましたが、心から救いの経験を持っ ていませんでした。しかしついに5月24日転機を迎え、心からの経験をしました。詳細 は省きますが、。今回、短く彼の運動働きの特色を箇条書き的に整理し、彼の運動−メ ソジスト運動の特色は5つにまとめてみました。

B.メソジスト運動の特色

(1)福音運動=聖書のおことばに基づくもの、

(2)人格変貌運動=主イエス様にあるたしかな救いの体験、経験。個 人的に明確な宗教的確信を得る。単なる思想、考え、価値観といった頭の理解だけのも のでなく、。頭の理解と共に、たしかな心の経験、事実、そして人格/品性に変化を与 えるもの、

(3)実践/生活運動=心、たましい、人格/品性に変貌を与える故に 、それはおのずと実際生活、態度等の外側に表れ出るものであります。心だけでなく、 生活ひいては生涯に大きな影響、変貌をもたらします。その生活を正しく送るためにも 大切なことがメソジズム、ある特定のメソッドの大切さが示されます。

(4)社会運動=ひとりの人が、またその人から隣の人へ、また隣の人 へと、燎原の火のごとくこの体験的信仰運動は広がります。

ここかしこで酔いどれは聖徒に変えられ、暴徒は使徒のように変わ り、賭博場は集会場に変わっていきました。

特にウェスレーの働きで特筆するべきなのは、社会の第一線で働く 男子が救われていったことであります。社会の中堅層が捕らえられた働き、しかもそれ は労働者だけにとどまらず、教会と宗教をいわば外に持ち出したような働きであり、そ の結果貧しい人々、孤児、受刑者、病人らが心から顧みられ、救われていき、至る所に 、教会(伝道所)とともに学校、図書館、衛生施設等が設けられていきました。 社会一般の趣味娯楽といったところにも光が与えられ、ついには奴隷解放運動にも実質 的な推進力を及ぼしたものであります。

福音伝道者でありながらも、生きた社会をそのままつかみ、多くの 社会問題にも届くご奉仕をされ、それがいわゆる個人的福音運動、個人的人格変貌運動 という福音の本質を見失うことなく、それが果たされたところに大きな意義があります 。えてすると、個人的救いの業がないがしろにされて、社会運動だけに行きがちになる 危険性がある中で、であります。

(5)これがあくまでも自発的なもの=宗教はいやいやの世界でも、強 制脅迫でなされるものでもなき、主の贖罪による押し出されたもの、喜びと感謝に満ち て行われていくものであります。

当初のメソジストのグループとはそういう集まりで、主にある喜び と感謝に満ちた人々が自発的に集まるグループであります。

先ほどのメソッドに当てはめていこうとする心は喜んであてはまる 人々で、それがいやな人は別にこのグループに参加する必要がないのであります。

冷たい心でそう突き放すのではなく、別の考えがある人は別のグル ープを形成すればよいのであって、いやいやであるとか、強迫観念などない同じ心の人 の集まりです。宗教の本質はそこにあり、今回の礼拝もそのような心を持っている人々 の集まりであると信じたいのであります。

ですから、そういう類いの信仰者の集まりは人が見ていようが見て いまいが、人の目があろうとなかろうと、常に同じ信仰の姿勢、誠実真実忠実な姿勢を 保って生活を送ります。

今回の該当箇所であるマタイの福音書25章にありますように、人 が見ていようが見ていまいが、いつも主にある心をもって、主を愛する心と同じ心をも ってことに当たる人−これが本当の信仰者の姿であります。

当初のウェスレーの働き、メソジストの働きを思い起こしつつ、現 代の私たちの姿を改めて、この箇所から吟味したいと導かれました。

C.マタイの福音書25章から

今回の箇所はたとえ話の一つです。

25章には、10人のおとめの話、タラントの話、そして羊と山羊 の話と三つの例え話があります。

実は24章後半からつながっているもので、24章後半に全財産の 管理をまかされたしもべの話があり、この4つのたとえ話に共通するものがある。主人 がいない、不在、留守の三つです。

…<でも、いつかはその主人は帰ってくる。その時になると、主人 は不在の間の僕たちなどの働きを評価、精算する。まさに、近い将来に必ず、再臨があ る。主がおいでになる時がある。それまでの間、どういう心をもって、どのように過ご したか、主人の帰りを待ちながらどのような心で待ち、また今を過ごすか。目をさまし ていなさい。>…そういう共通の思想が続いている箇所であります。

今回、この羊と山羊のたとえ話から、4つのことを学びます。

D.今回学ぶこと

まず一つ目は、主人が見ていよう が見ていまいが、同じ心と姿勢であるということです。

主人は不在、留守です。主なる神が不在のように思われますが、た とえ遠くにあったとしても実は見ておられるとの意識の大切さがあります。

ここでは、見られているといった意識も全くない人が出てきていま す。この人は主人が見ていようが、見ていまいが全く同じ姿勢−心と態度を保つことの できている人です。主人が不在だから、留守だからといって手を抜くことがあり得ます 。

鬼のいない間の洗濯ではありませんが、手を抜く。ちゃらんぽらん な態度を取る。あるいは主人の見ている時と見ていない時では全く違う態度をとります 。

主人の前ではへいこら、へいこらと謙遜そうな振舞いをするが、一 旦主人がいなくなると全く違う横柄な態度となります。世の中には多いのであります。 主人が見ていようが見ていまいが、全く変わらないいつもと同じ心と姿勢でありたいも のです。

二つ目は、いつも主は見ておられ るとの心/姿勢の大切さであるということです。

主は見ておられ、そして同時にすぐそばにおられるとの意識であり ます。

実際、主はそばにあり、見ておられるお方です。主は、そして神は 不在ではありません。

不在のように思える状況、お留守のように思える状況にみえます。 特に、今の時代など、神なんかいるものかと思われるような時代です。

しかし、これは今の時代だけのことでなく、過去の教会歴史の長い 年月、そのように思われるような時代、出来事があり続けました。

そう思える状況でも、神はおられる、見ておられると信じることが できるか。そう信じて、そう信じた者のような信仰者にふさわしい、変わらない心と姿 勢をもって歩めるかどうかを主は見ておられ、そして近い将来、その評価、精算をすべ く目の前にあらわれる−戻ってこられるのであります。

神を見るとは、神が私を見ておられるとの意識を持つ営みのことで あります。 神が見ておられ、神がそこにおられるとの現実的理解に立つ意識を持つこ とであります。

三つ目は、主は愛しておられると の心であります。

 最もに小さいものと言われる一人一人に、心をとめられるのが主 であります。

 心をとめるとは関心を払うだけのことではありません。関心を持 つことは誰でもできますが、関心を持った上で心にとめます。

 心にとめることは行いにあらわれることに直結し、犠牲にあらわ れる。主の十字架のみわざがそれです。その愛が私に注がれている。加えて、他の人々 にも注がれていることを忘れたくないのであります。

四つ目は、主を愛するとは、人を 愛すること=人を愛するとは、主を愛することであります。

 最もに小さいものと言われる一人一人に、心をとめられるのが主 であります。

この箇所はまさにそれを言いたいところで、主が見ていようが見て いまいが、主を愛するとは人を愛することです。人を愛することは、結局主を愛するこ とであります。

主はどこにもおられないかに思える。しかし、主はたしかにおられ 、人の思っていること、行っていること、見ておられる事実、証拠があり、「主は私の ところにおられ、最も小さき者のところにもおられたという言い方がある…。」のであ ります。

E.おわりに

今回のメッセージから皆さんの生活にあてはまることを三つ申し上 げます。

(1)主は常に私のそばに、私の ところにおられるということ、

(2)主は私を愛し、隣人をも同 様に愛しておられるということ、

(3)プラス・ワンの愛を! ---ということです。大きなことなどできないでありましょう。小さなたった一 つだけかもしれないが、一つ、プラス・ワンの愛を注ごうではないかということであり ます。

しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたし にしたのです。---

今回のメッセージです。ご一緒にお祈りしましょう。


Message by Shoichiro Ikawa,deputy pastor of Na kameguro IGM Church

Compiled by K.Otsuka /May 22,2005