プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日 本聖書刊行会)によります。

2005年5月22日

「信仰に生きる3 信仰による歩み 」

竿代 照夫牧師

ガラテヤ人への手紙 2章20節

中心聖句

Galatians 2:20  

私はキリストとともに十字架につけられました。 もはや私が生きてるのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私 が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を 信じる信仰によっているのです。

(ガラテヤ人への手紙 2章20節)


A.はじめに

今回とりあげる聖句は、新約聖書の中でも、一番といっていいくら い親しまれているものですが、読めば読むほど分からない聖句でもあります。これを語 っているパウロは死んでいるのか、生きているのか、よくわかりません。私というもの がなくなってしまったようでいて、なくなっていないとも言っています。どこに真意が あるのでしょうか。

B.律法主義が問題

そこで、本当の意味を知るために前後を読む必要がありますので、 19節と21節を読んでみましょう。

ガラテヤ人への手紙2:19 しかし私は、神に生きる ために、律法によって律法に死にました。

ガラテヤ人への手紙2:21 私は神の恵みを無にはし ません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です 。

20節の言葉は、19節と21節という、サンドイッチでいえばパ ンとパンにはさまれた中味のような位置にあります。19節には、

ガラテヤ人への手紙2:19 しかし私は、神に生きる ために、律法によって律法に死にました。

と「律法主義」に死んだと言っています。 21節では

ガラテヤ人への手紙2:21 私は神の恵みを無にはし ません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です 。

と言って、「救いは律法によらないこと」を強調しています。20 節だけが突出していて全然別の話題を語っているのではありません。

パウロは、自分の救いの経験を語り、「自分はそれまでは、律法を 守り、正しい生活を送ろうと努力することによって救われようとしていたが、キリスト の十字架の意味が本当にわかった時、自分の正しさを 通そうとする態度と生き方をやめて、自分を100%なきものと計算し、キリストの力 を100%計算してお頼りする生き方に変わった。」と告白しているので す。

C.「よい子」ほどむずかしい

私が最近読んでいる『帰ってきた放蕩息子(ヘンリ・ナウエン著) 』では、放蕩息子の兄こそ、一見まじめに見えながら心は神に遠いと語っています。

著者のナウエンは、自分も長男に生まれ、父の期待に沿うようなよ い子を演じる少年だったと回顧しています。

よい子は、それが認められなければよい子を演じる意味がなくなり ます。父に認められたいための真面目な生活には押し込められた自我があり、他人に対 しては裁きと怒りの心、父に対しては不満が押し込められた状態だというのです。

パウロが、自分のことを罪人の頭と言っているのはこのことでしょ う。

正しくあろうとすればするほど、それに遠い自分の心、それを悩め る人、惨めな罪人と称しているのです。

パウロは、律法に頼り、律法を厳守することで神に喜ばれようとす る生き方をやめた、と言っています。でたらめな生活に入るということではなく、自分 が助けようもない惨めで、弱い罪人だということを悟らされたからなのです。

D.突っ張った自己の死

従って、ここで「十字架に付けられた」私とは、自分が自分である アイデンティティそのものではありません。自分の全てが無になってしまうという神秘 的な体験を語っているのではなく、律法を守ることによって自分を救おうとする自分、 つまり突っ張っている自分に死んだのです。

E.十字架で充分

律法によって生きることをやめたパウロは、キリストへの信仰によ って、もっといえば、信仰のみによって生きる生き方 に切り替わったのです。 自己に死ぬということは、消極的に言えば自分は100%ダメ人間だと頷くこと、積極 的に言えばキリストの十字架は私にすべてを与えて下 さると頷くことです。

実際、十字架の上でキリストは、「すべてのことは完了した」と勝 利の宣言をなさいました。私達の弱さ、痛み、過去の罪とそれにまつわる嫌な思い出、 良心の呵責、現在抱えている罪に対する弱さ、罪に傾く傾向など一切を一身に担って、 徹底的な苦しみを嘗め、そして「すべて完了した」とおっしゃったのです。

この二つの真理を認め、告白する人を信仰者と呼びます。この二つ の事実をパウロと一緒に認めて告白しましょう。信じるとは、言い表すことです。キリ ストの十字架を私のものと思い、「その通りです」と告白しましょう。

F.頼り続ける

「信仰によって生きる」とは、自分は徹底的に弱く、キリストには 徹底的な救いがあるという事実を、日々の生活の中で頷きながら生きることです。歯を 食いしばって荒れ馬から落とされまいと必死にすがりついているのが信仰生活ではあり ません。たとえて言えば、大きな船に身を任せて空を見上げながらゆったりと航海して いるようなそんな絵がふさわしいと思います。

信じるとは、あらゆる事について、あらゆる場合に、この方により すがり、徹底的にすがり、助けを信頼し、他の助けを信頼しないことです。ある指導者 が語っています。

「信仰生涯の基礎は、始めから終わりまで『信仰』 であります。これこそキリスト教を、他の宗教と区別するしるしです。キリスト教は業 を強調するところの宗教ではありません。自己の努力によって救いをかちとる宗教では ありません。それは、イエス・キリストに対する信仰によって特色づけられる宗教です 。もちろん信仰に続いて、良き業は伴います。しかし、私達が何かをなすことが神に喜 ばれるのではなくして、イエス・キリストを信じることが神に喜ばれ、受け入れられる のであります。」(ホーリス・アボットWGM元総理)

G.もがくのをやめよう

私の伯父は旧陸軍の中佐で、中国の鉄道連隊の指揮をしていました 。はっきりと生まれ変わったクリスチャンで、いつも聖書を持ち歩き、日曜日には中国 人の教会に出席していました。しばしば上官から注意をされても、それをやめません。 自分にとってクリスチャンであることが本業で、軍人であることは副業だと公言してい ましたからです。

ある日の沼を渡る訓練の指揮で、スキーのような浮き袋を両足を履 いて泥沼を進むのです。まず将校から、というので先頭に立って歩いていったまではよ いのですが、沼のまんなかでバランスを崩して仰向けにひっくり返ってしまいました。

空を見上げるとあまりにも青空が美しく「ああ天のお父様、きれい な空ですね 」と、ひたすら天のお父様と会話をしていると、岸の方から「今助けに行 くぞー」という声がかかりました。

部下が助けに来ましたが、経験のある隊員は、「隊長は泥沼でもが いたりしなかった分助け出しやすかった、ひっくり返るときはあのスタイルが正解だ」 といいます。

キリストに委ねきった信仰、これは難しい修練ではありません。 自然体でよいのです。 試練や困難にぶつかれば、天を仰いで主の助けを求め 、誘惑にぶつかれば助けて下さいと祈り、道に迷いそうになれば導いて下さいと祈り、 他人から非難攻撃されたら、自分を針鼠のような自己防衛的態度で弁護したりしないで 、非難されるような弱い欠点だらけの人間ですから助けて下さいと祈り、さらに、攻撃 する人の為に神さまの祝福を祈る−−−という信仰に生き続けたいもので す。

H.おわりに

今回とりあげた聖書のことば−ガラテヤ人への手紙2章20節−の「私 」という箇所に一人一人の名前を入れて、本当にそれが私の頷きとなるまで読んでみま しょう。そしてその生き方を身につけたいものです。お祈り致します。


Message by Isaac T.Saoshiro,senior pastor of Na kameguro IGM Church

Compiled by K.Otsuka /May 22,2005