第一礼拝 メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)
聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日 本聖書刊行会)によります。
2005年5月29日
第一礼拝−プレアー・フェローシ ップ・デーにあたって
「塩気と輝きを!」竿代 照夫牧師
マタイの福音書 5章10-16節
Matthew 5:13
あなたがたは、地の塩です。もし塩を塩けをなく
したら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて
、人々に踏みつけられるだけです。 (マタイの福音書 5章13節) |
A.はじめに
プレアー・フェロシップ・デーを迎えました。6年ほど前から、組 会の枠を乗り越えた教会の霊修会的な意味で始まりました。最初は聖宣神学院を会場と して2回、そしてお茶の水(クリスチャンセンター)で2回、中目黒で一回なされて今 回で6回目となります。
今年のテーマとして担当者が祈りのうちに選んだのは『良い証人( あかしびと)となるために』ということです。このテーマで、与えられた聖言が山上の 垂訓の中の「地の塩、世の光」というトピックでした。
地の塩と世の光のたとえは、山上の垂訓の八つの祝福に続いていま す。この変化は突然のように見えますが、実はそうではありません。八つの祝福は、正 義のために迫害されるものの幸いで終わっているのですが、地の塩、世の光とは、その ような真実なクリスチャンを迫害するような世の中にあって恐れずに輝け、塩気を失う なという極めて現実的な勧めであります。そのような流れで語られた塩と光のたとえを 通して、今回は、キリスト者の証しについて学びます。
B.塩としてのキリスト者
1.私達は既に塩である
主イエス様はここで、「あなたがたは地の塩である」と言っておら れます。地の塩になりなさい、でも「なればよいですね」でもなく、「すでに地の塩な のです」と語っておられます。
つまり、キリストに従うという人々には、その心の中に「塩気」が 与えられているのです。生まれ変わってキリストの命を頂いていることが、もう塩を持 った人間なのです。文頭の「あなたがた」は強意で使われています。他ならぬあなたが た、弟子たるみなさん、という主の信頼がこめられています。
2.塩の働き
1)味付け:塩は味付けです。スープなどに塩がありませんでした ら、全く味がありません。塩はスープの分量からいいますとごく僅かですが、あるとな いでは大違いです。 長年いたアフリカでのスープはごく単純です。玉ねぎを刻んだものを炒め、トマトを入 れ、塩を振りかけるのが基本です。それ以外のデリケートなものは(最近はちょっと変 わってきましたが)あまり使い ません。
さて、クリスチャンはこの社会になくてはならない”味付け”です
。家庭で、職場で、学校で、隣近所で、あるいはどんなサークルにでも、クリスチャン
が存在するだけで、その場所が明るくなり、和み、積極的になります。ここで、マルコ
の福音書9章50節を見ますと、
マルコ9:50 あなたがたは、自分自身のうちに塩け
を保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。
とありますように、塩気と和合とは並行しています。また、コロサ
イ人への手紙4章6節を見ますと、
コロサイ4:6 あなたがたのことばが、いつも親切で
、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方
がわかります。
と塩味と親切が並行しています。
2)腐敗防止:塩は同時に保存材料です。魚、肉、野菜などに塩を ふりかけますと、腐敗防止に役立ちます。聖書の時代にも保存食を作るために塩は大切 な役割を果たしていました。クリスチャンも、この腐敗傾向にある世にあって腐敗を止 める働きをしています。
アメリカの話ですが、子どもたちに不道徳を助長するようなテレビ 番組のスポンサーになると、その会社の製品を買わないというような運動がクリスチャ ンを中心になされていて、番組自体がキャンセルされるケースもあると聞いています。
塩味をもったクリスチャンがいるというだけで、そして社会の悪に 対して賛成しない態度を示すことで、この世の悪の進行に歯止めがかけられます。大勢 が悪に走った時でも、はっきりとノーと言える存在は大きな助けです。
3.塩気を保て
1)塩気のない塩?:「塩がもしその効力を失ったら」という言い 方は現代的に考えるとちょっとわかりにくいものでしょう。というのは今は「塩」とい えば、100%に近いくらい純粋な塩だからです。
しかし、イスラエルでは違いました。いわゆる岩塩という塩分を含 んだ岩を「塩」と呼んでいたのです。その岩塩が水気を吸って塩分を失ってしまったら 塩としての役に立たない、という意味なのです。特に麻袋に詰められていて、底の方に ある塩は、湿気のために塩分が失われて、塩と呼ばれていても、塩分がほとんどなくな っている、というケースがありました。
このような「塩」は、役に立つとしたら、道路の穴を埋めるしかな
い、という意味で、主は
マタイ5:13b もう何の役にも立たず、外に捨てられ
て、人々に踏みつけられるだけです。
と語られたわけです。
2)塩気を失ったキリスト者?:同様に、もしキリスト者がその塩 気を失って、社会の悪に対してすべて妥協し、「これはやむを得ないことなんだ」「必 要悪だ」「仕方がない」と言ったならば、まさにそれこそ塩気を失った塩でありましょ う。
そうは言いましても、社会において塩であるということはたやすい ことではありません。会社がみんなぐるになって他の会社と談合して入札をしていると きに、それを一社員が「ノー」と言えるか、実際問題となるとそう簡単な答は出ません 。
「あなたは牧師だからそう割り切って言えるが、私はこの難しい社 会の中に日々生きていて、簡単にノーと言ったら、自分の首を絞めることになる」と考 えておられませんか。そう言われれば、もう言葉がありません。
それでも、聖書の教えは教えです。知恵を用いて、適切に、効果的 に「ノー」と言うことは可能ですし、必要であります。主はそのような証を望んでおら れます。
C.光としてのキリスト者
1.私達は光とされている
塩の場合もそうでしたが、主イエス様はここで、「あなたがたは世 界の光です」と断言しておられます。光となれ、光であるように努力せよではなくて、 光なのです、と語っておられます。どの ような意味なのでしょうか。
1)主イエスは本当の光:キリストは、光として世に来られました
。ヨハネの福音書にあるように、
ヨハネ8:12 …「わたしは、世の光です。わたしに
従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
と語られました。キリストの中に真理があり、きよさがあり、喜び と幸せがあるのです。
2)光なるキリストを心に:私は世の光と言われる主イエス様が弟 子達に向かって「あなたがたは、世界の光です。」と語られました。彼らは本当の意味 では光源体ではないかもしれないが、キリストの光を照らし映す光なのです。
不十分かもしれませんが、光をいただくと、その光が反射して輝く ことが出来ます。まわりの人々に、「あの人はどうして逆境のなかにいても明るく振る 舞えるのだろう、喜んでいられるのだろう」という不思議さを感じさせる存在となりう るのです。
先週、私は札幌の聖化大会に行ってまいりました。そこで証をされ た一人の姉妹が教会に導かれたきっかけは、職場にいた同僚がクリスチャンであった、 その人が他の人とは違う輝きを持っていたからだと言っておられました。すばらしいこ とです。
2.光を高く掲げなさい
1)言葉による証し:主イエスはここで、光になれという命令では なくて、光を高く掲げなさいという命令をしておられます。
「山の上にある町は」その灯りのゆえに、麓の町々から「隠れるこ とができません。」と事実を述べたうえで「あかりをつけて、それを枡の下に置く者は ありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。」と 光を隠してはいけないことを示唆しておられます。
いわば”隠れキリシタン”になってはいけない、と言っておられる のです。私達は「私は会社や学校の仲間に自分がクリスチャンであることを知らせない で3年もいます。私は『隠れキリシタン』なんです。」といったように軽い意味で使い ますが、徳川時代の隠れキリシタンからは叱られてしまうかもしれません。
最近の『日本経済新聞』に、江戸時代の隠れキリシタンが、表はお 地蔵さんだが裏には十字架を刻んだり、アルファやオメガというギリシャ文字を刻んだ りという形で彼らの信仰を必死で守ろうとしていた、という記事が載っていました。そ れに比べると、クリスチャンであるゆえに首が飛ぶこともない現代の私達が隠れキリシ タンなどと簡単に自称してはならないと自戒させられます。
もちろん、証をするといっても、宴会か何かの席でみんなが飲んで いる最中に襟を正して、「では証をさせていただきます」という形が相応しいとは思え ません。自然な形でよいのです。何かで誉められたとき、「いえ、そうでもありません よ」と謙遜するかわりに「私はだめな人間なのですが、イエス様に会って変えていただ いたんです」くらいは言えるのではないでしょうか。
祈祷会に出席するために、早めに退社するときに、「どうしたんで すか」と聞かれて、「ちょっと用事がありますから」という答えも悪くはありませんが 、「教会の祈り会に出たいのですが」と言えば、嫌みでなく証しができましょう。
ある方の話ですが、週一回帰りが早いのでどうしたのか尋ねられ、 「教会の祈り会に出ます」との言葉がきっかけで結婚に至りました。あえて本人の前で お話ししました(笑)。
2)行いによる証し:ここで、マタイの福音書5章16節を皆さんでご
一緒にお読みくださいませんか、はい(編者より:このサイトをご覧の方は↓をマウス
でなぞってください。5章16節を見ることができます)、
マタイ5:16 このように、あなたがたの光を人々
の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父を
あがめるようにしなさい。
この最後の命令の中に示唆されているのは、よい行いによる証しで す。
よい行いの中には、悪い行いに組みしないという道徳的な面があり ます。さらに、積極的な愛の行いが含まれています。「よい行いをやってやるぞ」とい うことでないのはもちろんです。ごく自然でよいのです。でも恥ずかしがらずに行いま しょう。
電車の中で、お体の不自由な方が立っておられたら、「どうぞ」と 譲ることもよいのです。一番よいのは、こうしたことをあまり意識しないで行えるよう な、内なる恵みに富むことですが、最初は意識してもよいと思います。偽善的なことは するな、などと何にもしないよりはずっとよいのです。
でも、心の中で、「私がしているのではなくて、神の恵みが与えら
れているから、その恵みに押し出されての自分なのだ」という恵みに対する感謝と信頼
を持ちつつ行えばもっと幸いです。その時はじめて、
マタイ5:16b 天におられるあなたがたの父があがめ
られ
るのです。
E.おわりに
プレアー・フェローシップ・デーでは『良い証し人となるために』 というテーマで話し合いがなされますが、幾つか示唆を申しあげたいと思います。まず 、
1..恵みに目を留めようと いうことです。
「自分は証が出来ない」などと自分を過度に責めないようにしまし ょう。もちろん「うちの教会のメンバーは、証人としては失格だ」などと、他人を責め るのはもってのほかです。
責められて良い証人になるということは決してありません。神がど んなに大きな業をなして下さったか、恵みを私に注いで下さったか、それに目を留める ように、その意味で恵みの分かち合いに力点を置きましょう。つぎに、
2.学び合おうということで す。
その上に立って更に、知恵のある証のあり方について、お互いの経 験から学び、よりよい証人となるために学び合うという謙虚な姿勢で話し合いましょう 。自慢話の分かち合いにならないように注意しましょう。三番目に、
3.ありのままということで す。
繰り返しますが、クリスチャンの交わりの焦点は、神の恵みです。 自分ではなく、自分のようなものを通して働いておられる神に焦点づけられる話し合い が進めば、互いに恵まれることでしょう。
その意味で、失敗や弱さを隠したり、自分を飾ったりしないで、あ りのままの分かち合いが建徳となります。そして、
4.祈りあおうということで す。
話し合いの最後には、互いのために真実に祈る祈り合いで終わりた いと思います。その祈りは普段の祈りに継続して行くべきものだからです。
あなたがたは、地の塩です。…あなたがたは、世界 の光です。---と仰ったイエス様の期待に応えたいと思います。お祈り致し ます。
編者注:礼拝後、教会員70名余がプレアー・フェローシップ・デー に参加し、11のグループにわかれて話しあいとお祈りのひとときを過ごしました。プレ アー・フェローシップ・デーは年一回行われています。
Message by Isaac T.Saoshiro,senior pastor of Na kameguro IGM Church
Compiled by K.Otsuka /May 29,2005