礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2005年6月12日

 マルコの福音書連講(60)

「心の宮清め」

竿代 照夫 牧師

マルコ11章12-19節

中心聖句

15 神そして、彼らに教えて言われた。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。

(マルコ11章17節)


はじめに

 宮聖めの話は4つの福音書に共通して記録されています。今日は主イエスが行われた宮聖めを取り上げますが、その前に、イエスの最後の一週間の主な出来事を一覧にしましたので、これを頭に入れておいて下さい。

       受難週の出来事

日曜日:エルサレムへロバに乗って入場
月曜日:実のない無花果の呪い、宮聖め
火曜日:多くの論争、終末についての預言
水曜日:ベタニヤでの休息とマリヤの塗油
木曜日:最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、捕縛、深夜の裁判、ペテロの裏切り
金曜日:夜通しの裁判、十字架刑、死と埋葬
日曜日:復活と顕現

 月曜日の最初の出来事が、実のない無花果に対する審判ですが、実はこれが宮聖めへの序曲でありました。


A.神殿の悪用(12-14節)

1.宮清めは二度目?(ヨハネ2:13-21参照)

 受難週の宮聖めから遡ること3年前の過越の祭りの時、イエスは同じ場所で同じ行動を取られました。それがヨハネ2章の物語です。余りにも似ているので、同じ出来事の違った記録ではないか、という人もいますが、私はそう思いません。細部が異なりますし、その後のコメントが相当異なるからです。私は思います。イエスは、このような宮の大掃除を何度か行われた。しかし、汚職や談合を何回となく摘発しても、またぞろ汚職や談合が復活するように、神殿は全く改まらなかったと。そのヨハネの記事を読みます。「過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。 

 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。」(ヨハネ2:13-17)

2.神殿の悪用、誤用

 イエスが入られた宮(神殿)とは、いわゆるヘロデの神殿と呼ばれるもので、建設開始から50年近く経ってもまだ完成していない(ヨハネ2:20)というほど大がかりなもので、その壮麗さは人々の自慢の種でした。主イエスが足を踏み入れなさったのは、「異邦人の庭」と呼ばれる神殿の南広場と思われます。そこはユダヤ人以外の人々も入ることが出来る場所で、神殿本体に入る入り口でもあったのです。残念ながら、主イエスがそこで見られたのは、これから神の宮に入るという厳粛さ、敬虔さ、恐れ、緊張といったものとはおよそかけ離れた、ものを売り買いするマーケットの響きでありました。マルコは4つの営みを挙げています。

1)売り買い

 生贄となるべき羊、牛など。当初はこの動物たちを置いたのは、巡礼者たちへの便宜のためでした。遠いところから羊や牛を引いてやってくるのは大変な苦労です。私もナクルの湖畔教会の感謝礼拝にささげられた牛と羊を暫く教会の庭でお世話して、売りさばいた経験がありますので、羊を引っ張っていくこと、まして人間の体重の何倍もする牛を引いていくという苦労を少しは知っています。ですから、巡礼者が手ぶらで長旅をし、終着点の神殿で牛、羊を購入してから捧げるということはどんなに大きな助けとなったか想像できます。その内に、例外としてやっていた便利屋さんが当たり前になり、段々それが確立した出店のようになり、その場所代を祭司達に納入するようになりました。

 この場所代の収入はバカにならない金額だったようで、ここにもイスラエル宗教の堕落振りが伺えます。さらに、生贄は傷のないものでなければならず、ここで売られているものは、承認済みで、すっと通ったのでしょう。もう一つ、この商売人は、祭司達の親戚筋で占められていたというのですから、xx公団の汚職と構図が似ています。ですから、この場所は、別名「(大祭司)アンナスのバザール」という不名誉なあだなを頂いていました。ともかくそんな売り買いの声が周りの壁の反響もあってワーンと響いていたわけでしょう。

2)両替

 ローマの通貨からシェケルへ。神殿で納められるお金、いわゆる献金は、イスラエル固有の通貨でなければなりませんでした。シェケルと呼ばれる銀貨です。男子たる者は一年に半シェケルの神殿維持献金が義務付けられていました。ところが、世間一般で通用しているのはローマ帝国が定めたデナリとかドラクマというローマの通貨でしたから、それを献金用に両替する必要があったのです。例えは悪いですが、もし教会の入り口の書籍販売部の係りが、礼拝の間中座っていて、1万円しか持ってこなかったので、これとさよならするのは辛い、5千円とか千円とか5百円とかに両替します、と言うのと似ていますが、実体はもっとえげつないもので、外貨の交換ですから、しっかりと手数料を取っていました。ある学者は、手数料は15%であったと報告しています。このような両替屋は、毎日神殿に鞄を持ってやってくるけれども、神に対する恐れはひとかけらもなく、ただひたすら商売繁盛のみを願って通勤していたのです。

3)鳩売り

 生贄の動物の中でも一番人気は鳩さんです。鳩は、生贄の標準である羊や牛を捧げることのできない貧しい人々のために、代用品として認められていた生き物です。でも段々人々の心が貧しくなると、捧げもののためにお金を使うなんてバカらしい、鳩で間に合わせておこうという庶民精神の故に、一番取引の多い商品となっていたのです。鳩は黙っていませんから、グルッポッポ、グルッポッポとそれは喧しかったことでしょう。

4)近道

 神殿の異邦人の庭を近道代わりに使う図々しさ。それだけでなく、近所に用を足しに来る人々が、異邦人の庭を近道代わりに使っていたのです。地図を見て下さい。エルサレム市内の南東から北西に行くには異邦人の庭を大回りするのが当たり前ですが、一足でも近い方が楽だというのは全世界共通の人間心理でありますから、この庭が通路となっていたのです。私も中目黒の駅から教会に来るのに東急ストアを斜めによぎると近いものですから、しばしば利用していますが、東急ストアでは買い物もしていますから、良心的呵責は余り感じません。でもこのケースは違います。全世界から集まってくる異邦人(ユダヤ教への改宗者、改宗候補者)が神殿の境内で唯一許されている礼拝の場所、そこが商売のかけ声、動物の鳴き声で乱されているだけではなく、買い物のおじさんおばさんたちの通用路として使われていたのです。これはイエス様でなくても心を痛める光景であります。

3.神殿悪用の根っこにあるもの

 このようなおぞましい光景の背後にあるものは何でしょうか。私は少なくとも以下の3つの理由を考えます。実際はそれ以上でしょうけれども・・・。

1)神の名による利益追求

 宗教は本来、神と私達とを繋ぐ霊的なものですが、それが制度化されると、人間くさい利益追求の道具となります。日本の諸宗教でも、門前市という言葉に表されるような、参詣者たちを目当てにした商売が盛んになります。お寺や神社の参道には多くのお店が並んで商売をしています。そこで商売をしている人々は多く、そこでなされている礼拝とは全く関わりない心を持って生活をしているでしょう。

2)権益の確保

 もっと悪いのは、それを知りながら、それを収入の源としている宗教家です。彼らは、礼拝的精神が低下している憂いもなく、ひたすら所場代から来る収入を喜んでいる世俗的な人間に堕落していました。

3)敬虔の欠如、神を恐れぬ図々しさ

 神の名をもって唱えられている場所で、神が一番忘れられているその敬虔の欠如が一番問題です。


B.イエスの厳しい処置(20-25節)

1.過激と思える行動

 ここでイエスの登場です。かれは商売人を逐い出し、両替のテーブルをひっくり返し、それでもしつこく商売しようと続けるものを鞭で叩き、鳩の籠を壊して鳩を釈放します。さらに、礼拝とは関係なさそうに買い物袋をさげた市民たちを咎めて、遠回りをさせます。近道を赦さなかった、というギリシャ語は継続的な意味です。通行禁止の札を立てて後は良心に任せるというのではなく、かなりの時間しつこくその場所に立ちはだかって、監視しておられたのです。

2.その根っこにあるもの

1)神を思う熱心(ヨハネ2:17)

 このように異常で過激と思われる行動の理由として、似たような事件を記録したヨハネは、それは神を思う熱心からであった、と解説しています。この出来事を記録したマルコは、「神の家の純正な役割を重んじたからだ」と解説します。

2)異邦人への配慮(イザヤ56:7)

 主が引用された言葉は、イザヤ書から来ています。56章をお開き下さい。そこでイザヤは、律法によって礼拝から締め出されているハンディの人、外国人であっても、主を愛して従う民は、神の民の礼拝に加えられるといっています。4-7節を読みましょう「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」

 イザヤの強調は(ユダヤ人に限定されない)「すべての民」でしたが、イエスの強調は(商売の家ではない)「祈りの家」でした。その祈りの家を強盗の巣とした罪は大きいと、イエスは怒りなさったのです。

3)「強盗の巣」とした怒り(エレミヤ7:9)

 強盗の巣という言い方はエレミヤの中にあります。神殿の礼拝が行われているその真只中で、「盗み、殺し、姦通し、偽って誓い、バアルのためにいけにえを焼き、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。」状態でした(7:9)そんな自己矛盾をエレミヤは「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。」と弾劾します(7:11)。最終的に、エレミヤは、そのような神殿は破壊されると預言します(7:14)。イエスの言葉には、イザヤののべた理想と、エレミヤが預言した審判が増幅していたものと思われます。その怒りには弟子達も驚き、従う者達も驚き、そして反対するものも驚きました。

3.「イエスを殺す」連合が成立

1)祭司達

 神殿を支配していた祭司達は、イエスに対する姿勢を硬化させます。本当は悔い改めて、商売を辞めさせるべきだったのですが、その良心の呵責は封印して、大人げない過激な若き宗教家イエスを攻撃します。もちろん、イエスをその場で逐い出す勇気もありませんでした。かれは圧倒的な民衆に支持されていましたから。

2)律法学者たち

 もう一つのグループが祭司階級と結託します。それは律法学者たちです。彼らは、どちらかといえばマジメ派ユダヤ人ですから、イエスの行動を支持しても良かったのです。実際ラビの一人が神殿の誤用に心を痛めて、警告を発したことがあったくらいです。しかし、この律法学者達も、民衆の人気を奪われてイエスに反感を持っていたという点では祭司達と共通していますから、普段の反目はどこへやら、反イエス同盟の手を結ぶのです。実際的には、この出来事が十字架に至る引き金となります。

3)悔い改めはなかったのか?

 この中の一人も、ああ、私達は悪かった、本当にイエスの言われるとおりだ、私の収入が少し減っても、悪い習慣は改めようと言う殊勝な人が現れたら、どんなに大きな慰めだったことでしょうか。しかし、です。流れは十字架に向かって突き進んでいきます。


C.私達への警戒

1.宗教による利益追求の危険

 恐らく、ここに集まっているメンバーで、教会の営みで金儲けをしようという人はおられないでしょう。日本の教会はおしなべて貧しく、教会に関わってお金が儲かる仕組みにはなっていません。誇って良いことかどうかはわかりませんが・・・。しかし、私達が主を畏れるという気持ちの中に、信仰をすれば生活が楽になる、家庭が円満になる、病もいやされる、事業がうまく行くという目的が主要な動機となっているとすれば、神殿で商売をしていた人々と五十歩百歩です。

 もちろん、主を畏れ、その道を歩むときに、多くの場合、今述べたような外的な祝福も伴います。でも、それはあくまでも結果です。動機であってはなりません。神が何を与えて下さるかという期待で神を信じるのでなく、神が神である故に礼拝する、この礼拝の原点にしっかり立ちたいものです。

2.礼拝の場所と時間の清さ

 神は場所に支配されなさいません。この礼拝堂だけが礼拝の場所ではありません。けれども、「祈りの家」として聖別されているこの場所を、不敬虔さをもって強盗の巣としてはなりません。礼拝前の会話を最小限度に慎むこととか、礼拝後の祈りの空気を保つとか、目に見える配慮をもっとさせていただきましょう。礼拝の行われている時間に、それとは関わりのない活動に心が捕らわれないように、礼拝の場所だけでなく時間を清く保つけじめも大切です。外面的なことを余りやかましく言うのは私の願いではありませんが、外側の行為に現れるような敬虔さを私達はもっと養われるべきでしょう。

3.心の宮清めの必要

 新約聖書が神殿に言及しているのは、聖霊を宿す神殿としての私達の体のことです。第一コリント6:19、20には、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」と記されています。

 この文脈は、性的な罪との関連です。配偶者以外の女性と性的な関係を結ぶことは、その女性と一体になることであり、神の宮である私達の肉体を汚すことなのだ、とパウロは言っています。出来ちゃった婚が20台の人々の37%に上るとある統計が示しています。そんなことに目くじらを立てるのは時代遅れと人々はいうでしょう。でも、聖書の教えは、「肉体は聖霊の宮であり、それを汚すのは神の裁きに値する」と言うことです。性的な罪に止まらず、神の宮に相応しくない悪しき思い、憎しみ、妬み、怒り、傲慢が私達の神殿に同居していないでしょうか。私達が祈るとき、主イエスは鞭をもってではなく、その貴い血潮をもってそれらを清めて下さいます。心を宮として清め給うよう祈って、今日の礼拝を終えましょう。

 「神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、はあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」(第二コリント6:15-7:1)

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2005.6.12