礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2005年6月19日

「弱い私たちを助けて下さる」

井川 正一郎 牧師

ローマ書8章26節

中心聖句

26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。・・御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

ローマ書8章26節)


1.導入

(1)三位一体の神

 恒励会例会で、三位一体の神について学びました。一つの実体に三つの人格です。父なる神、子なる神、聖霊なる神、唯一のたった一人の神ですが、其の神が三つの人格を持っておられると、私たちは信じ、受け入れています。贖罪の点から見ると、父なる神は贖罪の計画、子なる神はそれを二千年前にこの地上で実現、聖霊なる神は歴史的事実・客観的出来事を、時代を越えて一人一人、個人の心に届けて下さるのです。唯一の神が夫々の人格をもって役割働きを担われました。

(2)聖霊なる神の働き

 現代に生きる信仰者は直接的には、聖霊の働きによってキリストの救いを知り、悔い改め、信仰に導かれました。其の聖霊の働きを通して、キリストを知るのです。そのキリストを通して父なる神を知るのです。これが現代の信仰者と神との関係です。きょうは、その聖霊なるお方の働きに心を向けたいと思っております。そもそも、聖霊なる神が具体的にどのような働きをして下さるか。インマヌエル教理ハンドブックにあります。7つあるのです。

(聖霊なる神の働き)

@認罪を与える A新生をもたらす B新生した者に証を与える C信仰者が信仰生活を全うするために必要な一切の助けを与える D全き聖化を与える E結実をもたらす、聖霊の実 F賜物を与える

 賜物とは、信仰者が神から与えられた地上での務めを正しく果たすために必要な力、能力です。奉仕の賜物です。預言、ことばの賜物等です。個人個人それぞれに違うのです。

 きょうは先の聖霊の働きの4つ目の事柄に入るもの、すなわち、必要な一切の助けを与えて下さるとの事柄を学びます。特に、弱い私たちを助けて下さるとの働き、26節のおことばに心を向けます。説教題のように弱い私たちを助けて下さる、これが今日のメッセージです。ローマ書8章はローマ書の中のクライマックスの箇所となっております。

(3)ローマ書

@ローマ書概観

 そもそも、ローマ書はコロサイの教会と共に、まだパウロが足を踏み入れたことがないローマの教会、人々に送った手紙です。これからそちらに訪問したい。どうにかその道が開かれるようにとの願いをお話ししながら、福音の全体像を示す手紙です。いわば、まだローマ教会には行ったことがないパウロ先生が、私の持っている(経験している)本当の福音とはこういうものであると理論的に、また実際的に紹介説明しているのです。

 福音は信じるすべての人にとって救いを得させる神の力であると1章で紹介しました。その福音のうちに神の義が啓示されているのです。しかし2章でそもそも人間はみな罪人、どうしようもない存在と述べます。でも3章で、その罪は信仰によってゆるされる、つまり、信仰義認です。4章は信仰義認の例としてアブラハムです。5章では義認の結果は何かということ。

 6章以降は聖化の問題が取り上げられるのです。6章でキリストの十字架はきよめの問題となる心に住みついた罪も既に解決済みのもの。聖化の恵みがある。しかし、7章でパウロは告白するのです。私はしたいと思う善を行わないで、したくない悪を行っていた。それは私のうちに罪がそうさせているのだと。解決がないのでしょうか。いや、ハレルヤ、感謝すべきかな!解決はあるのです。それが8章です。

Aローマ書8章

1,2 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

 本当の意味でキリスト・イエスにある者は罪に定められないのです(8:1-2)。心に住む罪をも実は既にあの十字架によって解決済みであったと改めて全く信じ受け入れ、私のすべてをささげればよいのです。全き信仰と献身による聖化の恵みです。信仰者の信仰生涯にとっても中心的テーマの聖化の経験・恵みがこの箇所に高らかに歌われているのです。その聖化の恵みをもたらすいのちの御霊の原理と言われる聖霊なる神なのです。

 この8章、つまり、聖霊なる神の働きについて、次のように述べることができます。

@私たち人間を罪と死から解放して下さること、A私たちを治め、内に住んで下さること、Bまた私たちを導き、神の子として証詞して下さること。Cキリストの再臨の時、私たちを栄光のからだにして下さること(23節)。

 いわば、罪と死から解放して下さる働きから始まって、栄光あるからだ、みかたちまで、永遠まで働いて下さる聖霊なる神。三位一体の神ご自身が働いて下さっているのです。


2.弱い私たちを助けて下さる(=テーマ)

 きょう、これだけの話でも恵まれます。しかし、きょうのメッセージは永遠の栄光に向かっている我らですが、今の私たちの状況はどうなのでしょうかということ、それは一言で言えば、うめいている状態なのではないでしょうか。

26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。・・御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

 病で戦っている人がいます。職場仕事で戦い、うめいている人がいます。人間関係で悩み苦しみ戦っている人がいます。家族、親子、夫婦のこと、親戚のこと、それで悩んでいる人がいます。将来どうすればよいか、自分の進むべき道は何かと悩んでいる人がいます。私とはそもそも何かと自分自身が理解できないで戦っている人がいます。

 この8章にある素晴らしい聖化の恵みが約束され、また永遠に繋がる栄光も約束され、それに向かいながらの我らなのですが、今悩み戦っているのです。18節にあるようにそれらの苦しみは将来の栄光に比べれば取るに足らないものなのでしょう。この悩み戦いを通過することにより、近い将来の恵みがもたらされるのでしょうが、この悩み、もがき、戦いはそれほどやさしいものではないのです。これと戦い勝利していきたいと考えます。そのような状況にある私たちに、そうです、悩み、もがき、戦う我らに、「聖霊は」ともにあずかり、必要な助けを与えて下さるのです!「御霊も同じように弱い私たちを助けて下さる」「とりなしして下さる」のです(26節)。

(1)助けるの内容

 聖霊は弱い私たちを助けて下さいます。その助けとは何でしょうか。いっしょになって助けて下さるということです。そもそも「助けて下さる」とのもともとのことばは「共に」「代わって」「取る」との3つ言葉が合成されたものです。そこから、3つの具体的なことが含まれるのです。

@いっしょになって

 この助けは「いっしょになって」のものです。いっしょとは聖霊は私という一人の人と力を合わせてということです。私もそれなりの力を出すのです。一人では完全に運べないので、それが運べるだけの力を聖霊はそれに添えて助けて下さるのです。

Aちょうど良い(相応しい程度)

 ですから、それはまた、ちょうど良い助けです。その課題を解決するに、それに適う程度の助けなのです。行き過ぎた、過分な助けではありません。会堂献金の必要のために今月はどうしても百万円が与えられたいと切にお祈りするとき、一千万円与えられるようなことはまず、ないのです。不思議にも百一万円とか、百十万円とか、それに相応しい程度の助けなのです。いっしょに担うとはそのテーブルを持ち上げ運ぶに相応しい程度の、それに適う程度の力を聖霊は提供して下さるのです。人の力に合わせて、聖霊も力を適切にコントロールされるのです。

Bおりに適った

 折に適う助けです。タイムリー、適時です。この時に必要と思う時に(必要な時とは人間にとって都合の良い時というより、神から見てこの人を助けるにはこの時が一番良いと判断される其の時のこと)、聖霊はその時に合わせていっしょになって助けて下さるのです。

(2)なぜ聖霊は助けて下さるのか

@その理由:弱いから

 弱いとは、人間本来が持ち合わせている肉体的精神的限界があることから出て来る弱さ、特に神のみこころを悟ることができない、難しいという意味での弱さを言います。罪の影響を受けて肉体的には限りのある体、ずっと健康ではあり得ない肉体的弱さです。また精神的には欠けだらけ、間違いだらけ、過ちの多い人間です。そういう意味での弱さがあるのです。

 だから、聖霊は助けて下さるのです。聖霊のお仕事の大切な一つは実は、弱い人間それ自体を助けることにあるのです。そして特に、お祈りの世界において私たちは神のみこころを正しく知ることが難しい。その意味での弱さを言うのです。祈りにおける弱さ。私のこれからの将来が良く分からない。私に関わるみこころがよく分からない。将来のことを確実に知ることができない。また今現在の私の状況は理解することができますが、この状況からどのように進むのが最善であるか、分からないとの意味です。要は神のみこころが何かを正しく理解できない弱さを持っているのです。どう判断してよいか分からない、どう進めば良いか分からない。よくわからないとの弱さのことを言っているのです。まさに、人間の肉体的精神的面での有限性から出て来る弱さなのです。


A
その理由:うめいているから

 なぜ聖霊は助けて下さるのでしょうか。弱い、そしてうめいているからです。被造物です。自然界です。先日のナザレ会ベタニヤ会合同例会で太田志津子姉の「環境問題」講演がありました。その講演を伺いつつ、自然界も罪の影響で破壊される。うめいている。ローマ書のこのおことばを心に思っていました。

 うめいているから、助けて下さるのです。聖霊もまたうめいてとりなしして下さるのです。みこころがわからない。将来がわからない。お祈りしてもわからない。聖霊は助けて下さるのです。祈るべきことを切なるうめきをもってとりなしして下さるのです。どのようにしてお祈りすればよいかわからない私たち、自分のことだけしか祈ることのできないような私たち、耳障りのように聞こえる私たちの祈りを、聖霊はそのうめきによってきよめて、父なる神の耳に届く祈りにして下さるのです。誰よりも人の心と神のみ思いを知っておられる聖霊が、どうすればよいか、どうなればよいかを助けて下さるのです。

 人間というものはその喜びや悲しみを言葉で表現しますが、人間が心の一番深い所のものを表現するのは、もはや言葉とならない「うめき」でしょう。アッとか、ウッとか。言葉にならないものです。病気の痛みにたえる時の声は声とならないものです。うめきだ。うめいているこの私のためにとりなしして下さるのです。

B
その理由:御子なるイエス・キリストのみかたちに造られるため

 聖霊は弱い私たちを助けて下さいます。聖霊はうめいている私を助けて下さる、そして実はそのすべての助けはどこに向かっているかと言えば、主イエスに似たものとして造られる目的のためなのです。

28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。

29 なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

 私たちは今の時、其の時其の時に直面する一つ一つの課題のために神のみこころを求めます。どう進めばよいか、どう解決すればよいか。聖霊がいっしょになって助けて下さるのです。しかし、聖霊の助けは其の一つ一つの問題を解決すればよいというわけではありません。それが最終目的ではないのです。聖霊の最終的目的目標は、イエス様に似ていくことなのです。一つ一つの目の前の課題に悩み、苦しむ。それに立ち向かっていこうとするとき、どのような心、態度、姿勢に立ち向かうか、扱われるのです。その都度、その都度主イエスと同じ心と姿勢が造られていくために。聖霊の助けはいつもそこを目指しているのです。

 ですから、みなさん、聖霊はもがき、苦しみ、戦う我らを助けて下さいますが、その問題をいわば我らが気に入るような解決でない解決があることを知りたいと思います。悩み苦しみから楽になる解決でない解決もあるのだ、ということです。

 わざわざ苦しい所をそのままの状態にさせることもあるのです。勿論、その苦しみの中で聖霊も共に苦しんで下さるのだが、苦しみはまだ続いているとの状況にそのままにさせることがあるのです。なぜ?。そうです。その苦しみをもう少し味わい、そして通過することが私にとって主イエスに似た心、姿勢、品性、人格を造り上げるための唯一の手段だからなのです。主イエスのゲッセマネのお祈りの例を思い出してください。


3.締めくくり

 今週の適用は次の3つです。

(1)聖霊はいつも助けて下さるとの信仰に立とう。

(2)「弱い者」を助けて下さる、すなわち、「強い者」を助けて下さらない、です。

(3)聖霊の助けは、私の品性を造り上げるため、なのです。この一つの品性、部分に変貌のみわざをを為してください。

  「弱い私たちを助けてくださる」、これが今日のメッセージです。ご一緒に、お祈り致しましょう。


Written by S. Ikawa and Edited by N. Sakakibara on 2005.6.19