プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日 本聖書刊行会)によります。

2005年6月26日

愛に生きる3
「愛の行動」

井川 正一郎牧師

ヨハネの手紙第一 3章16-18節

中心聖句

1John 3:16-18  

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちを お捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、 兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見て も、あわれみの心を閉ざすような者はに、どうして神の愛がとどまっているでしょう。

子どもたちよ、私たちは、ことばや口先だけで愛 することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。

(ヨハネの手紙第一 3章16-18節)


A.はじめに

今回は『愛に生きる』の三回目、愛の行動です。愛は行いにあらわ れるものであるとのテーマで、随分前に、この教会の前主任牧師であった蔦田眞實(= つただ まこと・主都中央−当時−教会第二代主任牧師)先生が私に話して下さったこ との一つです。

「愛、平安、親切、柔和等の、いわゆる道徳的品性をわかりやすく 話 すということは案外難しいことであり、これをわかりやすく、それも実際的にも届 くように話す人は、大したものだ」と眞實先生は仰っていました。今回大した話はでき ないかもしれませんが、このテーマについてお話ししたいと思います。

愛とは一般的には、

1)相手の最善を行うことであり、

2)相手の最善を考えて犠牲を払い、自分自身を差し出すことであ ります。また、

3)条件付きでなく、報酬をも考えないことでもあります。

ここで言う最善とは言うまでもなく、相手の都合のよいだけのこと ではありません。相手に不都合であったとしても、このことを行うこと−行わないこと −が将来的なことも考えて最善と判断し、なすこと、これが一般的な愛の定義であり意 味であります。親の子に対するものが最もこれに近いものといえるでしょう。

ただ、聖書に言う愛とは実は質的に違うものであります。今回とり あげた3章16節に尽きるのですが、すこしくわしく3つのことを話しします。

B.愛とは動機の純粋さ

まず愛とは、いわゆる感情的な高まりではなく、 動機の純粋さを言います。即ち、一つの特定の対象・相手に 専心的に向けられるものであり、他の何ものにも向けられないで、ある特定の一つの対 象・相手に向けられるのを愛と言います。

その特定の一つとは、イエス・キ リストの神に向けられたものであり、そのキリストの神を一心に心と祈りだけでなく、 あらゆる生活の中で追い求めていく意思です。

愛はその性質上、だれか一人にだけ向けられるもの、一人に対して 、私の全部をかけて注ぎ出すものであります。心だけでなく、生活・生涯の目的や目標 といった実際の態度などにも表わしていくものであります。

それは結局、その前に神がまず私を愛して下さり、わたしのために 十字架の恵みがあり、いのちを惜しまず投げ出して下さったとの愛が私にあり、その神の愛への応答が私の愛となります。

その応答は心のうなずきと納得・合点だけではなく、その神のみこ ころに自発的に喜んで従おう−つまり、神のみこころにかなった生活を過ごそうとの姿 勢にあらわれるものであります。このからだをもって、生活を通してすべて神に対する 愛を注ぐ姿勢となるのです。

ですから、神が命じておられるこ とは何でも熱心に行うことであり、禁じられたことは何でも心を用いて注意深く、それ らを避け、日常生活の行い態度をことごとく、一つの目をもって純粋な心で行うこと− これが聖書に言う愛であります。そして、この神の愛を知り、神を心から 愛する愛があってはじめて、それは他の人へ向けられていくのであります。

C.愛とは外へ向かって流れ出す

二番目に、愛とは、内側の気質・ 心の事柄であると同時に、それ以上に外へ(他へ)向かって流れ出すとの傾向性・本質 があるということであります。

愛は一つの方向をもって動き出す−流れていく特色を持っています 。

何よりも一心に向けられる相手とは、キリストの神であり、そして 神に向けられた愛の結果・表れとして他の人への愛と流れていくものです。

家族や友人やその他の人を本当の意味で愛するとは、神に向けられ た愛の結果でありあらわれです。

神が命じておられることを喜んで熱心に行おうとしますが、それは 神は「私と同じように隣人をも愛せよ」と命じられているからで、その神の命令を喜ん で実行しようと愛の人は神を愛すると同時に、他の人をも愛するのであります。

愛とは心にとどまるだけで終わらず、 神から私に、私から他の人にというように、外へ流れ出してくるもので す。ヨハネの手紙第一3章18節にあります、

Tヨハネ3:18b 行いと真実をもって愛そうではあり ませんか。

とは意味深長であります。

家族や友人やその他の人を愛することは、神に向けられた愛の結果 で あるとお話しましたが、そうでない場合は、問題の原因といいますか、何かが本人や家 族 の中にあるのは確かです。

ワーシップ・リードの方が最初にお話されていましたが、15歳の子 供が両親を殺すという 悲しい事件がありました。この事件でも、本人や家族の中に何かがあったのではないの でしょうか。

通学していた高校の校長は、まじめであったが安定していなかった のではないかと 言及していました。案外そういうものではないでしょうか。

これは他人事ではないと思います。私自身、父との関係がよくなく 、家族も厳しい 家庭環境のなか生活をしていました。詳しいことは申し上げませんが、その後奇跡が 起こり、父が神を信じ、その後召天(死去)し、葬儀の司式(司会)を行ったのが私であ りました。

D.愛とは神から与えられたもの

そして三番目に、この愛は、神か ら与えられるものであります。人間には似たようなものがありますが、本 質的にいままで話した本当の愛とは異質といっても過言ではありません。

神を信じてたましいを新しくされた者が初めて形造られる品性・気 質が愛であるといえましょう。最後に、ヨハネの手紙3章16節と18節をご一緒にお読み しましょう(この ページをご覧の皆さんは、マウスで↓をなぞってください)。

Tヨハネ3:16 キリストは、私たちのために、 ご自分のいのちを お捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、 兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

Tヨハネ3:18 子どもたちよ、私たちは、こと ばや口先だけで愛 することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。

お祈りします。


Message by ShoichiroIkawa,deputy pastor of Naka meguro IGM Church

Compiled by K.Otsuka/June 26,2005