礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2005年7月17日

 マルコの福音書連講(64)

「聖書と神の力を知る」

竿代 照夫 牧師

マルコ12章18-27節

中心聖句

24 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。」

(マルコ12章24節)


はじめに

 前回は、「ローマ帝国への納税問題という」極めて生臭い政治的な課題の提起に答えて、主が大切な教えを語られた物語を学びました。

 今日取り上げる「復活論争」には、そのような政治的臭いを感じませんが、神学的には大切な問題であることは確かです。


A.復活に関する難問

1.質問者(18節)

18 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。

1)サドカイ人とは?

@階層: サドカイ人とは、社会の上層階級の人々、特に祭司の階級を主としたグループです。

A名前: 名前のサドカイとは、ソロモン時代の大祭司ツァドクから来たものと言われています。

B認めているもの: 彼らはモーセの五書だけを権威あるものと認めていました。

C認めていないもの: 彼らは、復活の教理、天使や霊の存在を認めない、いわば理性派でした。魂の永遠性も信じない人々で、魂は肉体と共に滅びる、来世はないと信じていました。さらに、世俗的権力を追求する物質主義者でもありました。

D政治権力: 民衆には余り人気が無かったのですが、サンヒドリン議会では多数を占めており、政治的力は絶大でした。このような立場の者が、大祭司というような宗教上の権威を振るっていたのですから、世も末です。

Eヘロデ党との繋がり: サドカイ人はヘロデ家の支援を受けていましたから、「ヘロデ党」とは実質的に繋がる部分が多く、両者が同じ文脈で違った名前で登場するというケースも見られます。例として、マルコ8:15には、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」と記されているのに対して、マタイ16:6には「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」と記録されているというケースを挙げることが出来ます。サドカイ人とヘロデ党は似ている面もありますが、実際には別々な人々であることは、この場所で論客が交替したことで明らかです。

2)直接のきっかけ

 先々週もお話ししたと思いますが、神殿の大庭に於いて商売をしていた人々は、この祭司階級の差配の下にあって、その利益の配分を上納金として収めていましたから、若い宗教改革者であるイエスが、宮聖めと称して、その商売の邪魔をするのを放って置くことは自分達の収入を危うくすることですし、人々からの非難を受けることにもなります。何としても、この若き熱血宗教家を葬ってしまわないと、安んじた生活が出来ません。こんなことが質問の動機です。

3)復活の話題

 取り上げられた話題は復活問題でしたが、サドカイ人がこの問題で日頃頭を悩ましていたわけでははく、何であれ、イエスをやっつける機会が欲しかったのです。真相はといいますと、復活問題はサドカイとパリサイの論争の時に常に話題となっていました。つまり、復活と言う教理がいかに愚かな考えであると言うことを印象づけるための議論であったのです。その論争にイエスを巻きこもうとしたのです。

2.質問の序論(19節)

19 先生。モーセは私たちのためにこう書いています。「もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がないばあいには、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。」

 彼らの質問は、復活後の人間のあり方でしたが、その問いの前提として、モーセが定めた再婚に関する決まりを持ち出します。これはいわゆるレビ的再婚法と呼ばれるものです。申命記25:5を開きますと、「兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。」と記されています。

 現代的感覚から言いますと「ちょっと頂けない」という感じがしますが、これは家の名前と土地が代々継続されるためには必要な決まりでした。

 実際に行われたケースとして、ヤコブの子どものユダを挙げることが出来ます。ユダは、その長子エルにタマルという妻を迎えますが、エルが死んだために、タマルを次男のオナンに嫁がせます。そのオナンも死んだために、三男のシェラに嫁がせようとするがシェラが子供であったので成人するまで待たせる、そこでいろいろ問題が起きるという話です(創世記38:6-11)。その他にも、やや事情は違いますが、ルツというマフロンの妻が、夫の死後、親戚のボアズに嫁いだというケースがあります(ルツ4:10)。

3.仮定の質問(20-23節)

20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。21 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。22 こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。23 復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。

 ここからが質問の核心なのですが、七人の兄弟が上から順に死んでいき、その度に長男の妻を次男が受け継ぎ、さらに三男が、四男がという風に続いて、最後には七男も死に、その後で妻も死んだ、さて、復活の時にその女は誰のつまとなるか、といういわば他愛もない仮説的な質問です。まあ、良くもこんな愚かしい質問を恥ずかしげも無く主イエスのところに提出できるものかなと思います。サドカイ人がこのような問題でいつも頭を悩ましていた訳ではなく、復活などはない、あるとすれば、そのような世界は矛盾に満ちているではないか、という半ばからかい半分の質問です。でも、主イエスは、真正面から答えをなさいます。


B.天的な答え

1.イエスの叱責(24節)

24 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。」

 イエスの回答は、簡明直截、質問者の肺腑を抉るようなものでした。あなたがたの質問は、復活の状態に関する「思い違い」に基づく、その思い違いは、復活はあると教えている聖書を理解していないこと、復活を齎す神の偉大な力を信じていないことから来ると指摘されました。

2.復活の状態(25節)

25 人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。

1)天使のような状態になる

 復活の状態に関して、新約聖書は他の場所でいろいろな教えをしていますが、ここでは単に「私達は天使のような存在となる」という主イエスのステートメントに目を留めます。天使のようとは、悪しき欲望からも解放され、死もなく、苦しみもない状態です。

 ルカ21:34では「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、35 次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。36 彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。」死ぬこともなく、永遠の存在となりますから、子孫増殖の任務は無くなります。いわば中性的になるのでしょう。

2)夫と妻の関係は?

 従って、復活の世界では、地上のような夫婦ではなくなります。ちょっと寂しい気もしますが、地上で夫婦であることの喜びに勝る喜びがあるのでしょうから、それで良いのです。天国に行ってまでも、奥さんに向かって「おーい、お茶」などと命令するというようなことは、無くなるでしょう。そうは言っても、天国で長年連れ添った伴侶者が、「あなたは一体どなたでしょうか」などとよそよそしくなるとも思えません。

 第一ペテロ3:7には、伴侶者とは「いのちの恵みをともに受け継ぐ者」と記されていますから、特別な交わりはありえましょう。でも地上における夫婦のような、一体関係ではないことでしょう。私達の想像を超えたすばらしい世界であることは間違いありません。蔦田二雄先生の最後のマタイ伝連講は、天国の描写だったそうです。蔦田先生は、天国とは「マー!」と驚く世界だ、と語られました。今想像しているよりも遙かにすばらしい世界、何もかもが「マー!」と驚く世界なのだそうです。もし、そんな世界に、長男の嫁で、次男、三男と次々に結婚した(させられた)女が、誰の妻になるかということは問題にもならない、それほどすばらしい、高次元の世界が待っている、と主は語られるのです。

3.生きている者の神(26-27節)

26 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」とあります。27 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。

1)出エジプト記の引用(3:6)

 復活の世界がある、という真理の例証として、主は出エジプト記3:6を引用されます。五書のみを受け入れて、復活はないというサドカイに対して、イエスはその五書を用いて反論なさったのです。わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」燃える柴が焼け尽きないのを見て驚いて近寄るモーセに語られた最初の言葉がこれです。神の自己紹介の言葉です。モーセはアブラハムの約4百年後の人物ですから、私達たちで言えば織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった感覚です。

 この自己紹介を、どう捉えるのでしょうか。「あなたの先祖であったアブラハムが仕えた神、イサクが仕えた神、ヤコブが仕えた神である」という過去形で捉えますと、ああ、そんな昔々の神なのだ、と思ってしまいます。モーセが伺った神の自己紹介はそんなものではなかった、「(死んではいるが、今別の世界で生きており私に仕えている、その)アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と取るべきではないか。何故なら、神は死者の神ではなく、生きたものが仕えている現在的な神なのだ。とすれば、アブラハムもイサクもヤコブもみんな生きている。復活がないというあなたがたサドカイ人の聖書理解は間違っている、と指摘されたのです。

 肉体は滅びても、魂は生きており、その肉体との再結合がある、それが復活である。その再結合こそ、神の奇跡である。その可能性を否定するのは、神の真理への無知であり、神の力への不信仰であると指摘なさったのです。ルカ21:38にはもっとはっきりと「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」と記されています。しかもサドカイ人達が受け入れているモーセの書を用いて・・・。

2)人々の反応

 主イエスの、賢い、完璧な回答に、さすがのサドカイ人も、ぐうの音も出ませんでした。マタイ21:33 にその反応が記されています。「群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。34 しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。」さらにルカ21:39は、「律法学者のうちのある者たちが答えて、『先生。りっぱなお答えです。」と言った。40 彼らはもうそれ以上何も質問する勇気がなかった。」と記しています。


終わりに

1.聖書をもっと知ろう。

 今日は、主イエスが指摘された聖書と神の力に焦点を当てて、私達に当てはめたいと思います。私達の多くは聖書を学んでいます。殆どすべての人が毎日読んでおられると信じます。それはユダヤ人が旧約聖書に通暁していたのと似ています。それでもなお、聖書も神の力も知らない、と言われてしまう危険性があります。それは、聖書を昔々の物語という風に、私達の生きている時代と切り離して読んでしまう危険です。

 聖書の時代に語り給うた神は、今も語り給います。その当時に霊感された同じ御霊の感動を私達に与えて下さいます。それは必ずしも、特定の聖句が、特別な意味をもって私達への個人的な語りかけとなるという神秘的な経験だけを意味しません。そう言う場合もあるでしょう。けれども、多くの場合、聖書の時代背景をよく調べ、その時代と状況において何が求められていたかという角度から聖書を学ぶとき、自ずと聖書の考え方が私達の考え方に一体化してきます。受肉と言ったら良いでしょうか。その意味で私達はもっと「聖書を知る」必要があります。

2.神の力を信じよう

 聖書の時代に語られた神、働かれた神は、「昨日も今日も永久に変わらない神」です。私が仕える万軍の主は活きておられると言いつつ雨を止め、雨を降らしたエリヤの仕える神は、私達の神であります。キリストを死者の中から甦らせなさった神は、その復活の力を私達の死すべき肉体に顕わしなさるお方です。奇跡は聖書の時代と共に終わってしまったのではありません。どのような形で起きるか、起きないか、私達が指示したり、期待することは出来ないでしょうが、神が全てを支配なさり、私達の理解を超えた業をなされることは私達の信仰です。単純にその信仰によって歩みたく願います。

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2005.7.17