礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の 内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日 本聖書刊行会)によります。

2005年7月24日

第一礼拝

「私に高い所を歩ませる」

井川 正一郎 牧師

ハバクク書3章1-19節

中心聖句

3:19 私の主、神は、私の力。私の足を 雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

(ハバクク書3章19節)


はじめに

 旧約聖書 ハバクク書3章19節をお読みします。

私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所 を歩ませる。

 ハバクク自身が「預言者」であると明言しました。

 預言者とは、神のメッセージを受けて、それを人々に伝え る役割を果たす人を言いますが、ハバククはこの書を読んでわかる通り、人々に伝える というよりも、神に、猛烈に訴える預言者でありました。

 神に対して猛烈に訴えたハバククとは、どんな人物かとい いますと、3章1節のの「シグヨノテに合わせて」と「弦楽器に合わせて」等から、彼 が神殿聖歌隊の一員であったか、あるいはそれに深い関わりのある預言者の一人−神殿 の音楽を担当するレビ族の出身であろうと思われます。

 ユダが滅亡する直前、バビロンの勢力が迫ってくる紀元前6 世紀後半のときであり、エレミヤ等のエルサレム陥落前後に活動した預言者たちと何ら かの交流があったのではないかとも思われます。

 

 ハバククとは「抱く(からみつく)」の意味をもつ名前で あります。

 

 神に訴える預言者ハバククが訴えていることは2つありま す。

 罪を犯すユダの人々の罪がみのがされているのはなぜか−ど うして、罪をさばかないのかということです。

 もう一つはその罪を滅ぼす道具として、もっと罪深い暴虐・ 残虐なカルデヤ人(バビロン)が用いられるのはどうしてか、であり、これらをハバク クは神に訴えます。

 このハバクク書は1、2、3章の中で、その訴えと、神の答 を待っている姿を描いています。全3章の章名をつけるとすれば、

 

1章=預言者の告訴(訴え)、1)ユダの罪をさばかないのか、 2)さばく道具がなぜカルデヤ人か。

 

2章=預言者の見張り(神の答えを待つ)、1)味業は行う。遅 くない、2)正しい人は信仰によって生きる。

 

3章=預言者の祈祷、確信、1)この年のうちに(速やかに)、 2)神の来臨とさばき(民の救いのため)3)荒廃の中での信仰(喜び)

になると思います。

 

神は、ハバククの訴えに答えを提供されました。

そして、その答えに満足したハバククが真の信仰者として歩もうと する信仰が最終章に記され、読者は励まされます。

「高い所を歩ませる」とは、文字通りの高い所ではなく、象徴的な 意味で用いられていいます。

今回、「この高い所を歩ませる」とのことばを中心に、メッセージ を取次ぎます。

高い所を歩ませるとは、信仰に堅く立つ、神の視点に立つことであり、立って、歩むこ とであります。大きく2つのことを話します。


A.神の御業を信じる

 まず一つ目は、

「神の御業を信じる。御業を堅く信じて立つ。歩む」ということ であります。

1.神の御業は確かに行われます。ユダの罪を見 のがしにはなさらず、さばきを行われます。それは必ずなされます。

遅くはありません。また、一章にハバククが訴えの 中で述べているように、神は聖なるお方だからであります。正しくないことを、罪を見 のがすことは決してなされないのであります。

(2)そして、その御業を、神はご自身の方法でな さります。カルデヤ人を用いるというのですが、ハバククはこれが理解できませんでし た。納得できませんでした。それゆえ、見張り所に立って、神にかみつき、訴えました 。

ユダの罪をさばかれることは理解しました。しかし 、1章6節にあるように、強暴で激しい国民であるカルデヤ人がユダの審判執行者とし て選ばれるのはなぜかとハバククは困惑し、神に訴えます。

2章1節にに「私の訴え」と記されていますが、単に 抗議しているといった意味でなく、神を被告にして、神は過ちを犯しているではないか 、おかしいではないかと激しい非難を込めて告訴するとの意味が込められたことばであ ります。

(この告訴に対して神はどう答えられるか、見張り 所に立って見張ろうと強い決意を持つハバククであります。

(「見張り所」「とりで」は通常、高いところに設 置・存在するものです。もとより、ハバククが実際にこの場所に立ったわけではないで しょう。ですから、「見張り所」や「とりで」を文字通りに解する必要はないでしょう 。しかし、神がどう答えられるかを、あたかも寝ずの番をして警備、警護にあたる「見 張り人」のような強固な意思をもって、神と対決するのであります。

ある歴史家はアッシリヤを滅ぼして、メソポタミヤ 地域全域を支配したバビロン帝国は、アッシリヤ人のやり方流儀を、そっくりそのまま 、まねたといいます。残虐・冷酷の具体例です。

手向かう者は情け容赦なく皆殺しにし、戦利品を奪 い、財産を横取りし、慈悲や同情のひとかけらも示さず、捕虜はみな、その土地から連 れ出し、自分の国へ連行し、奴隷とします。

ハバククの目には、この敵はひどく恐ろしいもの( 1;7、8)。彼らの馬は豹よりも速かったのであります。豹は最も足の速い動物とみ なされ、獲物に飛びかかるものの姿をたとえるに相応しい。鷲のように(オオハゲタカ )その死んだ動物の肉をねらってむさぼり食うようにカルデヤの騎馬軍は今にも、飛び かからんばかりです。

ハバククは、見張り所に立って、なぜですかと訴え るのであります。

ハバククの訴えに、「幻を書き記せ」と神は答えま した。

この幻の具体的内容としては2章3−4節に示唆さ れています。お読みします。

ハバクク2:3 それは必ず来る(=成就・実現する)。遅れるこ とはない。

2:4b …正しい人はその信仰によって生きる。

2章5節以下にあるような悪のカルデヤ人に対する 神の審判もそれに加えてもよいでしょう。要は、その幻はハバククにとって納得できる ものであったことはたしかであります。

しかし、立ち止まって考えると、ハバククのそもそ もの訴えは「ユダを罰する道具として、なぜ更に悪いカルデヤ人を用いるのか」であっ たわけです。神はその質問に直接的には答えておられないことに気づきます。

なぜユダより悪いカルデヤ人を用いるのかと質問し たら、「正しい者は信仰によって生きる。神はカルデヤ人の結末はこうなる、神がご自 身の手で審かれる」と答えられます。まさに、よく考えると、答えにはなっていません 。

英語で”WHY”との問いには、”BECAUSE ”で答えると教わりますが、神の答えは”BECAUSE”でなく、いわば”WHO” −−−「わたしが誰であるか、わたし自身が事を行うのだ」で答えておられます。

ハバククの訴えに応答する神は、「正しい人は信仰 によって生きなさい」と断言します。ハバククはこの答えで納得し、満足を得ました。 神がすべてのことを知り、治めておられ、神のご計画によって、事は正しく運ばれると いうことをであります。

神には深い御思いがあります。信仰者はその方法手 段すべてを委ねる、神におまかせすることの大切さを、ここで改めて教えられます。

(3)この御業は、ユダの罪だけでなく、そのユダ を罰する道具となったカルデヤ人=バビロンをもさばくものであります。

ユダはその罪のゆえに処罰を受け、そして、カルデ ヤ人もまた、その暴虐の故に審判を受ける。尚、その審判の具体的内容が2:5以下に 5回出てくる「ああ」(わざわいなるかな、とも訳せる)のことばで示されています。

  

6節の「ああ」=侵略・略奪・暴力の罪

  

9節の「ああ」=自己顕示・高慢の罪

  

12節の「ああ」=不正の罪

  

15節の「ああ」=残虐の罪

19節の「ああ」=偶像礼拝の罪

 

神の答を頂戴したハバククがすべてのすべてを悟 ったわけではありませんが、前述のようにその答(幻)に納得し、満足したわけです。 ユダがまず罰せられ、そのあと、バビロンも罰せられます。

 

そしてそのあとの回復、即ち、本当のユダの回復 を期待するお祈りとなります。このお祈りの箇所(3章3−13節)は、しばしばリバ イバルのためのものとして学ばれます。

ハバククは罪を犯す祖国ユダが滅亡することを知っ ています。

神の審判として厳粛にその時を静かに待つ。その時 がどんなに悲惨なものであるかも悟ります。しかしながらその後に、神ご自身による回 復がなされることを信仰によって展望し、喜びと勇気を失わないハバククでもあったの です。ハバククは信仰によって「高いところ」を歩むことができる人物であります。

B.神そのものを信じる

もう一つは、

「神 そのものを信じる」ということであります。

(1)荒廃の中での神の臨在

ハバククは将来何が起こるかを知りました。バビ ロン侵略軍は価値ある全てのものを情け容赦なく、牛や羊、農作物さえもこの地から奪 い去ります。人々は肉体的に苦しみを味わうだけでなく、物質的財産も失います。

おそらく全てを失うそのような状況で悲観的にな ったとしても、ゆるしてくれるかもしれない。実際、ほかに何ができようか。

それにもかかわらず、ハバククの信仰はあらかじ め予想された全ての悲惨な出来事に打ち勝った。彼はすでに神の偉大さを見ていた。そ の全能の力を悟っていました。最後まで残されたものがある。神様であります。

(2)荒廃の中での信仰者

ハバククは信仰者として、この荒廃からのがれて 、文字通りの高い所、高みの見物をしているのではなく、預言者として信仰者として、 彼は他の人々と一緒の中−荒廃のただ中にあります。

信仰を持っている者も、神の激しいみわざの中に ある。あのエリヤが雨が降らないとのさばきのメッセージをアハブ王につたえ、悔改め を迫った箇所があります。

メッセージを伝えたエリヤは飢饉から無関係で はなく、飢饉のただ中を生きねばならなかった。しかし、信仰者には神の特別の配慮、 祝福がある。ケリテ川のからすがその例であります。

(3)最終的勝利を信仰者に与えになり、それを 信じることであります。

ハバククは「たとえ何が起ころうとも、最終結果 は保証されている」ということを教えられます。試練、荒廃の中であったとしても、神 は信仰者に安全と保証。そして雌鹿のような自由を与えて下さるのであります。


しめくくり

しめくくりとして、二つのことを申し上げます。まず、神は遅れない、必ず来られる−行われる、ということで す。もう一つは、

高い所に立って、歩もう!=神にお られるとの事実に満足しよう。ということであります。

 この一週間、このみことばを握って過ご しましょう。

私に高い所を歩ませる−−今回のメッセージです。ご一緒にお祈りしましょう。


Message by Rev.Shoichiro Ikawa,deputy past or of Nakameguro Immanuel church , Edited by K.Otsuka on July 24,2005