プレイズ・ワーシップ メッセ ージサマリー

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日 本聖書刊行会)によります。

2005年7月24日

「神の友3 アブラハム」

竿代 照夫牧師

ヤコブの手紙 2章21-23節

中心聖句

Jakobus 2:21-23 

私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に ささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか

あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ない とともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、

そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼 の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

(ヤコブの手紙 2章21-23節)


A.はじめに−−−友達の幸い・神の友アブラハム・イ サク献納の不思議

私達にはいろいろな種類の友達がいます。遊び友達、学びの友達、 職場の友 達、近所の友達、飲み友達なんているのもありましょう。でも、本当の友達となると 指折り数える位しか無いようです。本当の友達とは、何でも分ち合う関係の人です。 困ったこと、悩み、喜び、など誰にでも話せるという類のものではありません。でも 友達ですと、何でも話せる、理解して貰える、理解して上げる、励ましを受ける・与 える、こういった関係が出来ます。人生でこんな友達があることは幸いです。仮に、 人間として誰が振り向いてくれなくても、神は私達の友達であってくれます。

神とアブラハムは、まさにそのような関係にありました。ヤコブの 手紙2章23節に、

彼(アブラハム)は神の友と呼ばれた

と記されていますが、すばらしいことです。何によってそう呼ばれ たのでしょうか。ヤコブは、アブラハムがその子イサクを全焼の生贄として捧げようと した行為による、と記しています。今日はその物語を致します。

この物語は、読めば読むほど不思議です。幾つも疑問が湧いてきま すが、大きなものはつぎの三つです。

1)なぜ愛の神が、残酷な人身御供とも思えるような息子の生贄を (少なくとも)命令し、(その直前に止められたとはいえ)受け取ろうとなさったのか ?

2)なぜアブラハムは、この非人間的とも思える命令に、唯々諾々 と従ったのか?

3)なぜイサクは生贄となる寸前まで逃げ出そうとしなかったのか (彼の方が元気があり、力も強かったはずなのに)? これに答える形でお話を進めま す。

B.神の命令の目的

なぜ愛の神が、アブラハム最愛の息子を全焼の生贄とするように命 じなさったのでしょうか。その答えは、創世記22章1節の

・・・神はアブラハムを試練に会わせられた。

という言葉がそれです。あくまでもこれは試験であった、アブラハ ムの愛と信仰のテストであった、ということです。

1)愛のテストとは、イサクよりも勝って神を愛するか、という至 高の愛のテストです。愛というものは、絶対的な傾倒を意味します。主イエスも、復活 された後、ペテロに顕れて、「あなたは、これらすべてに勝って私を愛するか?」と質 問されました。神を愛する愛よりも上に置く物、人を偶像といいます。アイドルのこと です。

アブラハムは、知らず知らずのうちに、神を愛する愛よりも、イサ クへの愛の方が大きくなってしまった、朝の祈りの時間も短くなって、イサク、イサク とイサクに没頭してしまったとも考えられます。「そのイサクよりも私を愛するか?」 というテストでした。

2)信仰のテストとは何でしょうか。アブラハムがイサクを通して 与えられる子孫が空の星のようになる、海の砂のようになるという神の約束をまっすぐ に信じて、その信仰を正しいと認められた訳ですが、イサクを殺してしまって、果たし てその約束はどうなるのか、その約束を信じ切れるのか、というテストです。

C.なぜアブラハムは従いえたのか

1)アブラハムの葛藤:聖書に、アブラハムの心の葛藤は記されて いません。記されていないということは、葛藤が無かったことを意味しません。

私も親の一人ですから、子供の一人をくれといわれたら、ノーと言 うでしょう。まして、残酷な形の生贄にせよと言われたら、絶対にノーです。でも、ア ブラハムは従ったのはなぜでしょうか。

2)アブラハムと神との信頼関係:私は、アブラハムと神との間に は、何とも言い表せないほどの信頼関係があったからだ、と思います。それまでの人生 で、神はアブラハムに対して誠実であって下さった、アブラハムも神に絶対的な信頼を 寄せてきた、神はその信頼を裏切ることはなかった、その上、神はアブラハムに対して 心を開いて、隠し事なく相談して下さったのです。それを示す実例が創世記18章17節で す。

主はこう考えられた。「わたしがしようとしている ことを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。

アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のす べての国々は、彼によって祝福される。

わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼 の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラ ハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」

と語られて、神はアブラハムに対して、悪に染まったソドムとゴモ ラを滅ぼすという将来の計画を打ち明け、それに対してアブラハムは、神の立場に立っ て必死に祈るということでその信頼に応えました。

正しい人が大勢いるのにソドムとゴモラを滅ぼしなされば、あなた の名折れではありませんか、どうかそれはやめて下さい、と必死に祈るのです。神はそ れに答えて、十人の義人がいれば災いを下さない、というところまで折れて下さったの です。こんなすばらしい友情の積み重ねがあったのです。だから、この最大のテストで も、アブラハムは乗り越えられました。

3)アブラハムの信仰の推論:アブラハムは考えました。 「・・・神は約束を違えなさる方ではない、その神がイ サクを捧げよと命じなさった。とすれば、神が解決の方法を持っておられるはずだ。そ れが、たとえ彼がイサクを捧げ、イサクは死んでしまったとしても、神はこれを生き返 らせる」という復活信仰に結晶したのです。ヘブル人への手紙11章17-19節 には、

信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサ クをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげ たのです。

神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があ なたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、

彼は、神には人を死者の中からよみがえらせること もできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。

と語っています。この当時、復活信仰は一般的ではありませんでし た。そんな環境で、復活信仰を持つようになったのは、アブラハムの信頼がもたらした 業です。

イサクが何故逃げ出さなかったか、これも永遠の謎です。今日はそ の問題には触れません。というのは、今日の焦点はアブラハムだからです。別な機会に これは論じたいと思います。

アブラハムの信頼と愛の表現は、それまで存在した、神との友情関 係を一層高めました。ヤコブの手紙2章23節はこれをさして、

「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみな された。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

と語っています。友情は、一歩一歩の信頼行動によって高められ、 深められていきます。

D.おわりに−−−私達と神との友情

私達が神を友と呼ぶというのは、考えてみれば懼れ多いことです。 少なくとも伝統的な宗教観念に「友情」はありません。でも神は私達を友と見なし、私 達も神を友と呼ぶことを期待しておられます。 それは抽象的な観念ではなく、毎日の生活の中で、私達が神を頼り、祈り、語りかけ、 聴くという営みを通して深くなります。具体的な課題が起きて祈り、それが答えられる という積み重ねを通して、その信頼関係 は増進していきます。そのように神を捉え、 信頼と愛を表し、信頼し続けて歩もうではありませんか。 お祈りいたします。


Message by Isaac T.Saoshiro,senior pastor of Na kameguro IGM Church

Compiled by K.Otsuka /July 24,2005