礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2005年7月31日

 マルコの福音書連講(65)

「神の国は近い」

竿代 照夫 牧師

マルコ12章28-34節

中心聖句

29-30 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『・・心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 

31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』 この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

34 イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。

(マルコ12章29-31、34節)


はじめに

 前回は、「復活論争」から、聖書と神の力を知ることの素晴らしさを学びました。これまで、税金論争とか、復活論争とか、主イエスを罠にかけようと言う質問ばかりでしたが、今回はより真面目な質問です。


A.いちばん大切な律法とは?(28節)

28 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」

1.律法学者

1)仕事

 モーセの律法の専門家。彼らの仕事は、モーセの律法を正確に解釈し、人々に教えること

2)歴史

 捕囚時代に生まれ、シナゴーグでの礼拝の指導を行った。最初はエズラの例のように、祭司と兼ねていたらしい。また、裁判官のような働きもしていた。

3)罪悪

 彼らは癒しがたいほどの形式主義、伝統主義をもたらした。偽善的な行為にも陥っていた。

4)パリサイ派との繋がり 

 神学的に言えば、彼らの多くがパリサイ派に属しており、イエスは学者とパリサイ人を一からげにして攻撃しておられる所を多く見受ける(例は、マタイ23:2)。

2.質問のきっかけ

 主イエスが賢い答えをなさり、論敵を黙らせたこと、それに感服した律法学者が真面目な動機からさらに質問をした、という印象をマルコ伝からは持ちます。マタイは少しニュアンスが違いまして、「パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。」(22:34-35)と記しています。依然として、イエスを困らせようと言う動機が少しはあった事が伺われますが、全体として真面目なものであったと思われます。

3.質問の内容:律法に軽重はあるか?

 何百とある律法の諸規定の中で何が大切な律法かということについては、多くの論争がありました。重いもの、軽いものという風に分類が出きる、(回心者のために)分類することが親切だ、という論争も存在していました。特に律法の中で道徳的な決まりと儀式的な決まりとどのように軽重を付けるのか、という問題もありました。律法全体が同じ重みを持って大切という学派と、それはシェマーに集約されると言うパリサイ派との論争も続いていました。イエスはそのどちらと言うかという質問でありました。


B.イエスの答え(29-31節)

29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。

30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』 この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

1.申命記とレビ記の引用

 イエスは、この重要な質問に、何の躊躇も思い巡らしの時間も持たずに、直ぐにお答えになりました。同様な問答をルカ10:26-28に行っており、予行練習が出来ていた共考えられます。さて、主はここで申命記とレビ記とを併せて引用されました。

1)申命記

 先ず申命記6:4-5から「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これは、大切な戒めとして、心に刻み、子供たちに教え、四六時中唱えなさいと命じられています。そのために、これを腕時計のように手に結びつけ、鉢巻きのように額に着け、門の柱と梁に書き付けなさい、と命じられています(6-9節)。イスラエル人はこれを実行しました。

 それだけでなく、シナゴーグの礼拝で一番最初に唱えられるのはこの部分でした。4節の冒頭の「聞きなさい」(シェマー)は、朝に夕に、決まった時間にシェマーを唱え、それ以外の時間にも、思い出しては復唱していました。さらに、毎週の土曜礼拝で唱えられていました。ですから、主イエスの引用は突飛でも何でもなく、良く知られた聖言の引用であったということを先ずご理解下さい。

)レビ記

 次いでレビ記 19:18「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」ここは、律法の中で隣人に対する義務を語っているところです。

 1節から概観しますと、十戒の再述がなされており、加えて、在留異国人への憐れみの規定(9-10節)、隣人に対する憐れみと誠実さの強調(11-18節)がなされており、その文脈の中で隣人愛が言及されているのですが、主はこの最後の句を神への愛と併せて全体の要約と捉えなさったのです。シェマーの強調は昔からなされていましたが、その神への愛を隣人愛とを密接不離なものとして結びつけたところに意義があります。

2.イエスのコメント

1)愛が律法の全規定の要約

 大事なことは、この心を尽くして神を愛すること、隣人を自分のように愛することが、律法全体を言い当てていると喝破されたイエスのコメントです。旧約聖書には、十戒のように神に対する人間のあり方、人と人との道徳的な決まりもあり、儀式的な掟、食べ物や習慣に関わる掟など細々とした掟が沢山あります。安息日の決まりとか、割礼の決まりとか、食べ物の決まりとか、着物の裾に刺繍をするとか、すべての決まり以上に大切なもの、すべての決まりをギューッと絞って一点に纏めると「愛」なのだと見抜かれたのです。神を愛する真実な愛と隣人に対する心からの愛があれば、律法のすべては自然と守られるようになるというのです。

2)神への全的傾倒が第一

 神への全的な愛と傾倒が私達の存在の基礎である。神への愛は、具体的に言うと、神のみ心を第一に考え、神の栄光を顕わすことを人生の最高の目標と考え、私達のすべての思い、行動、言葉を神に喜ばれるようにとの動機で行うことである。私達の仕事も神の栄光を顕わすため、学業も同様、家事も何もかも、スポーツでさえも、<パリのオリンピックで4百メートルに出場して優勝したエリック・リッデルは、「神は私を速く走るためにお造りになった。走っていると神さまが喜んでいらっしゃるのを感じるんだ」と語った>隣人愛は垂直的な神への傾倒の水平的な表れである。神への愛無しの隣人愛は、単なる人道主義である。

3)神への愛は無私の隣人愛に表れる

 逆に隣人愛へ表れない神へのデボーションはあり得ない。神は世を愛される。その神を愛しつつ、隣人を無視すると言うことは矛盾である。神を愛するならば、その広い愛をもって自分と合わないような一も含めてすべての人を愛し、その人の立場に立ってベストを尽くすのは当然ではないか。神に傾倒しながら、多くの人々を殺傷して何の痛みもない、というような感覚は大いなる誤りである。

4)愛の無い律法遵守は虚しい

 逆に言えば、愛が無ければ、他の掟をどんなに守っているようでも、それは律法の精神から離れてしまう。

5)儀式的な律法規定はキリストによって止揚される

 もっと言えば、律法の中で、儀式的な掟はキリストによって止揚されるという事を意味している。その点、主イエスの発言は、良く知られたシェマーを引用しながら、ユダヤ教のあり方に革命的な息吹を吹き込んだものと言えます。

3.パウロ、ヤコブ、ウェスレー・・・が続く

 主イエスのこの発言は後に続く使徒たちの思想の中核をなすものです。

1)パウロ

 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします(ローマ13:9)。

2)ヤコブ

 もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。(ヤコブ2:8-9)

3)ウェスレー

 キリスト者の完全とは何かと問われて、ウェスレーは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛すること」と答えました。心のきよめとは、ある人々が誤って考えているような冷たい教理のことではありません。心を熱くして神に仕え、暖かい心を持って隣人を愛することなのです。


C.律法学者とイエスの相互評価(32-34節)

32 そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。

33 また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」

34 イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。

1.律法学者の評価

 かれは主イエスのお答えに満足し、シェマーのスピリットが、どんな生贄にも勝る心の礼拝であると答えました。恐らく、この答えは主イエスが予期された以上の洞察であったと思われます。平均的な律法学者たちは、シェマーはシェマーとして受け入れていたものの、それが儀式的な律法に取って代わるほどの至高のものという観念までには至っていなかったと思われます。その意味からも、この律法学者の答えは水準以上のものでした。

2.主イエスの賞賛

 この律法学者の洞察に対して、主イエスは、賢い(sensible)という評価を与えなさいました。そして、あなたは神の国から遠くない、と賞賛されました。珍しいことです。主がパリサイ派や律法学者を誉めなさることは滅多にありませんでした。それほど彼らの心は頑なだったのです。しかし、ここで少しは希望が与えられます。

1)彼は、神の国の入り口に近くいました。主イエスに対する尊敬と、その言葉の真実さへの賛意をもっていました。初めから心を閉ざしている同僚たちとは違った謙虚さ、開かれた心、真実さが伺われます。

2)でも、それは、彼がまだ神の国に入ってはいない、ということを表しています。イエスをキリストと認め、彼に帰依し、従っていくためには、払うべき多くの犠牲がありました。同僚から異端扱いを受けること、安定した生活に別れを告げること、その他色々な支障があって、なかなか踏み出せませんでした。

3)神の国から遠くない、という言葉で、ウェスレーの日記を思い出します。彼がアルダース・ゲートで回心を経験する1738年5月24日の午前5時頃、開いた聖書に次の聖言があった、「貴く、大いなる約束が、私達に与えられている。それはあなたがたが、神の性質に与るものとなるためである。」外出しようとしたとき、再び聖書を開いたところ、「あなたは神の国から遠くない」との聖言が出た。夕刻、私はひどく気が進まなかったけれども、オスダースゲート街における集まりに行ったところ・・・」と繋がります。悩みつつあったウェスレーがこの聖言に希望を見いだし、救いにまで導かれます。

4)最後の疑問は、この律法学者は「神の国に入る決断をしただろうか?」というものです。ここには記されていませんから分かりませんが、少なくともこの場では、決断はしなかった者と思われます。それでは、イエスのこのコメントは虚しく地に落ちたのでしょうか。私の想像ですが(また、ある聖書注解者の言及でもありますが)彼は、後にキリストを信じたのではないか、それが使徒の働きにある保守的クリスチャンの存在となったのではないかと思われます(6:7,15:43)。


終わりに

1.私と神の国との距離は?

 私と神の国にどんな距離であろうか、という問いを自分に掛けてみましょう。入っていると確信する方は、その事を確認し、感謝し、謙って主と共に歩きましょう。入り口にはあるが入っていないなと思われる方は、どこかで思い切った決断をもってイエスを救い主として受け入れましょう。

2.最高の律法と私

1)神への愛を告白しよう

 心を尽くして主を愛することを告白しよう

2)隣人愛を実践しよう

 自分のように隣人を愛すること、隣人とは誰かを問うよりも見つけて愛の実践を致しましょう。<例:良きサマリヤ人>

 お祈り致します。


Written by I. Saoshiro and Edited by N. Sakakibara on 2005.7.31