第一礼拝 メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2005年8月14日

マルコの福音書連講67「レプタ銅貨を二つ」

竿代 照夫牧師

マルコの福音書 12章38-45節

中心聖句

Mark 12:42 

 そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅 貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。

(マルコの福音書 12章42節)


A.はじめに

火曜日は、一番忙しい一日でした。この日には、敵意に満ちた人々 に囲まれ ての論争が起き、イエスは一つ一つ不思議としか言えない知恵をもって答えなさいま した。論争が完全に終了したところで、律法学者たちの偽善的生き方、貪欲な行動が 糾弾されます。彼らのどん欲の犠牲となっていた寡婦の一人が、彼等とは全く違っ て、純粋に神を畏れて生きている、その姿がくっきり描かれているのが今日の「やも めの献金」というエピソードです。

B.二種類の献金(41−42節)

1.献金箱のそばのイエス

1)献金箱について:献金箱というのは、エルサレム神殿の「婦人 の庭」 (イスラエルの女性はここまで入れるという意味)に据えられていた箱のことです。 その庭の壁に、トランペット型をした13個の献金箱が備えられていました。献金を 入れる入り口は小さく、そこは大きくなっていました。それぞれに目的が明記されて いて、6個は自由献金箱、残りは、罪のための供え物、咎のための供え物、鳩のため の供え物、麻の収穫の感謝、新しいお母さんの感謝、ナザレ人が誓いに基づいて捧げ る献金、ツァラアトが癒された時の献金、というふうに、感謝の内容によって箱が区別 されていました。今日的に言えば、指定献金となっていたわけです。

この献金は、神殿の維持だけではなく、慈善目的にも使用されてい ました。このやもめと金持ちがどの献金箱に入れたか、聖書は記していませんが、私達 の想像の翼を広げるならば、寡 婦はこの献金を元にした、ある基金から施しを貰う立場だったかも知れません。そし て、この献金は、施しに対する感謝の献金だったと考えてもよいのかなと思います が、これ以上の想像はいたしません。

2)献金箱の側に座りなさるイエス:宝のある所には心がある、と おっしゃ ったイエスが、献金箱の傍に座って観察しておられる(この「見ておられた」という 言葉は「考え深く観察する」というニュアンスの言葉です)、というのは興味深いこ とです。

ちょうど、選挙の時に立会人がいて、私達の投票の内容ではないけ れども、投票 行動を見張っているのと似ています。献金に現れる人々の心を観察しておられたので しょう。同じ主イエスは、目には見えませんけれども、献金を含めて私達のお金の使 い方を良く観察しておられます。

2.金持ちの献金

さて、そこに服装から見て明らかに金持ちと分かる人々がやって来 ました。 かれらは、まあびっくりするような多額の献金を、しかも人目につく形で堂々とまし た。トランペットまでは吹かなかったでしょうが、環境が許されればそうしたかも知 れません。そんな雰囲気でなされた献金です。

3.やもめの献金

さて、そこに服装から見て明らかに金持ちと分かる人々がやって来 ました。 かれらは、まあびっくりするような多額の献金を、しかも人目につく形で堂々とまし た。トランペットまでは吹かなかったでしょうが、環境が許されればそうしたかも知 れません。そんな雰囲気でなされた献金です。

1)寡婦の捧げもの:金持ちとは対照的に、服装から見て明らかに 貧しい、 そして寡婦に違いない雰囲気の女性が一人やって来ました。この寡婦は、みんなから 隠れるように、レプタ銅貨2枚をそっと捧げました。

2)レプタとは:レプタとは当時のお金の最小単位です。レプタと いう意味 からして奮っています。レプトスとは、ギリシャ語で「皮を剥いた」という意味で す。林檎などの皮を剥くとき、出来るだけ薄く剥きますね。ですから、レプトスは 「薄い」という意味でもありました。小さくて薄い銅貨だったのです。

3)レプタの価値:ここにはレプタの説明として「2レプタが1コ ドラント に当たる」と書いてあります。1コドラントというのは「4分の1」という意味で、 1アサリオンの4分の1という意味です。つまり、1レプタは1アサリオンの8分の 1です。アサリオンについては、マタイの福音書には、

マタイ10:29 二羽の雀は一アサリオンで売っている でしょう。

とあります。

と言っています。ですから、1レプタでは、雀の4分の1し か買えません。そんな少ない価値です。それから、聖書によく出てくるデナリからの 換算をしますと、1アサリオンは1デナリの16分の1にあたります。レプタとの換 算では労働者の一日の賃金の128分の1ということですから、日本の円にして30 円見当となりましょうか。いずれにせよ大きなお金ではありません。まとめて等式で表 すと、

1デナリ=16アサリオン=64コドラント=128レプタ

となります。

4)レプタ2枚:何でこの寡婦がレプタ2枚を捧げたのでしょう。 レプタ1 枚にして、あとの1枚は夕食のおかずに取っておけばよさそうにと思いませんか。何 かの理由で全財産を思い切ってささげたとも考えられますし、他の理由も考えられま す。というのは、ラビの記した書の中に、献金は2レプタ以上でなければならないと 記されているからです。

C.イエスの驚くべき評価

主イエス様が弟子達の注意を喚起なさったその雰囲気を再現します とこうなりま す。

まず、「ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、みんな見て見て!」という風に 弟子達を呼び寄せな さいました。そして「まことに」という言葉からはじまる声明を発表されます。この「 まこと に」というのは、イエスがとても大切な真理を語る時の枕詞です。「この貧しいやも めは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。」という驚きで す。

「この貧しいやもめ」という言葉はとても強い意味です。直訳する と「この寡 婦、この貧しい女性が・・・」という語順となります。主イエス様の驚きの程度が伝わ ってきます。

2.イエスの評価基準:残額で評価

1)金持ちは有り余る中からその一部を:普通私達は献金の額によ ってその 人の心を推し量ります。しかし主は、どれだけ捧げたかではなく、献金した後でどれ だけ残ったか、言い換えれば財布の傷みを感じながら献金しているかを見ておられる ということです。金持ちたちは、有り余る中(「豊かさの中から」=有り余る中から) から捧げました。 額としては多いが、財布の傷みという点から言えば、そんなに大きなものではない、と いうことです。 主イエス様は彼らの献金を過小評価はしておられないと思います。

2)寡婦は全財産を:しかし、主イエス様の強調はこのやもめの献 金です。彼女 は生活費の全部を捧げてしまった、残りは何もない、それほど徹底的に捧げきったの だと評価されたのです。どうしてそんなことが分かったのでしょう。多分、この寡 婦が一瞬の迷いを示した事から、「うん、このレプタ二枚は彼女の最後のお金なんだ な」と見抜かれたのでしょう。もちろん、これをすぐに私達の献金に当てはめて、銀 行残高によって信仰が計られるなどと短絡してはなりません。イエスの強調は、神へ の信頼とデボーションの表れとしての献金だという点にありました。

3.額ではなく心

聖書に短くしか書かれていないことをあまり想像してはいけないか もしれませ んが、私は敢えてこの寡婦の心の中にあったこと、そしてイエスが評価されたであろう 心を分析したいと思います。

1) 神への信頼:寡婦は、何も残らなくても、神が支えて下さると いう信 頼に立って捧げました。ここにこの寡婦の神に対する100%の信頼の姿を見ます。 一応神には祈るが、もし答えられなければ何とか逃げ道を作っておこうというよう な、中途半端な信頼ではなく、100%の信頼です。働いて次の収入を得るまで何も お金がないという状態をも甘んじて受ける信頼だったのです。

昨週の林間聖会で、私達はその必要のすべてを予約という形ではな く、自由献金のみに委ねました。これは大きな冒険のように思われましたが、主が豊か に満たして下さいました。

2)神への愛:持てるすべてを神に捧げても惜しくないほど神を愛 していま した。神を喜ばせるとの純粋な動機からの献金でした。私達は愛するもののためには お金を惜しみません。愛し合う夫婦が、お互いのために惜しまずにプレゼントを交換 するように、いやそれ以上に、私達は神を愛し、敬い、そのみ業の進展を祈ります。 その愛は、与える行動になって参ります。この寡婦も、こんな小さい額の献金でも神 は喜んで下さると信じて捧げたのです。事実、神は、彼女の献金を一番多額の献金だ と認めて、誉めて下さいました。

私は会計ではありませんが、依頼を受けて会堂の一 時献金だけは受け入れをしております。今年の8月現在で、領収書番号は500号を大き く 超えています。帳簿を付けながら、その背後にあるお一人一人の貴い神への献身と愛を 思 いつつ、心が熱くなります。コリント人への手紙第二 9章7節に、

Uコリント9:7b 神は喜んで与える人を愛してくだ さいます。

と記されていますように、神に対する愛を持って捧げる人を、神はどんなに愛し給うで ありましょうか。

3) 神への感謝:どんな感謝がそこに籠められていたか、内容は分 かりま せんが、心からの感謝に溢れていたのでしょう。そこをイエスはご覧になったので す。子供の病気が癒されたとか、何か感謝の理由があったのでしょう。

詩篇50:23 感謝のいけにえを捧げるものは私を崇め よう。

とありますように、感謝を捧げることによって、神を崇めるのです 。

4)神への献身:レプタ2枚の中に、彼女の全身をこめての献身が 含まれて いました。つまり、 これは単なるお金の問題ではなく、彼女の生涯すべてが含まれ ていたのです。主は、この女性は「生活費の全部を投げ入れた」(文字通りの訳で は「生活の全部」を捧げた)と評価されました。

献金は単なるお金ではありません。私達の献身の表れです。この寡 婦の献身的献金は、パウロがマケドニヤの教会の人々の献金態度について評価している ところと共通に思います。コリント人への手紙第二 8章1-5節を紹介します。

さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に 与えられた神の恵みを、あなたがた に知らせようと思います。

苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満 ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施 す富となったのです。

私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、 いや力以上にささげ、

聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと 、熱心に私たちに願ったのです。

そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従っ て、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

D.おわりに

1.私達の心も行動も見通しておられる主を意識しよ う

主イエス様は、人間行動の全てを観察なさり、評価なさるお方とい うことを覚えね ばなりません。

やもめの経済状態も見抜きなさり、私の貧しさをも、哀れな状態を も、そして私達のこころの動機までも見抜きなさるお方が主イエス様です。このお方に 心からの感謝、喜びをもってお仕えしようではありませんか。

2.信仰と献身を持って進もう

心を見届け給う主イエス様を意識しながら、このお方に対する揺る ぎない信仰を 持ってすすみましょう。このお方に私達が持っているすべてを捧げましょう。お祈りい たします。


Message by Isaac T.Saoshiro,senior pastor of Na kameguro IGM Church

Compiled by K.Otsuka /August 14,2005