礼拝メッセージの要約

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。

2005年8月21日

「祖国滅亡の只中にある預言者エレミヤ」

井川 正一郎 牧師

哀歌3章33-41、55-59節

中心聖句

40 私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。
41
私たちの手をも心をも、天におられる神に向けて上げよう。

哀歌3章40-41節)


60年目の終戦記念日

 先週、8月15日は60年目の終戦記念日です。ある人は終戦記念日ではなく、敗戦記念日というべき、敗戦と認めていない人々が存在することは問題で、敗戦と受け止めるべきと言う人がいます。ともかく、60年目を迎えました。私のような戦後まもなく生まれた団塊世代の者はよく「戦争を知らない世代」と言われました。60年もたつと、戦争を知らない世代だけでなく、時代は進んで、更に「東京オリンピックを知らない世代」(昭和39、1964年)があり、「大阪万博を知らない世代」(昭和45、1970年)があります。そして今や、「昭和を知らない世代」(平成も17年を数える)の存在となるのです。

林間聖会分科会「憲法9条と平和主義」

 先日の林間聖会で「政治と教会」とのテーマの一つの分科会がありました。主牧の発題、私の司会でした。20名集まりましたが、なぜか内半分近くが中目黒教会の人々でした。特に憲法9条に関わる平和主義の思想、戦争放棄についての理解/解釈、即ち完全な戦争放棄をうたうものか、或いは自衛戦争はゆるされるか、自衛隊の存在について等、時間が足りなかったのですが、有意義な時を持ちました。いわゆる靖国問題や、君が代の国歌問題、日の丸の国旗問題といった非常に身近な実際問題にまでの議論には至りませんでしたが、非常に興味深い課題が具体的に扱われました。教会のテーマ別の学びに扱ったら良いのではとの意見もありました。

祖国陥落を目撃した預言者エレミヤ

 哀歌を開きました。哀歌はそのエルサレム陥落に関わる事柄が記されています。哀歌はエレミヤが預言した通りに神の刑罰/さばきとしてユダの国がバビロンによって討ち滅ぼされ、ついにエルサレムが陥落/破壊されていく有様を目撃しつつ、涙と断腸の思いで記したものです。その彼が記した哀歌を学びつつ、エレミヤの姿から今日の我らにも学ぶべき所が多くあろうと確信しています。

エレミヤの生きた時代

 まず序論的に、預言者エレミヤの生きた時代背景を簡単に見てみます。エレミヤはー650年(編集者注:"−"は紀元前の意味)頃(-647年)、南王国ユダ、エルサレムの北側にあるアナトテという小さい村に誕生しました。その地の祭司ヒルキヤの息子として生まれました。彼が誕生したのは、55年間も続いたあの罪の権化のようなマナセ王の治世晩年でした。神は、エレミヤが20歳くらいの青年時代に預言者として召しなさったのです(-627年頃)。ユダの王ヨシヤの治世13年(-627年)の時でした。当時のユダ王国はヨシヤの前の前の王マナセの罪深い悪政によって霊的にも政治的にも最悪の状況に陥りつつあったのです。エレミヤは幼い頃からマナセの悪政を見聞きして育ち、特に祭司の家庭に育った者として国の前途を憂慮していたでしょう。純真な思いを持って国を考えていたでことでしょう。そこに16代目の王としてヨシヤが立てられ、早速に宗教改革を始めました。エレミヤも預言者として女預言者フルダたちと共に、ヨシヤ王に協力しました。ヨシヤの宗教改革のスタートは良いものでしたが、次第にしりつぼみとなっていったようでした。それほどの効果がなかったようです。それほど、マナセの悪い影響が宗教指導者の心にも一般の人々の心にも深く及んでいたと思われます。特に改革を目指したヨシヤ王自身がエジプトと戦って戦死したことによって、その改革は頓挫してしまったのです。受け継ぐ王たちにはユダの国を政治的にも、霊的にも守り保っていく力はなかったのでした。

 時代はあのアッシリヤが滅び、強大な力/勢力を持ち始めたバビロン帝国が世界制覇を目指していました。メソポタミヤ地域、更にパレスチナ、更に当時の大国エジプトへとその支配を伸ばそうとしていました。南にエジプト、北からはバビロンと大国に挟まれた形の小さな風前の灯火のような存在となっているユダでした。

 預言者エレミヤはこのような時代の直中にあって預言活動をしたのです。特に王たちも人々も神の声を聞かず、そのおきてにも心を向けない、そのような中で、神の真実を語り、神のさばきを伝えなければならなかった奉仕でした。そして、ユダの罪は重く、ついにバビロンによって祖国ユダは滅ぼされます。神の都エルサレムは陥落。人々の大反対の中、バビロンに行くことが繁栄につながることであると述べています。もとより、迫害を受け、ついにエジプトへ連れて行かれ、そこで殉教したとの預言者でした。


哀歌

 きょうはエルサレム陥落直後に記されたと言われる哀歌の箇所にしぼって、その陥落直中にある預言者エレミヤの姿を見たいと思っています。

 各章一つずつの哀悼詩。きょうの三章以外はすべて、ヘブル語のアルファベット22文字になぞらえて、各22節ずつから成り立っています。いわば、いろは歌、数え歌のようになっているのです。もっとも五章はやや不規則になっているのですが・・。

 哀歌は「エルサレムの苦難」とのテーマに基づき、一章=その意味、二章=その事実、三章=その要因、四章=その教訓、五章=その根本問題、です。

 一章=エルサレムの荒廃と嘆き、罪の故に
 二章=かつてイスラエルを守り給う神がその民を捨てたこと
 三章=エレミヤの哀求と信仰
 四章=かつての栄光と比較されるイスラエルの現在の惨めさ
 五章=神のあわれみの嘆願と祈祷

哀歌(3章)

 きょうは三章を中心に取り上げます。66節あります。22節の三倍となっているのです。エレミヤの心の底からほとばしる心情が示されます。その心情の故か、この章の流れはそれほど理論的に順序よく並んではいません。

1)1-21節=民の罪に対する審判
2)22-39=神の恵み/あわれみを仰ぎ望む
3)40-54=悔改めの祈り
4)55-66=聞かれた祈り

 22節以降の祈りは近い将来の回復のための祈りであり、バビロン捕囚からの解放がそれの具体的実現となります。


預言者エレミヤの姿から学ぶ

 きょう、短い時、この三章を中心に、目撃体験者の預言者エレミヤの姿から、5つのことを学びたいと思います。そして、信仰者のあり方を吟味したいと思います。

1.神の審判を語る預言者(1-21節)

 1節に「私は」とあります。私とはエレミヤ個人の苦しみが記されていると思われるような展開になっていますが、哀歌全体から総合的に理解すると、この私はエレミヤと共に、エルサレム、ユダ全体を含むエルサレムとの意味もあると理解できます。エルサレムの悲劇。言い換えると、エルサレムはその罪の故に徹底的に罰せられます。苦しむとの箇所です。罪は罪として罰せられるとの事実です。

2.廃虚の中から主仰ぐことを語る預言者(21-39節)

 主から受けた望みは消え失せたと言っておいて、急に思い出したように21節=私は待ち望む。21ー節からは主のあわれみが尽きないとの希望の箇所で恵まれます。主のあわれみは尽きないのです。朝ごとに新しいものではないか。いつまでも私たちを見捨て給わない。主はただ、廃虚のための廃虚とされるのではない。ただ苦しめ悩まそうと思ってはおられない。エレミヤはこの21-39の箇所で、新しい主の回復のみわざがあることを信じ待ち望みます。廃虚の中でも、回復の神がおられる。廃虚は回復のためのものであることを受け入れるのです。

3.人々の罪をみずからのものとする預言者(40-54節)

 3:1-。エレミヤ個人とユダ/エルサレムとを同じにみます。預言者の特徴の一つです。民の罪を我の罪と同じとすること。そもそも、預言者のタイプには、特にバビロン捕囚以前の預言者のタイプとして、三つのグループがあると学ぶことができます。(ないし四つ) 

 大きく見て、いわゆる預言者が多く活躍した時代に、次の3つがあります。


(1)エリヤ、エリシヤの時代
  =アハブ王、ヨシャパテ王の時代

(2)ホセア、アモス、ミカ、イザヤの時代
  =ヤロブアム2世、ウジャ王ーヒゼキヤ王の時代

(3)エレミヤ、エゼキエル、ハバクク、ゼパニヤ等の時代
  =ヨシヤ王ーエルサレム陥落前後の時代

 1)の時代の特徴は、預言者自身が先頭に立って、王と直接対決しつつ、政治的にも宗教的にも率先して「改革」を進めるものです。2)のそれは、預言者が先頭をきって改革を推進するのでなく、「ことば」(メッセージ)をもって、民を悔い改めに導こうとするものです。記述預言者です。3)のそれは、メッセージでもいっこうに悔い改めず、主に立ち返らない民はさばかれるでしょうが、その民の罪を自分の罪として負い、その罪をおゆるしくださいと身代わり的な奉仕、そして、もし刑罰があるなら、私がその罰を受けますといった、いわば命を投げ出すような奉仕であったといえるのです。

 第一のグループは王国時代に入っての最初の預言者ともいってよい、エリヤ、エリシャです。彼らは王に直接会って意見の言える、いわば政治的にも王の近くにあって、大きな影響を与える預言者でした。

 第二のグループは北王国と南王国が政治的にも物質的にも大いに繁栄した時代の中に登場した預言者たちです。北王国はヤロブアム二世、南はウジヤ王を頂点として、大いに栄えた時代。物質的経済的に繁栄するとは、実は道徳的宗教的に堕落する時代でもあるのです。そこに神の預言者が多く登場する所以です。彼らは神のメッセージを口で伝える預言者であると同時に、執筆して書に残す預言者でもありました。腐敗堕落の坂道を下っていく国と民を何とか食い止めるべく、神に立ち返れ、悔改めを強く口で語り、記録に残す預言者でした。

 第三のグループはもはや北王国は滅び、残った南王国も滅亡寸前という時、起こされた預言者たちです。エレミヤはこのグループに属します。このグループの特色はもはや悔改めのメッセージを語っても、聞く耳を持たず、まっしぐらに滅びに向かう人々の罪。もはや、治療の施しようがない。この国を根本的に治療するには、今ここにいる人々を大掃除して、後の新たな民による回復しかない。バビロンによる神の審判はこれであり、そのさばきに従うこと。そして、その後の回復に期待することが民の選ぶべき道と示すことであります。そして、このグループの預言者の最大の特徴は人々のどうしようもない罪を人々の罪とせずに、預言者自身の罪と同じとしていることです。第二グループのイザヤにもこの特徴は出ているが、エレミヤに最も良く示されている特徴です。捕囚後の預言者ネヘミヤの祈りにも、この特徴が出ています。3:1-。ここにその特徴がいかんなく発揮されています。

4.徹底的な悔改めの祈りをする預言者(その応答を頂き、嘆願)(55-66節)

 55-56(40-41とからんで)。その祈りが聞かれたとの確信と共に、敵に対するさばきの願い。主の公正なさばきへの願い。みこころに相応しいことがなされるようにとの嘆願です。

5.心を貫く預言者(41節:中心聖句)

41 私たちの手をも心をも、天におられる神に向けて上げよう。

(1)迫害試練、さばきの嵐の中で、心を貫く

 そもそもエレミヤは働きを通して、預言者としての心を貫きました。エレミヤはその時代の中にあって、みずからもその激動の直中にあり、みずからも激しい迫害試練にあった預言者です。彼のメッセージの内容は詳しくはエレミヤ書にありますが、ユダの罪を示し、神のさばきがあること。ユダは滅びること、エルサレムは陥落すること。捕囚にあうこと。それに従順に従ってバビロンに移されていく。そして、ある期間、そこにいること。それがひいては神の回復のみわざにあずかることになるとのメッセージです。王や人々が納得できるメッセージではないのです。他にも預言者と称する者たちがいましたが、彼らのメッセージはエルサレムは神の都ではないか。神殿があるではないか。決して滅ぼされるわけがない。人々よ、安心せよ、平安であれとの、耳に心地よいメッセージに心を向けるのでした。いわば、国を売るようなメッセージを語るエレミヤこそ、ガンである。エレミヤに対する迫害は過酷なものとなるのでした。

 エレミヤ書にあるもの、具体的に示します。1)親族に反対、2)町の人にも、3)エルサレムの市民にも(18:18)反対。時には、4)足枷をつけられ、5)獄につながれ、泥の中にしずめられる、書いたものさえ、切り裂かれ火にくべられた等。ともかくも、エレミヤは過酷な使命に生きた人物でした。

 エレミヤがエレミヤ書に多く個人的苦悩、嘆きの記事がありますが、彼の苦悩とは預言者になりたくなかったがやらざるをえないとの苦しい心情を述べたものではありません。彼の苦悩とは自分の仲間に、頑な、いくら悔改めのメッセージを伝えても、聞かない民が神のさばきの鉄ついにあう。滅んでしまう。それを愛する同胞に伝えねばならないとの苦悩でした。預言者としてその使命を全うせねばならないとの苦悩でした。

 預言者はその時代の直中にあり、その直中の風、逆風、また嵐をまともに受けて奉仕に当たる者です。

(2)使命を全うする心を貫く

 一貫した神のメッセージを語ること。時代の悪を語り、神の審判を語る。何としても神に立ち返る、罪を悔い改める。神に立ち返る。そのメッセージを語る預言者の存在の必要です。そもそも今の人々はたちかえろうとしない頑な者たちばかりかもしれませんが、そもそも人の心は神に立ち返る余地がまだ、残されていると確信し、勧めるのです。

(3)心を決めるのは、私だとの心を貫く

 心の最後の決定者は「私の意思」。この時代、どう生きれば良いか。心を定める必要がある。神に心をたしかに向ける。定める。悔改めの必要。また神に単眼的に向く心と手のわざの必要です。41節。心を強く定めた者が、この時代に必要なのです。そして、その者達への迫害反対攻撃も激烈となります。しかし、心を定めた者の勝利は約束されているのです。主のあわれみはその者たちに尽きないのです。


しめくくり

1.心を定めよう。

 心の行き先をきめるのは、誰でしょうか。この私です。

2.目をさまし、預言者の心をもって時代を生きよう。

 小さな一つ一つの積み重ね。心を定めて信仰を貫こう。

3.いかなる迫害を加えても「心」を支配できる者はいない。

 勝利の理由は、真実な信仰者/殉教者の姿にあります。迫害すればするほど、その姿に感動してかえって、クリスチャンが増えるという、ローマ帝国にとって皮肉な結果となるのです。殉教を全くいとわない故に、武力では無敵のローマ帝国も、クリスチャンには敗北せざるを得なかった。まさに、このことは我らに、宗教/思想の統制、人間の精神や心まで統制支配するとの試みは、いかなるスローガンをかかげても、時の権力者たちの思い上がりであり、どの道必ず失敗せざるを得ない空しい努力なのです。

 心を貫いて、預言者の如く生きてゆきましょうご一緒に、お祈り致しましょう。


Written by S. Ikawa and Edited by N. Sakakibara on 2005.8.21