礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2005年9月4日
 
「神の友(7) モーセ」
プレイズワーシップ
 
竿代 照夫牧師
 
出エジプト記33章11節
 
 
[中心聖句]
 
 11  主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。
 
(出エジプト記33章11節)

 
はじめに−−−「神の友」を終えるにあたり
 
 
旧約聖書の箴言 17章17節に、
 
友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。
 
という言葉があります。本当の友達を持つというのは素晴らしいことです。「そんな人は誰もいないよ」とおっしゃる方があるかもしれません。でも待ってください。ここに、イエス・キリストを中心とした友達がいます。この友達は、どんなときにも愛してくれ、祈ってくれ、支えてくれる本当の友達です。それ以上に、神を友として生きる、これが地上で許される最高の幸せです。

さて、神を友とした人々、神が友と呼んで下さった人々の話は今回で終わり、この次からは、キリストとの出会いを経験した人々に移ります。
今日の人物はモーセです。

 
神を友としたモーセ
 
 
「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」
 
出エジプト記33章11節をご覧下さい。

人と人が話し合うように、神と人が話し合うということはあるのでしょうか。私達の神観念の第一の躓きは、神というお方を、遠くにおわします、きよい(けれども怖い)存在としてイメージしてしまうこと、あるいは、天地宇宙を知恵を持って造られた偉大な創造者、絶対者として認識はするものの、私達と会話をして下さるような近い存在としては捉えていない、そういった弱さです。確かに、神は絶対者であり、創造者であり、すべてのものに超越しておられる偉大なお方です。清くあられ、その前に虫けらに等しい私達が堂々と立ってはいられない程の威光と尊厳に満ちたお方です。しかし同時に、神は人格的なお方、人との交わりを求め給うお方です。それが、モーセと友がするように顔と顔をあわせて話し合ったという言葉に現れています。
 
親しい語らい
 
 
目に見えない神が、ちょうど私と○○さんが「顔と顔を」合わせて物語るように物語る、ということはあり得ません。モーセがいかに親しく神と物語っていたかの比喩的な表現です。私の想像ですが、モーセは、言葉に出して親しげに神と物語ったのではないでしょうか。神は、ある時にはモーセに聞こえるようなはっきりした声で、ある時には心の中でしか聞けないような声をもって語ったように思います。

身内の話で恐縮ですが、私の母が召天して7年になります。先週、男兄弟6人とその伴侶者や数人の子供達が集まって、墓参りをしました。母の思いでは沢山ありますが、その一つは、「良く祈る」、「楽しそうに祈る」ということでした。

私の姪が母を訪ね、教会学校の教材を貸してくれと依頼しました。押し入れの中に入った母は、しきりにひとりごとを言っているのです。しきりに「ごめんなさい」という声が姪の耳に入りました。「いえ、いいんです。」と姪。ところが母はそれに答えず話を続けました。 「神さま、教会学校の教材を置き忘れてしまってご免なさい。でもそれがどうしても必要なんです。どこに置いたか思い出させて下さい。・・・」ちょうど、同じ部屋にいる人に話しかけるような親しさをもって祈り、探し、祈り、探し続けました。結果は見つかったのです。小学校6年生の姪は、お祈りって何だろうという疑問から、祈れなくなっていたところに、このおばあちゃんの祈りにぶつかって目が開かれました。肩に力を入れず、神さまと呼びかけて、おばあちゃんの真似をしたというのです。それ以来祈りが楽しくなった、と述懐しています。

 
突っ込んだ語らい
 
 
 
モーセの場合、「今日はいい天気ですね」というようなのんびりしたものではありませんでした。話題になったのは、イスラエルの民が神の代わりに金の子牛を偶像として作るという大きな罪を犯してしまい、それに対する処置を巡ってのいわば激しいやり取りです。私なりに、要約して再現してみます。

主:こんな頑固なイスラエル人は生かしておけない。この人々を処罰してしまおう。お前は別だから、お前だけ生かしておいて、新しい民族をやり直そう。
モーセ:そんなことをなさったら、あなたのお名前に差し障ります。あなたはイスラエルを祝福するとお約束されたではありませんか。確かにイスラエルはあなたの前に赦すべからざる大きな罪を犯しました。私の命に免じてどうかお赦し下さい。

主:そこまで言うならば、赦してあげよう。でも、私は彼らと一緒に行くと、どうしても彼らの罪が目にうつって裁きに走ってしまうかもしれない。私の代わりに天使を遣わそう。その天使が彼らを導こう。
モーセ:えっ!天使ですって?そんな話はとても飲めません、神さま。神さまは、この民を特別に選んで愛するとおっしゃったではありませんか。身代わりの天使なんかでお茶を濁されては困ります。どうかあなたご自身が私達と一緒に約束の地までご一緒して、お導き下さい。

主:うーん。そこまで言うか。よし、それでは私自身があなたがたと一緒に行こう。
モーセ:ほんとですか、神さま。それは素晴らしいニュースです。でもしつこいようですが、どうやってあなたが私達と一緒と言うことがわかるのですか。

主:私の栄光というものを見せるから、それで納得しなさい。

このような会話が出エジプト記の33,34章に記されています。丁々発止です。

モーセは民を思い、神ご自身の栄光を思い、必死の思いでもって神と交渉します。自分の立場などは出てきません。神もまた、モーセを思い、ご自身の正しさを曲げることなく、解決を提案されます。

友達というのは、本当に突っ込んだ話をするものです。相手の立場を思い、公正と正義を思って激論さえするのです。それが神とモーセとの友情でした。

私達も、小さな規模ではあるけれども、こんな議論を神さまとしたいものです。それはできるのです。日本を見、世界を見ながら、神と議論をしたいのです。

私の抱えている小さな課題、それが健康であれ、経済であれ、家庭問題であれ、友人関係であれ、何でも持ち出して神と議論するのです。これって本当に楽しい、素晴らしい営みです。

 
顔が輝くような語らい
 
 
神と親しく物語った結果はどうなったことでしょうか。出エジプトの記録によれば、彼の顔から光が放たれ、人々はベールをかけてくれと頼まねばならなかった程であったのです。新約聖書においてパウロは、私達とキリストとの関係は、モーセと神との密接な関係よりも、もっと密接なものだ、とかたっています。 私達はキリストと近く歩むことによって、栄光から栄光にと進み、彼と同じ形に造り変えて頂くのです。コリント人への手紙第二3章16節と18節を引用します。

人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

・・私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

 
とても素晴らしい聖句です。これはクリスチャンのゴールを示した言葉です。これについて三つほどコメントします。

1)主に向くとは、主に向かって自分を転回する転機的な経験、活ける主との交わりに入る回心経験を指します。それと同時に私達の心と目とが絶えず主に向けられ続けることが示唆されています。

つまり、他を向かないということです。私達の関心と愛の対象が主イエスのみに向けられるのです。ヘブル人への手紙12章2節には、

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
と勧められています。

私達の日常生活には、主から目を離させようとする娯楽、仕事、家事、ニュースに満ちあふれています。情報過多の時代です。こんな時こそむしろ、心を主に向ける営みをしっかり持とうではありませんか。

 

2)主の栄光を反映させるとは、神の栄光の現れであるキリストをはっきりと見ることです。待ち望む心をもって御言葉を学ぶ時、キリストの姿がはっきりと示されて来ます。

その鏡に映るキリストの姿に、私達の姿を重ね合わせ、足らない所を補って頂き、出過ぎた所を削って頂いて、主たるキリストの姿に似た者となって行くのです。

 

3)主と同じ姿とは、キリストと似たものに変貌していく過程です。どんなゴールに勝ってキリストと似たものとなるというゴール程栄光に満ちたものはありません。もちろん、私達がキリストそのものになる訳ではありません。

清水ミチコさんというものまねの名人がおりますが、物まねというのは、外形ではなく、その相手になる物に魅力を感じ、好きになり、ああなってみたいというところから始まるそうです。

私達がキリストに似るというのは、中身のこと、御霊の実として表れる品性のことです。ガラテヤ人への手紙5章22-23節に記されていますように、

・・・愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制なのであります。
 
おわりに
 
  1.私達のために命まで捨てて下さった本当の友である主イエスに感謝しましょう。

2.彼と話してみましょう。あるいいは一方的と思えるような会話であったとしても、最初は それでよいと思います。話し続ける内に先方も話しはじめて下さいます。

お祈り致します。