モーセの場合、「今日はいい天気ですね」というようなのんびりしたものではありませんでした。話題になったのは、イスラエルの民が神の代わりに金の子牛を偶像として作るという大きな罪を犯してしまい、それに対する処置を巡ってのいわば激しいやり取りです。私なりに、要約して再現してみます。
主:こんな頑固なイスラエル人は生かしておけない。この人々を処罰してしまおう。お前は別だから、お前だけ生かしておいて、新しい民族をやり直そう。
モーセ:そんなことをなさったら、あなたのお名前に差し障ります。あなたはイスラエルを祝福するとお約束されたではありませんか。確かにイスラエルはあなたの前に赦すべからざる大きな罪を犯しました。私の命に免じてどうかお赦し下さい。
主:そこまで言うならば、赦してあげよう。でも、私は彼らと一緒に行くと、どうしても彼らの罪が目にうつって裁きに走ってしまうかもしれない。私の代わりに天使を遣わそう。その天使が彼らを導こう。
モーセ:えっ!天使ですって?そんな話はとても飲めません、神さま。神さまは、この民を特別に選んで愛するとおっしゃったではありませんか。身代わりの天使なんかでお茶を濁されては困ります。どうかあなたご自身が私達と一緒に約束の地までご一緒して、お導き下さい。
主:うーん。そこまで言うか。よし、それでは私自身があなたがたと一緒に行こう。
モーセ:ほんとですか、神さま。それは素晴らしいニュースです。でもしつこいようですが、どうやってあなたが私達と一緒と言うことがわかるのですか。
主:私の栄光というものを見せるから、それで納得しなさい。
このような会話が出エジプト記の33,34章に記されています。丁々発止です。
モーセは民を思い、神ご自身の栄光を思い、必死の思いでもって神と交渉します。自分の立場などは出てきません。神もまた、モーセを思い、ご自身の正しさを曲げることなく、解決を提案されます。
友達というのは、本当に突っ込んだ話をするものです。相手の立場を思い、公正と正義を思って激論さえするのです。それが神とモーセとの友情でした。
私達も、小さな規模ではあるけれども、こんな議論を神さまとしたいものです。それはできるのです。日本を見、世界を見ながら、神と議論をしたいのです。
私の抱えている小さな課題、それが健康であれ、経済であれ、家庭問題であれ、友人関係であれ、何でも持ち出して神と議論するのです。これって本当に楽しい、素晴らしい営みです。
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