礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2005年9月18日
 
「死ぬとどうなるか」
謝恩聖日に因んで
 
井川 正一郎牧師
 
ルカの福音書16章19-31節
 
 
[中心聖句]
 
 28  「私には兄弟が5人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」
 29  しかしアブラハムは言った。「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。」
 30  彼は言った。「いいえ、父アブラハム。もし、だれかが、死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。」
 31  アブラハムは彼に言った。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人のなかから生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」
 
(ルカの福音書16章28-31節)

 
はじめに
 
 
先週は、愛老聖日でした。世の中では敬老の日です。最高齢は福岡在住の女性112歳。男子は110歳で鹿児島在住の方だそうです。100歳以上は2万5、606人で、そのうち女性2万1、820人、全体の85%を占めるそうです。高齢者の多い県は沖縄県。私たちの教会は70歳以上の方々を愛老会のメンバーとしています。その見直しをすべきかどうかの小委員会が発足します。

現在の日本では65歳以上を高齢者として扱います。65から74歳までを前期高齢者、75歳以上を後期高齢者として区分します。高齢社会です。現在20%近くになっています。3、40年後には40%以上、高齢者が占めると予測されています。特に戦後のベビーブームの時に生まれた我ら団塊世代の人間が老人になっていくのです。団塊老人です。

なぜ高齢者が増えるかの理由は「長く生きる」からです。食生活環境、栄養の充実、医療技術の進歩、また死亡率の低下等の理由があがっています。昔は健康で丈夫な者だけが生きる時代でした。多くの子供を生むが、その多くは生活環境の悪さ、不清潔、病気にかかるともはや直せないとの医療がまだ進歩していない等の理由で多くは幼い時、青年期で死んでしまうのでした。健康で丈夫な者だけが生き残る。でも、今やそのような時代は過ぎ去り、長生き・長寿・高齢者の高齢社会を迎えています。長く生きることは一方では恵みなのです。老いることの幸いがあります。と同時に、高齢になる、老人になる、年をとる、老いるということにはそれ相当の課題もつきまとうのです。介護等の課題があります。介護の課題については、きょうは取り上げませんが、人がたとえ長く生きたとしても、実は人は、いつかは必ず死ぬのです。

死とは何なのでしょうか。死んだ後、人はどうなるのしょうか。人は死ぬと、どうなるのでしょうか。神様からのメッセージを今日学びたいと思っております。
 
T.死とは何か
 
 
(1)罪の結果
 
 
罪から来る報酬は死である(ローマ 6:23)
 
それは罪の結果です。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まって」います(ヘブル9:27)。人はその罪の結果の故に、すべての者が例外なく肉体的死を通過しなければならないのです。
 
(2)肉体とたましいの分離の時
 
 
肉体的・生物的生命の終わり、ストップです。たましいが肉体から分離すること、すなわち、肉体的・生物的生命のストップ、外枠が朽ちることであり、決して存在の消滅を意味しないのです。私たち人間は肉体的に死ぬ時、単に生物的肉体が朽ちるだけであり、我を我たらしめる「たましい」は生きているのです。

たましいの死は、霊的な意味の死、たましいと肉体の双方が神から離れる、すなわち、神との断絶です。
 
(3)地上生涯における最後の出来事
 
 
人間に与えられた地上生涯における最後の出来事、すなわち、悔改め・ゆるしという恵みのチャンスの閉じられる時、人間に与えられた地上での使命が終わった時、永遠的霊的な意味で主と共に居ることの始まりです。肉体を離れるとは、主と共に居ることです(Tコリント5:6)。地上にいるよりも、それを願うものです(パウロの場合:ピリピ1章)。
 
U.死んだ後、どうなるか
 
 
(1)地上では、葬儀/納骨(葬りの営み)(墓)
 
 
葬式、埋葬の時、寂しいかもしれませんが、目の前の棺の中に横たわっている体はあくまでもなきがら、ぬけがらです。本当のその人は、その肉体から離れて、もはや主と共にあるのです。ただ、そうは言っても、厳粛に恭しい思いをもって葬儀を営むのです。その葬儀の目的は、もとより神の栄光があらわされるためです。それを細かく言うと、神が召天者をいかに神の器として育て養い、輝かせたかを示すのです。本人の証詞です。本人ができる最後の伝道会です。本人だけではなく、回りの家族親族の方々のため、遺族のため、会葬者のためです。埋葬、墓にそのなきがら、骨を納めますが、墓はなきがらをおさめます。永遠から見れば、一時的預かりの場所なのです。そのなきがらはいつかは朽ちるものです。しかし、改めて強調しますが、たましいは主と共にあり、生きているのです。
 
(2)人は死ぬと、いわゆる中間状態にある
 
 
人間の生命は、死によってその存在が無くなることを意味しないのです。しばしば、臨死体験をした人々の話を聞きます。どなたかが手をとって引っ張て下さり、長い暗いトンネルのような所をもの凄いスピードで通過します。それを過ぎるとパッと明るい輝くような世界が開けるのです。そこは…、という類いの話です。その話の正否はともかく、聖書は死後において、ある状態(場所)の存在を示唆します。人は死ぬと、いわゆる中間(的)状態にあるのです(天国の待合室?)。
 
(3)再臨、復活、千年王国、大審判、新天新地
 
 
再臨と復活があります。また、千年王国時代と大審判があります。大審判についてだけ、触れてみます。

(大審判)
1)審判者=神御自身 審判の実際的執行者=御子なるキリスト
2)審判の対象者 @信者、A悪い者、Bサタンとその手下
3)審判の基準=主にある、真実な信仰とその生涯
4)審判の結果=振り分けられる
5)振り分け:悔改めない者(永遠に悔いが残る、泣いて歯ぎしり、苦痛)と悔改めた者(天国、祝福の状態、永遠の安息)

天国で従事することは何でしょうか。永遠の安息といっても、ただ、じっとしているわけでない。活動があるのです。すべての苦役から解放され、私たちは全き安息を味うのです。神の美しさと栄光を目前に見、神と顔と顔を合わせることのできる永遠的満足なのです。

さらに、完全な頭脳と体をもっての、神への奉仕に励むのです(礼拝と讃美)。永遠的継続的霊的成長があると考えられるのです。
 
V.死の意味を考える
 
 
(1)必ず迎えるものとしての地上での備え
 
 
地上生涯で何が価値あるもので、永遠に残るものかを改めて吟味します。なくてならぬものはそれほど、多くはないのです。ある神の器は、なくてならぬものは一つ。ただ一つ。主イエス様。換言すると、主に対する信仰のみ。あとはすべて地上に残していくものです。
 
(2)デス・エディケーション(「死の教育」=見せる)
 
 
「死を見せる(Death Education)」です。現代は死が見えなくなった時代と言えると思います。人の死を見なくなりました。しかし、その死を見せるのです。風呂場で倒れようが、長期病気で寝たきりで死のうが。この時まで信仰を堅く守り、走るべき道程を走り続けた、走り終えたと見せましょう。それがたとえ、老いてしまって、認知症になっていてもよいのです。老いることをそのまま受け入れましょう。死をそのまま受け入れるのです。
 
しめくくり
 
 
今週1週間の営みの中で大切にしたいことは3つあります。

1)備えよう!(悔い改め:死んだ後では機会がない)
2)見せよう、見せて行こう!
3)伝えよう!(友人・周りの人たちへ)

もう1度ルカの福音書16章28〜31節を読んで終わりましょう。
 
「私には兄弟が5人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」
しかしアブラハムは言った。「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。」
彼は言った。「いいえ、父アブラハム。もし、だれかが、死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。」
アブラハムは彼に言った。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人のなかから生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」
 
信仰者として、見せることが大切なのです。神様の栄光のためです。これが今日のメッセージです。お祈り致します。