礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2005年10月23日
 
「これは私の体」
マルコの福音書連講(73)
 
竿代 照夫牧師
 
マルコの福音書14章22-25節
 
 
[中心聖句]
 
 2  それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
 
(マルコ14章22節)

 
始めに
 
  前回は、イエス殺害の手引きとなったイスカリオテ・ユダに焦点を当て、ユダの心の動き、そしてそのユダに対するイエスのご配慮を学びました。今日は聖餐式の制定について学びます。
 
A.最後の晩餐(12−16節<復習として>)
 1.過越の食事として
 
 
1)時:「種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日」
(12節)ユダヤの暦でいえばニサン(新年の始まり)の月の14日、エジプトの過越を記念する小羊が屠られ、各家庭に配られ、過越を記念する食事がなされる日です。受難週の暦でいえば木曜日の夕刻(ユダヤの数え方では、安息日の前の準備日が始まったばかりの時刻)

2)場所:
エルサレムの住人で、イエスのサポーターの一人の有力者(多分マルコの両親)の家の二階大広間です。その準備は、密かな中でペテロとヨハネに委ねられました。

3)食事:
種無しパン、苦い菜、葡萄酒、フルーツと酢を混ぜた鉢、そしてメインは小羊の肉

4)食事の開始:
最後の晩餐の冒頭に主イエスは、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」(ルカ22:15)と、その感慨を述べています。忙しい日程の主イエス、迫害の嵐の中で、その迫害の渦の中心地であるエルサレムの真ん中で、静かな別れの食事会をすることが出来た感謝、感慨はひとしおであったと想像されます。私達家族も、世界中あちこちと散っての生活が続きましたが、折々に5人が集まって食事をするときの楽しさ、感謝を忘れることが出来ません。

 
 
B.パンを裂く(22節)
 
 
「14.22 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」」
 
1.食事の締め括りに

儀式は食事の最初ではなく締めくくり的な意味で行われました。パンは食事の間に何回か取り廻しをされたのですが、一々その度に祈りが捧げられたのです。過越の最初のパンは、次の様な祈りで分かち合われました。「種を入れぬパンの祭、我等に自由を与え給える記念の日、出エジプトの記念の日を感謝す。イスラエルを選び、祝福し、守り給う主の聖名はほむべきかな。」この時捧げられた「祝福の祈り」 とは、パンを祝福するのではなく、神への祝福の祈りです。

2.種なしパン

このパンが固くて、イーストの入っていないパンであることが過越の食事の 特色です。この期間、家の隅々までイーストが除去され、イーストのないパンが焼か れるのでした。この掟は厳しく実行されていました。そこで強調されているのは純粋 さということです。イーストは腐敗をもたらすものとして悪いイメージで語られるこ とが屡々でした。ですから種なしパンであることが重要でした。イエスご自身も純粋 な生贄として捧げられようとしていました。その結果、主は純粋なパンの塊(教会) を作り上げなさったのです。第1コリント5:6−8を読みましょう「あなたがたの 高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり 全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるため に、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私た ちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古い パン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、 純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」

3.「私の体」

このパンを裂く時にイエスは「これは私の体だ」と仰いました。パンを裂い た同じ手が、数時間を経ない内に、その足と共に釘をもって裂かれ、頭は茨の冠で刺 し通され、背中の肉は鞭をもって破られ、脇は槍で突かれました。裂かれるべき体の 象徴としてパンを与えなさいました。そして、この裂かれたパンを食べる度に私の体 を思い出しなさい、と付け加えられました。カトリックの教義では、聖餐式の時のパ ンは文字通りキリストの体に変化する、という化体説がありますが、それは行きすぎ です。当然これはキリストの体の象徴として捉えると解釈すべきです。

4.「体」を食する

ヨハネ福音書によると、キリストは天から降ったパンです。そしてそれを食 するものが永遠に生きるのです。もちろんキリストの肉体そのものを食べるわけでは ありません。食物が口にはいるとお腹の中で消化されて私達の体に一体化されるよう に、聖餐式の時にパンを頂くことは、キリストと私を一体化することを意味します。 もっと簡単な言い方をすれば、キリストを思い切り信じることです。ヨハネ6章を飛 び読みします。

35節「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えるこ とがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。・・ ・

48節 わたしはいのちのパンです。

49 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べた が、死にました。

50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬ ことがないのです。

51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこの パンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいの ちのための、わたしの肉です。・・・

54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者 は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせま す。

55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。

56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼の うちにとどまります。」

5.一つのパンを裂く

パンが裂かれたことには、もう一つ意味があります。予め一人に一個とか分 けられていたのではなく、一つのものが人数分に分かち与えられたという点が大切で す。杯もそうですが、一つの大きな杯を廻して飲んだのです。そこには何とも言えな い一体感が生まれます。同じパンを分け合い、同じ杯からぶどう酒を飲む、これが聖 餐式のオリジナルなスタイルです。今日は衛生的な観点から、予め分けられたパンと 分けられた小さな銘々用の杯から飲みます。それはそれでいいのですが、本来は、一 体感を形に表した儀式であったと言うことを忘れてはなりません。

1コリント 10:16「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありません か。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。

17 パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みな の者がともに一つのパンを食べるからです。」

 
C.杯を廻す(23−25節)
 
 
「23 また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。
24 イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」
25 まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」」
 
1.締め括りの杯

過越食において祝杯は何回かに亘ってなされましたが、最初の祝福は次のような祈りでありました。「われらの神、世界の王、ぶどうの実をも造り給える主はほむべきかな。汝は諸国民の内より我等を選び、我等を高きところに置き、そのおきてをもって我等を聖め給えり。愛をもって汝は、喜びのために祝祭の季節を定め給えり。」

2.多くの人の贖いのための血

イエスは、その最後の杯で、ご自分の血を象徴されました。24節「これは わたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」と、イエスの血が、 多くの人のため、流される(文字通りには、注ぎ尽くす)ものとして言及されていま す。血は生命が暴力的な方法で奪われる事の象徴です。主イエスが自然死ではなく て、刑罰を受けることで死ぬ事をこの血は象徴していました。ですからマタイは、2 6:27に「罪を赦すために」という言葉を付け加えています。

ローマ3:25は 「血による、信仰による、宥めの供え物」と言い表しています。

イザヤ書 53:11 彼 は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべ は、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

イザヤ書 53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわ かちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたか らである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」

全 人類の全ての罪を背負って身代わりとしての血が流される筈でした。私達が負わなけ ればならない罪の罰を、キリストが十字架の上で全部引き受けて下さった、それが 「血によってなされる新しい契約」でした。山羊や牛の血は私達の心の内側ではな く、外側の物を清いものと見なす儀式にしか過ぎませんでした。それが本当に私達の 良心の呵責を解消し、私達の生活の在り方を実際的に変革し、罪に勝つ力を与えるた めには、儀式以上のもの、神の子の命が注がれる必要があったのです。

3.新しい契約の血

1)契約は、血によって保証される。神と人との約束は、血を流す事によっ て有効とされました。その意義は、約束は絶対に違反しない、違反したら、命を持っ てそれを償うと言う責任の大きさを象徴していました。契約というヘブル語はベリッ トといいます。これは「切り裂く」という意味です。約束を守らなかったら、その肉 体を切り裂いて償うという重大な決意を顕わしています。それを文字通り形に表すの が契約時になされる動物の生贄です。まっぷたつに立ち割った動物を右と左に置き、 契約当事者はその間を通り過ぎるのです。これはアブラハムに対して神が契約を建て なさった時にも行われました(創世記15章)ヘブル9:18を見ますと「初めの契 約も血なしに成立したのではありません。」と記されています。日本でも血判という 習慣がありますが、それと共通の点があります。

2)新しい契約 それは新しい契約のための血でした。古い契約とは旧約聖書全体と言えま す。英語ではいみじくもOld Testament(古い契約)と言い、新約の事はNew Testament(新しい契約)と呼んでいます。

・古い契約:古い契約とは、律法に基づくもので、行為による救い を示しています。これを行え、そうすれば生きる、というものです。十戒はその典型 ですが、それ以外にも、モーセを通して与えられた神の祝福と呪いの約束を貫くのは 正にこの原則です。しかし、この契約はうまく行きませんでした。契約が悪かったの ではなく、契約を守る側の性格が悪かったのです。誰一人、その律法を遵守出来ませ んでした。エレミヤ書 11:10には、「彼らは、わたしのことばを聞こうとしなかった 彼らの先祖たちの咎をくり返し、彼ら自身も、ほかの神々に従って、これに仕えた。 イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの先祖たちと結んだわたしの契約を破っ た。」と記されています。

・新しい契約:その人間性の弱さ、罪深さに立脚して、エレミヤは 新しい契約の到来を預言しました。その契約とは私達の罪を赦し、新しい心を与える 所にその核心があります。

エレミヤ書 31:31-34には、「見よ。その日が来る。― ―主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約 を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出し た日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らは わたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――彼らの時代の後に、わたしが イスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を 彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわ たしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのお の互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知 るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出 さないからだ。」

生ける神との交わりによって律法を守る心と力が与えられる、律法 が心の中に直接書き込まれる(刷り込まれる)、律法を守ることが喜びとなる、これ が新契約です。それを可能にするのが主イエスの贖いの血潮です。

 
D.最後の食事
 
 
「25 まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
 
「神の国で新しく飲むその日」とはいつでしょうか。主が再臨された後で行 われる小羊の婚宴のことでしょうか。それはこの文章だけでは明確でありませんが、 ともかく、これが十字架にかかって命を投げ出す前の最後の飲食であった事は確かで す。「ぶどうの実で造った物を飲む」とは、ぶどう酒を飲む(=象徴的な言い方で、 喜び楽しむ)ことです。主はこの言葉に感慨を込めて語られたのですが、肝心の弟子 達には、その感慨は伝わらなかった様です。
 
終わりに:主のみ体に向き合う
 
 
 
1.感謝

全身を注いで愛して下さったイエスに感謝をささげましょう。

2.信仰

私達の罪のために粉々に裂かれたイエスの肉体を通して、神は贖いを成し遂 げて下さいました。その贖いを100%自分のものと受け取りましょう。

3.献身

私達のためにその肉体を捧げて下さった主に倣って、私達も「自分の体を神 に喜ばれる清い活ける供え物として捧げましょう」