礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2005年11月20日
 
「黙す時と語る時と」
マルコの福音書連講(77)
 
竿代 照夫牧師
 
マルコの福音書14章53-62節
 
 
[中心聖句]
 
 61  しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」
 62  そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」
 
(マルコの福音書14章61-62節)

 
はじめに
 
 
1.昨週は、イエスご受難の始まりである深夜の逮捕劇から、主イエスの沈着さ、父なる神への従順を学びました。

2.さて、捕まった主イエスは、殆ど徹夜の状態で裁判から裁判のたらい回しを受けなさいます。今日は、その第一ステージとして、大祭司による裁判を学びますが、そこに入る前に、イエスがいくつのステージで、どの様な裁判を受けられたのかを一覧表にしますので、ご参照ください(下記リンクをクリックして下さい)。

3.6つのステージ:木曜日の深夜から金曜日の早朝まで、実に6カ所もたらい回しにされ、その度に辱められ、叩かれ、引きずられた私達の主を思いますと、本当に「涙も恵みに報い難し」という歌の通りです。マルコは、6つの内の第二ステージに焦点を合わせて話を進めていきます。
リンク:主イエスの受けられた裁判(一覧表)
 
A.遠く離れて従うペテロ(53〜54節)
 
 
53 彼らがイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来た。
54 ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まではいって行った。そして、役人たちといっしょにすわって、火にあたっていた。
 
1.カヤパ:大祭司
 
 
イエスを逮捕する使命を帯びた集団が、縄に掛けたイエスを連行して最初に行ったのは、大祭司カヤパの家です。(ヨハネによると、その前にカヤパの舅であるアンナスの家に立ち寄ったことが記されていますが、これは、予審的な軽いものであったと思われます。今日の言葉では認定尋問でしょうか。)

カヤパは、18年から36年まで大祭司職を務めたひとで、大祭司という霊的な職務にありながら、かなり政治的というか世的な男でした。ヨハネの福音書を見ると「彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。『あなたがたは全然何もわかっていない。50 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。』51 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」(11:49〜52)と記されているように、カヤパは、イスラエルがローマ帝国の下で平和的に存在し続けるためには、騒動を起こしかねない人物を葬っても仕方がない、と言う考えを持っていました。

その男の所にイエスが連行されたのです。イエスを十字架にかけた後の話ですが、ペテロとヨハネが伝道しているのを捕まえて尋問した事が記録されています(使徒4:6)。その時は、この二人を脅した上で釈放した、と記されていますから(4:21)、多少はマイルドになった訳ですが、それでもこの男の狡猾さは変わっていません。
 
2.ペテロの行動
 
 
ここでペテロが登場します。「遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まではいって行った。」まっすぐ至近距離からイエスに着いていく勇気はなく、さりとて遠く離れて見捨ててしまうには心残りだ、そんな中途半端な心持ちが良く現れているのが、「遠く離れて従う」行動となりました。どうか私達の信仰生活が「遠く離れて従う」ものでありませんように。イエス様に「つかず離れず」着いていくような段階があるかもしれませんが、お葬式の時に、あの方は、「遠く離れて従った」方だったなあと言うような複雑な印象を皆さんに与えないような、すっきりした信仰生活を送りたいものです。

カネボウの三谷さんの証の中に、私はクリスチャンです、信仰を選ぶか、昇進を選ぶかと聞かれたら、信仰を選びます、と旗幟を鮮明にしたことが却って信用に結びついたという件がありました。挑戦ですね。ペテロが大祭司の中庭に入り込んで火に当たっていたこと、それが、三度の否認に結びつくのですが、これは次の機会に扱いたいと思います。
 
B.黙し給うイエス(55〜61節a)
 
 
55 さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。
56 イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのである。
57 すると、数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして、次のように言った。
58 「私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造って見せる。』と言うのを聞きました。」
59 しかし、この点でも証言は一致しなかった。
60 そこで大祭司が立ち上がり、真中に進み出てイエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」
61 しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。
 
1.不当な裁判
 
 
さて、この辺からイエスに対する裁判が始まったのですが、この裁判は、当時のユダヤ社会で行われていた慣習や律法に照らしても、不法であり、不当なものでありました。一つには、サンヒドリンは夜に行われてはいけない、と言う決まりがありましたが、これが破られました。辛うじて、実質審理を真夜中に行って、正式決定を夜明けと共にするという体裁だけは取られましたが・・・。また、死刑の実行は、その決定から一夜明けてからでなければならない、という原則も踏みにじられました。その他にもありますが、それは次の項目で述べます。
 
2.証拠の不一致
 
 
ユダヤの掟では、どんな証言でも二人以上の証言が一致しなければ採用しない、という原則がありました。(申命記17:6「ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。」)形だけでも公正な裁きを演出しようと、色々な人々を立てて、イエスに対する糾弾を行わせたのですが、その証言が一致しません。その内の一つが、「わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造って見せる。」というものでした。

これは、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(ヨハネ2:19)というイエスの言葉と、神殿が破壊される(マルコ13:2)という言葉を結びつけた曲解です。ヨハネが記した予告は、イエスがご自分のからだという神殿は壊されるが、三日目に甦るという予告であるのに(ヨハネ2:21)、彼らはこれを神殿冒涜と非難したのです。しかし、これとても確証できませんでした。この時点でイエスに対する嫌疑は晴れたのですから、釈放すべきであったのです。今日の法律で言えば、不起訴にする、と言う措置が取られるべきだったのです。しかし、カヤパとその一味は、何とか有罪にしようと必死ですから、イエスご自身の証言を求めました。
 
3.イエスの黙秘
 
 
浅薄な質問にも答える必要はありません。しかし、きちんと理を尽くして答えねばならない時に黙ってはいけません。語るべき時にはしっかりと語らねばなりません。「黙っているのに時があり、話をするのに時がある。」(伝道者の書3:7)とある通りです。そのメリハリというものを、裁判の座に着かれた主イエスの態度から本当に教えられます。
 
C.語り給うイエス(61節b〜64節)
 
 
61b 大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」
62 そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」
63 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。
64 あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。
 
1.あなたはキリストか?
 
 
このままでは不起訴になることを恐れた大祭司カヤパは、被告から証言を引き出そうと、決定的な質問を致します。裁判官が、被告を有罪にするためのいわば誘導尋問をすることは「禁じ手」です。でもカヤパは、敢えて禁じ手を使って質問しました。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」と。油注がれた、と言うだけの意味でしたら王様でも祭司でも「油注がれたもの」(メシア)でありえます。ですから、カヤパはわざわざ「ほむべき方の子」と「神と同等であるものとしてのキリスト」なのかと迫ったのです。
 
2.命賭けの答え
 
 
このようなルール違反の尋問に対しては、今までと同様に主イエスは黙殺することも可能でした。しかし、このご自分の立場に関する決定的な質問に対しては、敢然と口を開き、イエス、ノーの答えからもっと踏み込んではっきりと立場を表明されました。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」今までご自分がキリストであることを表明されたのは、真の信仰者に対してだけでした。

例えば、サマリヤの女性に対して(ヨハネ4:26)、ペテロの告白への応答として(マタイ16:16、17)ご自分がキリストであることを明らかにされましたが、その時でも、他の人々には黙っているように語られました。しかし、この決定的瞬間に臨み、「私はそれです。」と宣言されました。加えて、「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見る」とまで仰いました。これはダニエル書の予言と関連しています。ダニエルは、来るべきメシアを「人の子」という呼び方をしていますし、その人の子が栄光の姿を持って来られることを予言しています。

「主は、私の主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』」主イエスはこの予言を、ご自分の再臨の時のことと結びつけて語られました。今は、縛られ、叩かれ、髪は乱れ、血はにじみ、何ともみすぼらしいユダヤの青年に過ぎませんでした。しかし、彼の内には、ご自分の成し遂げようとする全人類の救いに対する熱意と、その後の復活と昇天、再臨という大きな栄光を見て心躍る思いでありました。

私達も、言われなき誹謗中傷と言うような嵐を通ることがあるかも知れません。しかし、そのまっただ中にありましても、キリストにあって贖われ、すばらしい未来が待ち受けているという燃えるような希望を持って、凛としてその危機を通り過ぎたいものであります。少なくとも、自暴自棄になったり、自己憐憫に陥ったりしないように、イエスの模範を見上げましょう
 
3.冒涜罪と断定
 
 
この決定的なイエスの宣言によって、カヤパとその一味は、「やった」とばかりにほくそ笑みました。でも狐である彼は、そんな気持ちをおくびにも出さず、「何たる冒涜か」と自分の上着を引き裂いて見せました。引き裂くと言っても、修復不可能なまでにまっぷたつに裂いたのではありません。後で直せる程度にはじっこの方を数センチびりびりと裂いただけなのです。それでも、演出効果は充分ありました。議会のメンバーは、これは死刑だ、冒涜罪だ、と断定しました。勿論、ローマ帝国の支配下にあるユダヤ人には死刑を決定する権限が与えられていませんから、この件はローマ総督に持ち込まれることになります。
 
終わりに
 
 
1.黙すべき時に黙ろう
 
 
イエスが黙すべき時を持っておられたことから、私達も黙すべき時を学びましょう。特に、自分が非難されたとき、誤解・中傷されたとき、正義を確立する必要があれば語っても良いのですが、単なる自己弁護のためでしたら、黙りましょう。黙して、神の裁きに委ねましょう。
 
2.語るべき時に語ろう
 
 
イエスが語るべき時にはっきりと勇気をもって語られたように、私達も、語るべき時に、はっきりと勇気をもって語りましょう。いかに屡々、私達は真理の為に立ち上がらねばならないときに、臆病の故に黙ってしまうことでしょうか。恐れるな、語れ、黙するな、と主は仰います。
 
3.主の再臨を待ち望もう
 
 
主が命を賭けて証言されたのは、ご自分が再び来られると言う再臨の希望です。とするならば、再臨の希望は単なる願望ではなく、確かで切実な希望であります。どのような絶望的な状況に私達がありましょうとも、再び来られる主を待ち望み、互いにはげまし合いましょう。

お祈りを致しましょう。