そんな彼に大きな転機が訪れました。それは主イエスとの出会いによって齎されました。
生まれながらの盲目が癒されて、目が見えるようになったのです。大きな奇蹟が彼の身の上におきたのです。
それは人間の常識では理解できない奇跡の癒し−−−主は泥を彼の目に塗って、行ってシロアムの池で洗うように命じられたこと−−−でした。当時の医療は現代のものとは比較にならないものでしたから、このような方法も当時の人々には不思議ではなかったかもしれません。しかしシロアムの池の水で洗うだけで、生まれながらの盲目が治るという事は奇蹟以外の何ものではありません。このことが人々に大きなセンセーションを巻き起こしたのは当然です。
現代の医学の発達は目を見張るものがありますが、生まれながらの盲目を治すことは不可能なのではないでしょうか。しかし、ここに今も聖書は、不可能を可能とされる「神」の力を持った主イエス・キリストの神性を堂々と宣言しているのです(参照:ルカの福音書1章37節)。
しかし、人々を驚愕と混乱の渦に投げ込んだこの奇蹟をどう理解したら良いか分からなかった人々は、彼を宗教指導者パリサイ人のところに連れて行く事になりました。このことが新たな論争を引き起こす事になります。安息日にこの奇蹟がなされたので、パリサイ人は医療行為として、主イエスを掟を破った神の冒涜者と断定したのです。
彼らは執拗に盲目の人に尋ね、その両親に尋ね、なんとか主イエスの奇蹟を否定し、キリストは神からの器ではなく、罪人であると断定しようとします。しかし、物乞いであった無学の彼は「神は、罪人の言う事はお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私達は知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたことがありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」(9:31,32)と明快に反論しました。開眼した彼はキリストを救い主として信じました。
しかし反対に、決してキリストを認めようとしない、また信じようとしないパリサイ人の頑なな心がはっきりと浮き彫りにされています。事実を事実として見ることが出来ない彼らの心の目はかたく閉ざされたままでした。
盲目だった人の大きな変化に目を留めなければなりません。今彼は肉の目も開かれ、また心の目も開かれたのです。ですから堂々とパリサイ人にキリストを証することが出来る人間と変えられたのです。「世の光」であるキリストを心に信じると、心の目からも光が入り、人間が変えられる良い例ではないでしょうか。
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