礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2005年11月20日
 
「今は見える」
キリストとの出会い(7)
(プレイズワーシップ)
 
竿代 皓子牧師
 
ヨハネの福音書9章1-7,25節
 
 
[中心聖句]
 
 29  彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
 39  そこでイエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えないものが見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
 
(ヨハネの福音書9章25,39節)

 
はじめに
 
  ご紹介した聖句−−−とくに9章39節は主イエス・キリストによって言われました。なんとショッキングな言葉でありましょうか。大変逆説的です。目の見えない人にとっては朗報であり、見えると誇っていた当時の宗教指導者達にとっては腹立たしい言葉でありました。

今回は盲目の人の癒しという奇蹟もさることながら、主イエス・キリストがその中に込めた真の意味を学んで行きたいと思います。「見える者が盲目となる?」とは、何とも興味の引かれるお言葉ではないでしょうか

 
A.背景(紀元30年1月頃)
 
  十字架に付かれるのを目前にしてのエルサレムで、この生まれながらに目の見えない人の癒しがなされました。ユダヤ教指導者たちの反対や論争がますますひどくなっていく過程での出来事であり、それを避けるためにエルサレムを一時退去しなければならなかったほどであったのです
 
B.盲目に生まれついた人の苦しみ(三重の苦しみ)
 
 
1.弟子達はつまずく
この人がもっていた第一の苦しみは、生まれながら目が見えない苦しみです。光が何か全く知らない人生でありました。暗黒のみが彼の世界であったのです。これは経験した人のみがわかる世界でしょう。

第二に社会的な苦しみです。彼は目が見えないために「座って物乞いをする」以外に生きる手立てがなかったのです。他の人に全て依存しなければ生きていけない人生に、深い絶望を味わっていたのではないでしょうか。

第三は霊的な苦しみです。彼は「肉体の不幸は罪の報いである」と言う伝統的な考えや偏見によって、自分は神の祝福から見放された罪の呪いのゆえに盲目に生まれついたと考えていました。人々もそう考えて彼の不幸を運命であると思っていたのです。これはより一層深い心の傷となっていたことでしょう。このような考えは全く救いようの無い絶望だけを人に与え、その人生を押しつぶし、無用のものにしてしまうのです。この種の苦しみがもっとも厳しいものでありましょう。

 
C.主イエスとの出会いと癒しの奇蹟
 
 
そんな彼に大きな転機が訪れました。それは主イエスとの出会いによって齎されました。

生まれながらの盲目が癒されて、目が見えるようになったのです。大きな奇蹟が彼の身の上におきたのです。

それは人間の常識では理解できない奇跡の癒し−−−主は泥を彼の目に塗って、行ってシロアムの池で洗うように命じられたこと−−−でした。当時の医療は現代のものとは比較にならないものでしたから、このような方法も当時の人々には不思議ではなかったかもしれません。しかしシロアムの池の水で洗うだけで、生まれながらの盲目が治るという事は奇蹟以外の何ものではありません。このことが人々に大きなセンセーションを巻き起こしたのは当然です。

現代の医学の発達は目を見張るものがありますが、生まれながらの盲目を治すことは不可能なのではないでしょうか。しかし、ここに今も聖書は、不可能を可能とされる「神」の力を持った主イエス・キリストの神性を堂々と宣言しているのです(参照:ルカの福音書1章37節)。

しかし、人々を驚愕と混乱の渦に投げ込んだこの奇蹟をどう理解したら良いか分からなかった人々は、彼を宗教指導者パリサイ人のところに連れて行く事になりました。このことが新たな論争を引き起こす事になります。安息日にこの奇蹟がなされたので、パリサイ人は医療行為として、主イエスを掟を破った神の冒涜者と断定したのです。

彼らは執拗に盲目の人に尋ね、その両親に尋ね、なんとか主イエスの奇蹟を否定し、キリストは神からの器ではなく、罪人であると断定しようとします。しかし、物乞いであった無学の彼は「神は、罪人の言う事はお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私達は知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたことがありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」(9:31,32)と明快に反論しました。開眼した彼はキリストを救い主として信じました。

しかし反対に、決してキリストを認めようとしない、また信じようとしないパリサイ人の頑なな心がはっきりと浮き彫りにされています。事実を事実として見ることが出来ない彼らの心の目はかたく閉ざされたままでした。

盲目だった人の大きな変化に目を留めなければなりません。今彼は肉の目も開かれ、また心の目も開かれたのです。ですから堂々とパリサイ人にキリストを証することが出来る人間と変えられたのです。「世の光」であるキリストを心に信じると、心の目からも光が入り、人間が変えられる良い例ではないでしょうか。

 
D.主がこの奇蹟をなされた目的
 
 
肉体の障害は誰かの罪の結果ではなく、その障害を通して神の栄光を表す為にあると、わたくしたちに教えるためであります。何と積極的な明るい希望に満ちた神の憐れみでありましょうか。このみ言葉を知って多くの障害を持つ方々が救われて、その障害を通して神の栄光を表す人生を送っていらっしゃいます。先日、教会で賛美してくださいました大和田広美さん、絵画でご存知の星野富弘さんなど、皆さんご存知の方も多いと思います。

第二の理由はキリストご自身が述べておいでです。冒頭に掲げた「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えないものが見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(9:39)とのお言葉です。

「わたしは見える」と思っている人は警戒しなければなりません。パリサイ人のようになってはならないと主イエスは私達に警告をなさっているのです。私は何でも分かっている、立派にやっている、教えられる必要は無いという態度を、主イエスは「私たちは目が見える。」という態度だと仰っているのです。そこに「あなたがたの罪は残るのです。」といって、霊的自己満足と言う大きな罪を警戒するようにと戒めておられるのです。

私達はつねに自分は間違っているのではないだろうか、正しく見てはいないのではないだろうかと、一歩引いた謙遜な考え方を身に付けたいものです。また、世の光であるキリストを心に信じることがなければ、盲目であることを常に自覚したいものです。そうでなければ「(肉眼では見えていても)見える者が(霊的に)盲目となる」と言う主の言葉が成就することになるのです。

お祈り致します。