礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2005年11月27日
 
「あなたの御救いを見た」
待降節講壇
 
井川 正一郎牧師
 
ルカの福音書2章22-35節
 
 
[中心聖句]
 
 29  主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
 30  私の目があなたのあなたの御救いを見たからです。
 
(ルカの福音書2章29-30節)

 
はじめに(アドヴェントについて)
 
 
待降節(アドヴェント)に入ります。アドヴェントとは主の降誕を迎える心の準備期間です。日頃の行い、生活を反省する厳粛な時です。カトリック教会では結婚式も行わないほどです。11月30日前後の最も近い日曜日から始まるのが、待降節(アドヴェント)です。早い年は11月27日から、遅い年は12月3日からとなります。

アドヴェントの守り方について、教会歴史の上で最初の記録として出てくるのは、5世紀のときです。はじめは8週間、夫々の一日のはじめ、断食をもって整え、その日がくることに備えたのです。時代がたつにつれて、だいたい3回、あるいは4回の待降節の日曜日を守るようになったのです。テーマはまさしくキリストのご誕生の待望でありましたが、折々に終末的な思想も思い巡らすことにしていたようです。

プロテスタント教会の古い記録によると、3、4回の待降節の連続講壇において、第一の聖日は福音書では主イエスのエルサレム入城の箇所を読むそうです。第二の日曜日には再臨のキリストと最後の審判がテーマ。第3の日曜日にはバプテスマのヨハネに関わる思い巡らし。主イエスに対するバプテスマのヨハネの質問、主イエスについての証言、彼のあとに来る「すぐれた方」への示唆等です。そして第4聖日は主イエスの誕生に至る経緯、いきさつ歴史を中心テーマとするそうです。もとより、きょう現在、この通りに行う必要は毛頭ありません。ただ、この待降節の第一日曜日からクリスマスを思い巡らすことは当然のことと言えるのです。

そもそも待降節、アドヴェントとは何でしょうか。

アドヴェントは、ラテン語のアドヴェントゥス=到来、到着、来訪です。同じくアドヴェントール=訪問者、客です。人の子は失われた者を救うために来られたとザアカイの話の箇所でのことばです。罪人の家に客として、訪問者として来られました。あるいはギリシャ語のエピファネイア=顕現と同じ意味でもあります。このことばは、神殿への神の到来、あるいは支配者として就任する者が初めて就任場所に公式に訪問する場合に使われることばです。皇帝の即位を言い表わすことばでもあるのです。

英語のアドヴェンチュア=冒険は、到来、来訪、到着等を意味するアドヴェントゥスに由来します。まさに、クリスマスは神の冒険として理解できるのです。そもそも、冒険とは(成功のたしかでない)危険をおかすこと、危険な場所に行くこと、身を寄せるです。未知(未開拓)の世界に踏み入ることです。まさに、クリスマスは冒険といえるのです。

クリスマスは神の冒険との角度からも学ぶことができるわけですが、きょうは短いひととき、クリスマスは最後のものであるとの角度から学びたいと思います。クリスマスは最初ですが、最後でもあるのです。はじめのものであるが、最後でもあるのです。ここに出て来るシメオンは人生の最後についに、待ち望んでいた主イエスにお会いすることができたのです。彼にとって最初のクリスマスであったと同時に、最後のクリスマスでもありました。人生をどう過ごしていけばよいか、何をもってその人生を締めくくればよいか、教えてくれるきょうの箇所なのです。最後としてのクリスマス。クリスマスのもう一つの意味を今日学びたいと願っております。
 
本論(最後としてのクリスマス)
 
 
1.人生最後に出会った
 
 
シメオンは、クリスマスの恵みのゆえに神をほめたたえました。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉の通りにこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救いを見たのですから。……」

このはじめの「今こそあなたは去らせる」という言葉のラテン語から、この歌は、ヌンク・デイミティスと呼ばれています。ここで「去る」というのは、他にも解釈の可能性はありますが、多くの人が共通して理解しているのは「死ぬ」ことを意味しているということです。これが、地上を去ること、終りを意味します。終りの時に、主を腕に抱いて、「今こそあなたの救いを見た」と言い、安らかに去らせて下さると言うことができます。それは、この人生の最後にクリスマスがあるということであり、そういう人生があるのです。逆に言えば、主を腕にお抱きすることができれば、「主よ、今こそ」と言えるのです。クリスマスにおいて、自分は来るべきところに来た、あるべき自分、悔いのない自分になったということなのです。
 
2.人生に残るもの=主イエスのみ
 
 
最後としてのクリスマス、すなわち、人間、最後の最後、どうなればよいでしょうか。主イエスを見るのです。主イエスのみです。それに尽きるのです。その他何も必要ではありません。主イエスそのお方こそ、私の命、すべてのすべてとなるのです。その他何ものも必要としません。そんな人生の締めくくりをしたい。今から、その第一歩を踏み出したいと思います。
 
3.主イエスの中に、具体的に見たもの
 
 
シメオンは具体的に、幼子主イエスの中に何を見たのでしょうか。
 
(1)救い
   彼は「救い」(30)を見た。
(2)慰め
   待ち望んでいた「慰め」(25)を見ました。
(3)栄光(神の恵み)
   「み民イスラエルの栄光」(32)を見た。換言すると、幼子の中に神の恵みの勝利を見た。
(4)主の十字架
   しかしまた彼は、主の十字架を見た。
 
ルカ福音書には4つの賛歌が記されています。エリサベツの讃歌、マリアの賛歌(マダニフィカート)、ザカリアの賛歌(ベネディクトゥス)、そしてこのシメオンの賛歌(ヌンク・ディミティス)。ザカリアの賛歌は「朝の祈り」と言われています。そこには「日の光が上からわたしたちに臨み」と歌われています。マリアの賛歌は、「夕べの祈り」と言われています。それに対し、このシメオンの賛歌は、「夜の祈り」と言われているのです。キリスト者は、朝と夕べの祈りを持つだけではありません。日暮れてなす夜の祈りも持っているのです。青年、壮年の祈りだけではないのです。老人の祈りがあるのです。夜の祈り、一日の終り、人生の終りの祈りがあるのです。人生のさまざまな労苦に対する慰めを受け、平安を受け、主の救いを見て、安らかに祈る夜の祈りがあるのです。
 
終わりに(母との最後のとき=あかし)
 
 
母との最後のときのことです。(日暮れてよもは暗く)

最後となってもよいと確信して、富山教会の奉仕に出掛けました。幸いにも奇跡的に母は支えられて、10日間、生き延びました。これは目的があって生かされていました。最後に会うべき方々と会って、天に帰る用意であったのでした。国光先生とお会いしました。お世話頂いていたドルカスのメンバーにもお会いしました。そしてキングス・ガーデン理事の家城幸江先生はじめ毎日来る牧師たちにお会いし、最後の日召天30分前に、児島先生にお祈りをささげて頂き、天国行きの最後の備えをしました。200パーセント、主イエス、天国に心、目が注がれたのでした。

私は召天10分後に到着しました。間に合わなかったのです。途中、珍しく10数分渋滞しました。それがなければ間に合っていたことでしょう。いや、間に合わせなかったのです。召天までのおよそ3時間、ずっとそばにいて下さった二人の職員の方が息子さんがすぐにきてくれますからねと励ましてくださったらしいのです。その時、正ちゃんに会いたいと一言口にしたそうです。それを聞いた時、心は激しく揺れ動いたのですが、同時に違うことも心で考えていました。もし私が間に合って、正ちゃんに会ったなら、もちろんそれで安心して天国に行くのでしょうが、そうではないのです。

今までこの時まで100パーセント、200パーセント整えられて、主イエスのみ、天国のみと心と目が向けられていたものが、もし正ちゃんに会ったならば、親ですから、それなりの未練、名残りが出て来るでしょう。100パーセント、200パーセントが0にはならないでしょうが、地上の親族の、未練を残してしまうことになるのです。私の10分遅いということに、神の深い思い、配慮があったと確信しています。私と母の最後の整えは富山に行く直前のあの日で十分であったのです。これは私の確信であって、どんな場合でも間に合わなくてもよい、会う必要がないと言っているのではないことを付加いたします。恒励会のある兄弟が間に合わなかったことに長い間悔いがあったと話されたことがあります。

何を言いたいか、と申しますと、人は主イエスのみ、主イエスだけに心と目を向けることが最後の整え、これに向かって進むべき、ということなのです。
 
しめくくり
 
 
メッセージは何でしょうか。

1)最後を見て、今の歩みを進めよう!
2)主イエスのみ!

ご一緒にお祈り致しましょう。