礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2005年12月25日
 
「恵みの上に恵み」
クリスマス礼拝
 
竿代 照夫牧師
 
ヨハネの福音書
第1章1節〜18節
 
 
[中心聖句]
 
 16  私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

 
始めに
 
  2005年のクリスマス、おめでとうございます。今年は地震や津波、ハリケーンや寒波など大きな自然災害が次々に起きました。犯罪なども歯止めが利かなくなったと言うか、悪質になったと言うか、本当に厳しい一年でありました。そのような暗い時代であればあるほど、「光として来られた」キリストの恵みを深く感じます。
 
  ヨハネの福音書第1章は、この世に来られたキリストの序論です。この紹介文を通して、「恵みを携えてお出で下さったキリスト」という角度から今年のメッセージをお 届けします。
 
 
A.恵みに満ちたキリスト(14節)
 
 
「1.14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
 
1.ヨハネが見た栄光

イエス様は、その生まれに於いても、育ちに於いてもフツーの人間として過ごされました。親戚筋であったヨハネも、ずっとそう思っていました。しかし、イエスの弟子となって3年半、寝起きを共にするようになり、最後の十字架と復活を見ることによって、考えが変わりました。

フツーの人間という衣の中に、神の栄光の輝きがあったことに気付いたのです。かぐや姫ではありませんが、天の光りを竹の中に閉じこめようとも、その竹を通して光り輝くようなものです。

ヨハネは、人間としてのイエスの中に、神のご性質、溢れるような愛を見ました。「見た」ということばは、 (ギリシャ語ではエテイサメタで)「対象の物体から目を離さないでじっと見た」という意味です。その時、キリストが人となって下さった神だと感じたのです。

キリストは、人として生まれたときに、神であることを止めたのではありません。神としてのご性質と、人としてのご性質を100%持ちなさったお方です。

そんなことが、どうしてありうるのでしょうか。分かりません。ただ、私は、マリヤが聖霊によって身籠もった、ということがキリスト受肉の説明である、ということで納得できます。

2.キリストに神の性質の充満が

イエス様の中の神のご性質が、「満ち満ちた豊かさ(プレローマ)」という言葉で表されています。「プレローマ」はパウロ的な表現でもあり、エペソ書、コロサイ書などに繰り返されています。たとえば、

「コロサイ2.9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」
 
ということばですが、 神のすべてのご性質が、キリストのご人格の中に凝縮して込められているのです。

クリスマスの朝、うまぶねに生まれて下さったみどりごを、ヨハネがじっと見つめたように、しっかり見つめましょう。その時、CSさんびかが「輝くようなそのみ顔、救いの光り、満ち亘る・・・」と歌っている歌が良く分かります。馬ぶねのみどりごの中に、輝くような神の光りを認めたいと思います。

「来たりて拝めよ、あもりし君を」 という歌がありますね。原詩では、Come and worship, Come and worship, Worship Him the new-born King. となっています。キリストの前に平伏して礼拝したいと思います。

 
 
B.恵みを与えるキリスト(17節)
 
 
「1.17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・ キリストによって実現したからである。」
 
1.モーセによってもたらされた律法

キリストのもたらした恵みは、モーセによってもたらされた律法と比較して 述べられます。

モーセがもたらした律法とは、これを行いなさい、そうすれば生き る、というものでした。たとえば、父母を敬いなさい、そうすればあなたの命は長く なり、祝福される、というものでした。

人間はそれに届こうとして、一生懸命務めま したが果たせませんでした。いや、むしろ果たそうと思えば思うほど、自分の中に違 った力が働いている、為そうと思う善はなす事が出来ない、止めようと思う悪はこれ を行ってしまう、という何とも弱い自分を見いだすためのきっかけが律法なのでし た。建築設計の偽造計算をおこなった人が「自分の内にある弱さが、その偽造計算を ずるずると継続させてしまった」と告白しているのを見ましたが、正にその通りで す。

2.キリストは贖いの恵みをもたらされた

それに比べて、キリストのもたらされたのは、恵みの原理でした。

恵みと は、「相応しくないもの、また、価値のないものに、無代価で与えられる神の愛の賜 物」のことですが、その神の恵みが、キリストによって私達に注がれたのです。

馬小 屋に生まれたイエスは、価値がない私達に神が素晴らしい贈り物をして下さるよ、と いうメッセージでした。

与える愛に生き続けたイエスのご生涯は、どんなに人々から 棄てられるようなものでも、暖かい愛を注いでいるよという雄弁なメッセージでし た。人々から馬鹿にされているような税金取り、遊女でさえも、イエスは大切な魂と して愛されました。

十字架の死は、私達の罪の解決のために、私達の醜さを全部その 身に引き受けて死ぬよ、愛するもののためには命をも捨てるよという恵みのメッセー ジでした。神の恵みのデモンストレーション、それがイエスの誕生、生涯、十字架で した。

 
 
C.恵みを増し加えるキリスト(16節)
 
 
「1.16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」
 
1.恵みは単純な信仰によって受けられる

神の一方的な恵みは、豊かに注がれていますが、私達の側で信仰によって受け取ることによって、心に注がれます。

「あなた方は恵みによって、信仰を通して救われたのです」(エペソ2:8)
 
という言葉のように、私達の救いは、徹頭徹尾神の恵みに依存しています。

その恵みを私達個人のものとして頂く条件は、信仰だけなのです。

色々な教えが、信仰に何かを付け加えさせようとしますが、これは福音からの逸脱です。福音は恵みのみ、信仰のみと言うのです。

キリスト教の福音は、徹頭徹尾「恵みによる」という原理です。

人間は傲慢ですから、自分でも何かが出来るという風に考えて、恵みの原理を薄めてしまおうとします。「恵みを知らないクリスチャン」という本に「福音主義のクリスチャンを悩ましている感情的・霊的トラブルの主要な原因は、神の無条件の恵みを受け損なっていること、そしてその恵みを他の人に与え損なっていることにある」と言われています。さらに、「人間が最後に明け渡さなければならない砦は、自分で自分を救うことが出来ないと言う無力さを認めること」と言います。この弱さに徹すると、恵みが分かってきます。恵みの素晴らしさが実感されます。

2.恵みはいつも新鮮なものとして与えられる

その恵みは増加して行きます。それが、「恵みの上に恵み」という言葉で表わされています。

「16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」
 
「・・・の上に・・・」という言い方は聖書には良くでて来ます。

「その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」(ローマ1:17)。
 
この句は、「一つの恵みに代えて次の恵みが与えられる」という風に、理解することが出来ます。

既に頂き、経験している恵みに留まらないで、より大きな恵みの世界に入る事です。

かつての恵を感謝しながら、もっと豊かな受けるのです。

先の恵みは素晴らしいものではあっても、それがなかったかの様に、新鮮に恵みを求めたいものです。

キリストの豊かさの中にはこれで終わりと言う限界がありません。その愛の広さ深さ高さ大きさは限りがありません。それを極めるのが信仰の冒険です。

2005年が後一週間で終わろうとしています。この一年、多くの恵みを頂いて、感謝に満ち溢れている人がおられましょうか。神はもっともっとびっくりするような恵みを来年のために備えておられます。興奮に満ちた期待をもって来年を迎えましょう。今年は、色々な面で落ち込んだ年だったと、がっかりしながら越年する方があるでしょうか。恵みの上に恵みを加え給う主を信じましょう。

 
終わりに
 恵みを期待しよう
 
 
「私達はみな」という言い方の中に、特別な人ではなく、すべてのクリスチャンが受けている、受けることが出来るという意味を見て取れます。

クリスマスの節季、このキリストの満ち満ちた恵から恵を充分に頂くことが出来ますように!恵を期待しましょう。

プレゼントを前にしてわくわくした気持ちを持っている少年の様な気持ちで主の恵を待ち望みましょう。