礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年1月15日
 
「義の太陽=偉大な光が上った」
教会総会に向かう
 
井川 正一郎牧師
 
マラキ書4章1-2節
マタイの福音書4章12-17節
 
 
[中心聖句]
 
 2  しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。
 16  暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。
 
(マラキ書4章2節、マタイの福音書4章16節)

 
はじめに
 
 
教会総会を来週に控えての聖日礼拝であります。きょうはマラキ書とマタイを開きました。きょうのメッセージは説教題の通り、「義の太陽=偉大な光が上った」です。太陽は言うまでもなくメシヤ、キリストを示します。きょうは特に、マラキ書の背景等を学びつつ、この太陽の特徴を学びたいと思っております。3つあります。
 
1.上って来る「義の太陽」
 
 
マラキ4:2a しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。
 
(1)義の意味(判断基準)
 
 
義の意味は「秤、ものさし」です。何が正しいか正しくないかとの判断基準、神のはかりです。神の目から見て、正しいものを正しいと判断、正しくないものは正しくないと判断します。公平さを示すものです。そのような義の太陽が上って来るのです。上って来る太陽というためには、上って来る前があったのです。初めから上っていたわけではないのです。いわば、暗き時、夜の時があったのです。その夜を経て、夜明けがあり、そして太陽は上って来るのです。マラキ書の時代背景がそのことを教えるのです。
 
(2)預言者マラキ(名前の意味「わたしの使者」)
 
 
内容から推察するだけですが、祭司であったか、あるいはその職に詳しい(近い)者ではなかったかと思います。マラキはあのネヘミヤとほぼ同じ時代の人です。あのネヘミヤより前に活躍した人という考えとネヘミヤのすぐあとに活躍した人との二つの考えがありますが、ここでは難しい議論は抜きにして、あのネヘミヤによって改革されたエルサレム、イスラエルがその後、その改革の感化、影響が次第に薄れてきて、人々も祭司も多くが腐敗し始めた時期に預言者として立ち上がった人物、ネヘミヤのあとと理解できます。
 
(3)マラキ書のテーマ:信仰の形骸化・空洞化
 
 
マラキ書は、神と民との対話形式をとっています。そしてテーマは信仰の形式化、形骸化・空洞化です。せっかくネヘミヤによる宗教改革がなされたにもかかわらず、暫くの時を経て、再び人々は腐敗してきたのです。一般の民よりも、祭司が、リーダーとなるべき立場の者達が腐り始めています。祭司がそうだからこそ、それにならう人々はどうなっていくのでしょうか。信仰生活、礼拝儀式等をきちんと守っているかのように見えます。しかし、その実、全く心が伴っていない、形だけ、儀式だけ、信仰の形骸化・空洞化となっているのです。このマラキ書はそのことを鋭く指摘しています。

書の内容は多くの場合、神の質問からスタートし、それに民が答えるとの形をとっています。その対話はきちんとした「対話」というより、神の問いかけに対して民が開き直ったような反抗的な答えとなっています。神が問いかける。すると、民は「どのようにして」と反論する。この「どのようにして」がマラキ書の鍵となることばの一つなのです。民は反抗的に答えます。「チャントやってるじゃないか、そんなことしたか。どこ見てるんだ。キチンと見ててよ!」と口をとがらせて文句をつけているような答え方をするのです。
 
@「わたしはあなたがたを愛している」ー「どのようにして…」(1:2)
A「わたしにかたくななことを言う」ー「私たちはあなたに対して、何を言いましたか」、「神に仕えるのはむなしいことだ」、「神の戒めを守っても…何の益になろう」、「悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる」(3:13-15)
 
その他にも神は具体的にこれ、これと指摘しながら民よりもその鉾先を祭司たちに向けます。これに対しての答えは、前述の3:14〜15と「さばきの神はどこにいるのか」(2:17)に凝縮されます。マラキは、さばきの神は来ると明白に宣言します。突然に、驚くべき時に契約の使者は到来するのです。その時のさばきに誰が耐えられようか。この方のみわざは火によるもの(3:2)、きよめであると述べます。3:16以降〜4章にかけては「そのとき」「その日」のことが記され、悪の焼き尽くしと正しい者の祝福が述べられます。その流れの中に、きょうのおことば=義の太陽が上るがあるのです。

近い将来に、このことが必ず起きるとの預言です。そして実際、この預言された太陽は上ってきたのでした。成就・実現された太陽となったのです。人々も、祭司もその罪を指摘され、裁きを受けるのです。太陽の紫外線が殺菌作用を持つように、義の太陽は正しさを示し、悪を焼き尽くし、きよめのわざがなされます。何が正しいか、何が悪いのか。神の御前における正しさとは何か。

神を信じ、従っての心と生活です。神を信ぜず、自分勝手なわがままな生活、自己中心の生き方。そしてまた、形は信仰者のようにお祈りの姿もとる、礼拝等の儀式等に出る。いけにえもささげる。献金もする。しかし、その実は全く心が無い。マラキが鋭く指摘する姿です。これは罪です。正しい者とそうでない者の振り分けは必ずされます。それが上って来る義の太陽との意味です。
 
2.人の心を温め、癒す太陽
 
 
マタイ4:15-16 ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。
 
(1)福音をもたらす太陽
 
 
今までの話の流れからの義の太陽ですと、それは厳しいさばきの太陽のように思いますが、義の太陽とはそれだけの意味ではありません。それ以上の意味が含まれているのです。きょうマタイ4章を開いた意味はそこにあります。それは厳しいさばきだけでなく、それ以上によき訪れ、福音の太陽、すなわち、日の光を意味しているのです。それが預言されています。主を恐れる者に対して、主を待ち望む者に対して、それは裁きの太陽だけを意味するのではなく、それ以上に福音の太陽、偉大な光が意味されているのです。そのあたりのことがきょうのメッセージの中心です。
 
(2)その翼にはいやしがある
 
 
この太陽はさばきだけの厳しいものではありません。それを突き破るかのように起死回生の、夜明けをもたらす太陽なのです。そして、この太陽はもはや沈みません。上りきりの太陽となり、よき訪れを示す太陽となって来るのです。第二番目の特徴がそれを示しています。人々の心を温め、いやす太陽です。温もりと癒しの太陽です。マラキには、いやしが記されていました。その翼には、いやしがある。そして、この太陽は人の心を温めます。温もりの太陽です。
 
(3)ケタはずれの大きい光
 
 
マタイ4章はイザヤ書のことばの成就、実現ですが、マラキの預言の一つの成就とみても、間違いではありません。ここでは、偉大な光とあります。この「偉大な光」とは、ケタはずれに大きいという意味です。測ることのできないほど、でっかいのです。でっかいことは、いいことだ。ケタ違い、ケタはずれ。まさにデッカイ! ケタはずれにでっかいからこそ、どこの場所からも見えるのです。北極にいようが、南極にいようが、アメリカ、ヨーロッパにいようが、また日本の東京、北海道、神戸、長崎、富山にいようが、どこにでも及んでいる恵みの光なのです。頂ける恵みです。まさに、それは誰でもどんな人でも例外なく見ることができます。老若男女問わず、年齢立場職業等全く問わず、誰でもが見ることができます。そこには差別も偏見もありません。
 
(4)ガリラヤ地域に照り輝いた
 
 
「暗闇の中に座っている」、「死の地と死の陰にすわっている」(16節)とは、暗闇、絶望におちいっている人々のことです。もう死んでしまいたいと思う人々です。苦しみ悩みうちひしがれてどうすればよいかわからず、途方にくれている人、座りこんでしまう人です。そういう人にこそ、キリストの救いの恵みがあるのです。私のような者は絶対救われないと思われる人にも、注がれている。備えられている光なのです。

実はキリストの最初の伝道場所がガリラヤ・異邦人であります。そして、素晴らしいことには、この太陽の光は、人の心を温め、人の心を癒すものです。温めます。ギラギラと暑すぎるのではない。また冷えたものでもない。ちょうど良い温かさなのです。温もりです。ガリラヤ地方はイスラエルの他の地域と違って、春うららかなちょうど良い暖かさがある場所です。その自然の優しさの面を示すかのごとく、そこに神の温もりのある愛を示すべく、キリストが来られました。偉大な光が登場したのです。偉大な光が上ったのです。
 
3.この太陽は、活気をもたらす太陽
 
 
マラキ4:2b あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。
 
(1)外に出ての自由闊達、喜び、満足
 
 
活気、喜び、満足をもたらします。マラキ4章です。牛舎の子牛のように外に出て跳ね回る恵みがあるのです。牛舎のつなぎ場から解き放たれて、自由に十分な草をはむことができるのです。暗黒の暗さから外に出て、明るい輝く太陽の下で、活気と喜びと満足があるのです。日の光の下にあるとは、そういうことです。光の下、光の中を歩むと言い換えてよいでしょう。
 
(2)光の中を歩む
 
 
そして、素晴らしいことに、この太陽は上って来ると、もはや沈まない、上にあり続けるものなのです。キリストの恵みの光は永遠に続くものです。キリストの恵みの光の下、その光の中を歩む者には、キリストの持っておられるすべてのものを頂戴できます。マタイの福音書は、そのスタートの箇所なのです。

2006年のスタート。我らに対するキリストの光の恵みは永遠に注がれているのです。
 
しめくくり
 
 
(1)太陽は、上ってきており、永遠に照り輝いていることを知ろう!

(2)暗黒の雲を吹き払おう! 罪の悔い改め、救いやきよめの恵みの徹底

(3)太陽の光を受けるために、外に出て、上を向いて歩こう!

今日皆さん方にとって、「外に出て」とはどういう意味でしょうか。罪の生活から外に出てでしょうか。太陽の光を受けるために外に出る。イエス様がいつも恵みを注いで下さいます。どの時代でもこの恵みは変わりません。

義の太陽が上った。誰でも、この恵みを頂戴できます。これが今日のメッセージです。ご一緒にお祈り致しましょう。