礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年1月22日
 
「欠けた所に身をあてはめる」
教会総会に臨んで
 
竿代 照夫牧師
 
コロサイ書第1章24節〜29節
 
 
[中心聖句]
 
 24  キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。
 
(中心聖句の場所)

 
はじめに
 
  教会総会の朝を迎えました。昨年度を振り返り、今年度を展望する前に、教会の本質と、その教会における私達のあり方を先ず聖言から学びたいと思い、コロサイ第 1章を開きました。

 コロサイ人への手紙は、AD60年頃、ローマの獄中にあった使徒パウロがアジアにあるコロサイ教会に宛てて書いた手紙です。コロサイ教会はパウロがエペソで伝道していた頃、彼の弟子エパフラスによって建てられた(コロサイ4:12,13)のですが、その教えの大切な点(律法主義と迷信の混合したもの)で過ちに陥っていました。それを是正するためにこの手紙が書かれたのですが、その強調点は、キリストは宇宙の中心であり、教会の頭であり給う、ということでした。この教えのために奮闘しているものとしてパウロは自分自身を紹介しているのです。

 今日は、24節に絞りたいと思います。
「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」
この節から、「教会とは何か」という問題と、「その教会のために私達は何をなすべきか」という二点のみを考えます。

 
A.教会とは何か?
 
 
1.教会は「体」

パウロは、その手紙の中で、体のイメージを多用しています。パウロは、「キリストのからだ」という 用語を選択することで、メンバーが互いを必要とし、互いに仕え合う、共同体である事を示します。

2.キリストが「頭」

教会がキリストの体であるという真理は、キリストがその体である教会の頭であるという真理を含んでいます。キリストが教会の頭でありますから、体である教会がキリストに服従するのは当然で、これは夫に対する妻の服従と重ね合わせて述べられています(エペソ5:24)。私達は一人一人、また全体として頭であるキリストに従います。人間は頭ではありません。

3.「肢」として仕え合う

「第一ペテロ4.10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」
と記されていますように、「分業と一致」という思想が、人体における諸器官に譬えられます。

「ローマ12.4,5 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」
その賜物とは「使徒、預言者、伝道者、牧師また教師」「奉仕」、「勧め」、「分け与え」、「指導」、「慈善」、「知恵のことば」「知識のことば」「信仰」「いやし」「奇蹟」「霊を見分ける力」、「異言」、「異言を解き明かす力」など様々です。恐らくこのリストが全てではない事でしょう。要は、多くの賜物が各々の場所で精一杯働く時全体が生かされて行くという所が教会なのです。

4.違う者達が一体に

教会とは、ばらばらの人間の寄せ集めではなく、背景が違う者達が愛によって結びつけられた一体的なものです。文化的障壁の故に敵対関係を持っていた異なるグループの敵意が葬られたことで、一体性が齎されました(エペソ2:14ー16)。
「1コリント12:13 ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け・・・たからです。」
ユダヤ人だけでなく異邦人もみな一体となる、というこの福音はパウロの譲れ ない主張でした。実は、この主張のためにパウロは迫害されたのです。それが24節冒頭に「あなた方のために受ける苦しみ」と言われている内容です。パウロはその主張に反対するユダヤ人によってエルサレムで捕縛され、ローマで囚われの身となっているのです(コロサイ4:3「この奥義のために、私は牢に入れられています。」)。 似たもの同士、好きなもの同士があつまってわいわいするのが教会ではなく、年令も性別も社会背景も好みも全然違う者達が一つになって愛し合うのが教会です。

5.体は成長する

体がいつまでも同じサイズであることはありません。体は必ず成長します。 教会も、成長が期待されています。成長は、人数だけではなく、むしろ、キリストら しさが個人の中に、また全体としても形作られる事を指します。教会成長の目標につ いてエペソ4:13は「私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致と に達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するため」と 記している通りです。

 
 
B.教会のために私達は何を
 
 
1.教会の欠けを認識する

パウロは、教会には欠けがある、といっています。厳密に言えば、「キリストのからだのため」と「キリストの苦しみの欠けたところ」という二つの表現を重ね合わせる言い方をしています。

1)贖いのための苦しみは完璧:まず、「キリストの苦しみの欠けたとこ ろ」とは何でしょうか。それは存在したのでしょうか。いいえ、キリストは、私達の 罪の罰を身代わりとして受けて徹底的に苦しみなさいました。「パッション」という 映画にはそれがこれでもかこれでもかと映像で示されていますが、キリストの苦しみ は、一回で完全なものでした。「完了した」と仰ったように、完成されたものであ り、その結果なしとげられた贖いも、完璧なものでした。しかも、キリストは、それ によって栄光を受けておられるのです。その分野で私達の出番は全くありません。贖 いのみ苦しみは、キリストがお一人で舐めなさったものであり、私達が、その一部分 でも担うことは出来ません。

2)敢えて「キリストの苦しみの欠け」と言われているは?:それは、キリ ストの体の確立と拡大の為に私達が苦しむべく残して置かれた分野を指します。欠け と敢えて語ったのは、彼の体の確立と拡大の為に私達が苦しむべく残して置かれた分 野を指します。欠けとは、使徒によって補われるべき部分として取って置かれる要素 のことです。それは、大きな部分ではなく、一人一人に相応しい部分として主が遺し て置かれた仕事のことです。その残された部分というのは今日まで続いています。

3)具体的には?:それは広がりから言えば、世界宣教であり、深さから言 えば一人一人の聖化です。パウロは相当程度、それを既に満たしていますが、もっと 満たすべきと感じています。実際ローマ人への手紙の中では、エルサレムからイルリ コ地方まで私は福音を満たしたと誇ることが出来ましたが、いやそれでも足りない、 ローマまで、いやスペインまで福音を伝えねばという負債感を持っていました
ロー マ15:16 それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れ られる供え物とするためです。
19:私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイ ルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。
23:今は、もうこの 地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行くばあいは、あ なたがたのところに立ち寄ることを多年希望していました」
具体的に言いますと、福 音を世界に拡げること、福音を聞いた人々を聖なる神の人として完成することが彼の 重荷であり、キリストがそのために苦しむようにと私達に託して行かれた部分なので す。

4)キリストの形が成るため:教会が救いに与る魂によって数的にも成長す るだけではなく、質的に成長するための骨折りが私達に託されています。弱い魂の確 立のための悩みでもあります。
ガラテヤ4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうち にキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしていま す。

2.欠けに自分の身を当てはめる

1)私の身を:教会には各人が満たさなければならない欠けが存在します。 その欠けを補うのは私達自身であり、他の人ではありません。私達は教会の欠けを議 論するとき、自分を外において論じやすい。それは誤りです。

2)当てはめる:論じるのではなく、眺めるのでもなく、黙ってその欠けに 身を当てはめるのが信仰者の姿勢ではないでしょうか。論じるのではなく、黙ってそ の欠けに身を当てはめるのが信仰者の姿勢ではないでしょうか。

 
 
終わりに
 
 
1.教会の価値高さを再認識しよう

教会という共同体の価値高さ、尊さを再認識しましょう。私達の自由になる 教会、私達が何とか活性化して上げる教会という思い上がりを捨てましょう。

2.欠けに自分の身を当てはめよう

私達の教会に欠けを発見したならば、論じたり、眺めたりしないで、率先し て、自分の身を当てはめて、その穴を埋めたいと思います。

祈りましょう。