パウロは、教会には欠けがある、といっています。厳密に言えば、「キリストのからだのため」と「キリストの苦しみの欠けたところ」という二つの表現を重ね合わせる言い方をしています。
1)贖いのための苦しみは完璧:まず、「キリストの苦しみの欠けたとこ
ろ」とは何でしょうか。それは存在したのでしょうか。いいえ、キリストは、私達の
罪の罰を身代わりとして受けて徹底的に苦しみなさいました。「パッション」という
映画にはそれがこれでもかこれでもかと映像で示されていますが、キリストの苦しみ
は、一回で完全なものでした。「完了した」と仰ったように、完成されたものであ
り、その結果なしとげられた贖いも、完璧なものでした。しかも、キリストは、それ
によって栄光を受けておられるのです。その分野で私達の出番は全くありません。贖
いのみ苦しみは、キリストがお一人で舐めなさったものであり、私達が、その一部分
でも担うことは出来ません。
2)敢えて「キリストの苦しみの欠け」と言われているは?:それは、キリ
ストの体の確立と拡大の為に私達が苦しむべく残して置かれた分野を指します。欠け
と敢えて語ったのは、彼の体の確立と拡大の為に私達が苦しむべく残して置かれた分
野を指します。欠けとは、使徒によって補われるべき部分として取って置かれる要素
のことです。それは、大きな部分ではなく、一人一人に相応しい部分として主が遺し
て置かれた仕事のことです。その残された部分というのは今日まで続いています。
3)具体的には?:それは広がりから言えば、世界宣教であり、深さから言
えば一人一人の聖化です。パウロは相当程度、それを既に満たしていますが、もっと
満たすべきと感じています。実際ローマ人への手紙の中では、エルサレムからイルリ
コ地方まで私は福音を満たしたと誇ることが出来ましたが、いやそれでも足りない、
ローマまで、いやスペインまで福音を伝えねばという負債感を持っていました
ロー
マ15:16 それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れ
られる供え物とするためです。 19:私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイ
ルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。 23:今は、もうこの
地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行くばあいは、あ
なたがたのところに立ち寄ることを多年希望していました」 | 具体的に言いますと、福
音を世界に拡げること、福音を聞いた人々を聖なる神の人として完成することが彼の
重荷であり、キリストがそのために苦しむようにと私達に託して行かれた部分なので
す。
4)キリストの形が成るため:教会が救いに与る魂によって数的にも成長す
るだけではなく、質的に成長するための骨折りが私達に託されています。弱い魂の確
立のための悩みでもあります。
ガラテヤ4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうち
にキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしていま
す。 |
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