プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2006年1月22日

「クリスチャンと奉仕」

井川 正一郎牧師

エペソ人への手紙 4章11-13節

中心聖句

Ephesians 4:12 

それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、

(エペソ人への手紙 4章12節)


A.はじめに

新約聖書ルカの福音書10章に、マリヤとマルタの話があります。

主イエス様がマリヤとマルタの家に入られました。マルタは主のために、いろいろと気を回してお世話をし、彼女は彼女なりに懸命にもてなしました。

ところが、妹マリヤは主イエス様の足もとにあって、静かにみことばに聞き入っていました。

姉のマルタは、自分だけ、せっせと気を回して働いているのに、妹は何もせず、じっと主イエスのそばにいる。

マルタは頭に来たのか、むかついたのか、主イエス様に妹のことについて、

ルカの福音書10:40b 私に手伝いをするように、妹におっしゃって下さい。

と文句を言いました。

心静かに主のみことばを聞く姿と主のために懸命に奉仕する姿が比較されます。

ルカの福音書のこの箇所では、心が騒いで、妹に文句を、いや、主に対しても文句を言っているマルタがたしなめられて、妹マリヤの姿勢が評価されています。

これは奉仕すること自体が否定されているのではありません。

奉仕することも大事、でも、それで心が落ち着かず、人にやつあたりするような心になることが問題であると示されています。

同時に奉仕も大事ではあるが、心静かにみことばを聞く姿勢との健全なバランスを取ることの大切さを教えられるのが、マルタとマリヤの話であります。

きょうのプレイズ・ワーシップのテーマは「クリスチャンと奉仕」です。特に、奉仕について、箇条書き的に3つのことをエペソ人への手紙から学びたいと思います。

B.奉仕=主イエスに対する感謝、感激の心から湧き出る(沸き出す)もの

まずひとつめは、奉仕とは、主イエス様に対する感謝、感激の心から湧き出る、沸き出すものである、ということです。

クリスチャンはキリストを信じた者であります。

キリストによる罪のゆるしを頂いた者にとって、それは恵みほか何ものでもありません。感謝、感激、あるいは感恩が湧き出ます。

心に受けたものは心にとどまらず、それを何かお返ししたいとの行い、態度に出てくるもので、奉仕とはそのようなものであります。

奉仕とは、自分の持っている何かを分配することでなく、持っている何か物惜しみせず与えるということでもありません。

それは、主イエス様の測り知れない恵みがなかったならば、奉仕等の観念はあり得ない、何にもないものと謙遜に認めて、自分自身のすべてを投げ出して、ささげる精神であり、英語ではスチュワードシップといいます。

即ち、管理者(奉仕者、あるいは家司)的精神をもって行うことであります。

管理者的精神とは、主人から依頼(信頼)されて全権を委任された特権的立場を認識しつつ、喜びと責任をもって事に当たることです。

何にもなかった、持っていなかった。すべては主から頂戴したもので、主の贖罪の故=主の贖罪に対する感謝、感激、感恩に基づくものといえ、主にすべてを捧げることと言ってよいでしょう。詩篇116編にありますように、

詩篇116:12 主が、ことごとく良くして下さったことについて、私は何をお返ししようか。

ということであります。

奉仕とは、そのような管理者的精神をもってするものだが、具体的には、そもそも給仕(食事)の仕事のことで、主人家族が食事を楽しく食べられるように仕える仕事。人を喜ばせ、楽しませることが奉仕であるといえましょう。

ですから、奉仕とは義務・強制、いやいやという意識と全く関わりのないものとなります。

自発的で、私のような小さい者、乏しい者の奉仕だが、何としても主のために何かをささげたい、したいとの感謝と喜びに満ちた働きが本来の奉仕です。

ですから、奉仕は、ただ単にマニュアル通りに行ってノルマを果たした、整理整頓しましたというものでなく、人格的に主に対してなされるものであります。

主に対してとは結局、人々に対してとなり、その奉仕によって、人が慰められ、励まされ、支えられ、助けられるといった、喜びに溢れて来る性質のものであります。

教会のお掃除の奉仕、教会員ほかの方へもてなしの奉仕、先生から頼まれた、人から言われたという奉仕の場合もあり得ると思います。

それを頼まれたから、言われたから、しょうがない、いやだけど義務だからといった心で奉仕することもできるし、それと違って、それを主からのものからと理解して、奉仕に当たることもできます。

奉仕は主からのもの、主のものとして理解・納得してはじめて、奉仕の意味が出てきます。

いやいやの奉仕、奉仕、奉仕と続くと、つくつく奉仕は疲れる。心が失われる恐れがあります。

また奉仕は他の人と比較するものでもありません。「私がやっているのに、なぜあの人はやらないの」といった思いをもつようなものでもありません。

私たちの奉仕がいつも、真の奉仕でありたいものであります。

「心」−−−つまり、自発的、感謝と感激、喜びに満ちた奉仕、心から湧き出るものでありたいものです。

ここで少し付け加えたいと思います。

奉仕とはクリンアップ、フェロシップ等のものも言いますが、それ以上のものがございます。

主から預かったものは多くあります。この肉体も、時間も金銭も、賜物も私たちの持っているものとされるすべてが預かったものであります。

ですから、その預かったものを正しく管理し、正しく用いる必要があります。

奉仕は私たちのからだの使い方にも、時間や金銭や、遊び趣味や集会に対する姿勢等に表わされるものです。

集会出席、聖書を読む、お祈りをする、献金するといった恩寵の手段の活用も奉仕の一つ。伝道も言うまでもなく奉仕の一つです。ともかくあるゆる分野を網羅するのが奉仕であります。

C.奉仕=聖徒たちを整えて、なされるもの

二つ目は、

エペソ人への手紙4:12a 聖徒たちを整えて、奉仕の働きをさせ、

とありますように、奉仕とは聖徒たちを整えて、なされるものであります。

聖徒たちは聖なるものとされた人々という意味です。整えてについては3つの意味が考えられます。まず、

1)破れを繕う=回復−つぎに、

2)不足を補う、訓練を積む=完全なものとする、完成−そして、

3)完全に保つ=堅く結び合う、結合、結束−であります。多くは2つ目の意味とします。

一人一人の聖徒を、まさに聖徒に相応しく成長、完全なものとします。

全くする、あるいは完成すると言っていいでしょう。

しかし、この意味は同時に、3つ目の意味も含まれます。多くの聖徒たちを組み合わせて、結び付ける−結合、結束の意味もあります。いわば、聖徒たちを整理整頓し、組織し秩序づけるとの意味です。

それは13節と深い関係があります。

聖徒たちは一人一人、独立独歩のような、唯我独尊して聖人であればよいというのでも、好き勝手に群れているだけでもいけません。それはキリストのからだの一部分としてキリストのからだへと組み合わされ、結びつけられていくものでなくてはならないということであります。

繰り返すと、聖徒たちが整えられて、奉仕の働きをさせるということは、聖徒に相応しく成長していく面と共に、一人一人の奉仕を通して、キリストのからだに結合する目的を持つものが奉仕なのであるということです。

D.奉仕=キリストのからだ(教会)を建てあげること

三つ目は、奉仕とは、キリストのからだ=教会を建てあげること、そしてそのことを通して一人一人がキリストの品性を持つクリスチャンとして「信仰のおとな」=成人したクリスチャン=キリストに似た者となるためのものである、ということであります。

奉仕の目的は主イエス様のためであり、何かをして自己満足のためだけにするものではありません。

それによって、13節にありますが、お互いお互いが堅く結びつき、互いがその奉仕を通して、信仰のおとなに育つことが目的なのであります。

E.おわりに

最後に、もう一度申し上げます。

奉仕とは、ただ行いをするだけでなく、あたかも深い井戸から真清水が流れ出すように、主イエス様に対する愛の行為が沸き出す生活であります。

奉仕は「愛」のあらわれであり、愛は静止した状態のものではありません。

それは流れるものであり、人の生活のあらゆる方面にあらわれてきます。

要するに、奉仕は愛の霊的経験から生じてくるものであり、その経験なしの奉仕は、本当の意味では奉仕とはなり得ないことを意味します。

即ち、「聖徒」が整えられて、初めて可能となるのであります。

奉仕の質を決めるのは、ここにある。奉仕の目的、目標がどこに向かうのか。

私たち人間には真の意味で自分の所有するものは一つもなく、すべては主人の神が所有者であり、私たちは依託を受けた者に過ぎないとの意識をもつことであり、それゆえ、知識、感情、意思などの人間的能力も、また与えられている賜物、時間、金銭なども神からの依託物であるとの認識をもちます。

言い換えると、神の栄光のため、誉れのためにとの認識をもつということになります。

その認識に基づくあらわれは、

1)まず、主人との継続的信頼関係の確立=霊的経験の求めにあらわれ、家庭、職場、教会での霊的生活にあらわされます。

2)次に、主からあずかっている賜物、時間、金銭などの用い方にあらわれます。

3)三番目に、キリストの教会のために、何かしたいとの求めにあらわされます。

4)そして、他の人のために何かをしたいとの思いを生じます。

そして、実際の奉仕として期待されることは、

1)まず、家庭内で、個人でお祈りすることや家庭礼拝を行うこと、そして集会に出席することです。この集会出席こそ最大の奉仕であります。

2)つぎに、家庭、職場などにあっての近隣への証し(伝道)であり、沈黙の証しであります。

3)三番目に、与えられた今の仕事に誠実な態度をもって没頭するということであります。これは神の栄光のために輝くことにもつながります。

4)四番目に、教会内での諸活動に加わるということです。

第一礼拝後の教会総会で、このプレイズ・ワーシップを含む各分野の委員会に関する任命が発表され、それぞれの分野の奉仕の募集も始まりました。この機会にそれぞれの分野に申し込んでみてはいかがでしょうか。

「クリスチャンと奉仕」についてお話いたしました。お祈り致します。


Message by Shoichiro Ikawa, pastor of Nakameguro IGM Church

Compiled by K.Otsuka/January 22,2006