礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年1月29日
 
「泣き出したペテロ」
マルコの福音書連講(78)
 
竿代 照夫牧師
 
マルコの福音書14章66-72節
 
 
[中心聖句]
 
 72  するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。
(マルコの福音書14章72節)

 
はじめに
 
 
昨年11月のイエスの裁判で途切れましたマルコ連講を再開いたします。

今日は、ユダの裏切り物語の次に心の重い物語、ペテロがイエスを否定してしまった件です。

ペテロは三度「イエスを知らない」と否定していることは4つの福音書に等しく記録されていますが、その詳細となると、相互に微妙な違い、正確に言えば補足関係があります。今日は当然マルコの記事に従ってお話しますが、他の福音書記事も参考にしながら、進めます。
 
A.ペテロの失敗の序曲(54節)
 
 
54 ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まではいって行った。そして、役人たちといっしょにすわって、火にあたっていた。
 
1.「遠く離れて従った」ペテロ
 
 
イエスが受けなさる裁判は6つのステージに分かれますが、これについては図を参照下さい。その最初は大祭司カヤパの家での宗教裁判なのですが、そこにペテロも登場します。

  ◆◆ 主イエスの受けられた裁判(図)◆◆ (クリック表示)

 
「遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まではいって行った。」まっすぐ至近距離からイエスに着いていく勇気はなく、さりとて遠く離れて見捨ててしまうには心残りだ、そんな中途半端な心持ちが良く現れているのが、「遠く離れて従う」行動となりました。どうか私達の信仰生活が「遠く離れて従う」ものでありませんように。これが、イエスの否定という重大な失敗への序曲なのですが、遡るとその序曲への序曲がありました。
 
2.序曲への序曲
 
 
1) 軽はずみな自信と他人への軽蔑(29節):「たとい他の人みんながあなたを裏切っても、私だけは裏切りません」という自信過剰、他の人への軽蔑、こういう空元気は一番危険です。

2) ゲッセマネでの居眠り(37節):主イエスが一番祈りの助けを必要としておられる時に、不甲斐無くも眠ってしまいました。

3) 剣を振るう蛮勇(47節):イエスを逮捕にやって来た人々の内、一番弱そうな人に剣を振るって、耳を切ってしまいました。

4) 狼狽と逃走(50節):主が実際に逮捕されてしまうと、今度は一転、うろたえてしまって、一目散に逃げ出しました。

という風に、こうした小さな失敗や不服従というものが積み重なって、愛する主を否定するという重大な失敗に至るのです。私達も、大きな試練や課題にぶつかったら信仰によって戦うぞ、という姿勢では遅すぎるのです。普段の積み重ねの大切さを、ペテロの失敗から学びます。
 
3.状況:大祭司と議会による審問
 
 
イエスを捉えた大祭司カヤパとその仲間は、イエスを有罪にしようと、あの手この手を使って、イエスから不利な証言を引き出そうとします。この裁判は前回に扱いましたので、今日は省略しますが、本当に緊迫したやり取りです。この深刻な戦いの最中に、イエスの最も信頼した弟子ペテロが転んでしまうとは、何と言う悲劇でありましょうか。
 
B.三度の否認
 
 
1.第一回(66〜68節)
 
 
66 ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、67 ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」68 しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。
 
1)大祭司の女中の質問:この女中さんは、ただ者ではなかったようです。ヨハネ福音書を見ると、ヨハネが大祭司と知り合いだったこと、その関係で彼も、またペテロも大祭司の中庭に入り込めたことが記されています。ちょっといわくつきだった訳です。その上、たき火に当たって顔が写し出されたものですから、いや、この顔はどこかで見たことがある、そうだ、あのイエスと言う男にくっついて先頭を切っていた男に違いないと見当を付けたのです。そこでの質問は、いわば軽いものです。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」

2)取り乱したペテロ:今まで入ったこともない大祭司の豪邸に、しかも、そこで裁判を受けている注目の人の弟子ですから、びくびくした気持ちであったことは確かですが、女中さんから聞かれるとは思っていなかった隙をつかれた質問に、ペテロはうろたえます。まあ、軽く「違うよ」と答えれば済んだかも知れないのに、力を入れた否定まで行ってしまうのです。「ペテロはそれを打ち消して、『何を言っているのか、わからない。見当もつかない。』」その時の失敗は、長く喋ることによって彼の出身地を露わしてしてしまったことです。ガリラヤはユダヤ(今日の状況に当てはめると東京)の「標準語」から見ると、相当な訛りがあって、聞き取り難かったのです。ユダヤの諺に、「礼拝の時ガリラヤ人に聖書を読ませてはならない。」というものがありました。それほど「東北訛り」はきつかったのです。先週NHKラジオのトーク番組で、聖書を「気仙語」に翻訳したお医者さんが出て来ました。実に傑作な人です。彼の主張は、「東北出身のイエスは東北弁で説教なさったのだから、東北弁で訳すのが正しい」というものです。なるほどと思いました。閑話休題。
 
2.二度目の否認(69〜70節a)
 
 
69 すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。70a しかし、ペテロは再び打ち消した。
 
1)周りの人々も加わって追い討ち:この話題に周りの人々も加わりました。ペテロとしては、益々具合が悪くなりました。第一の質問の後で、もう腰を浮かせて、出口の方に歩きかけたペテロに追い討ちです。

2)強く打ち消す:いや、そんなことはない、ペテロは強く打ち消しました。二度目はとっさ的な反応ではなく、かなり確信犯的な行為です。ペテロがイエスの弟子とバレたらどうなったでしょうか?逮捕されたでしょうか?多分、そうでは無いでしょう、単に嘲られるのが関の山と思われます。そんな小さな嘲りも、ペテロには耐え難いことだったのでしょう。ペテロはノーといって打ち消しました。
 
3.三度目の否認(70b〜72節)
 
 
70bしばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」71 しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。72 するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。
 
1)マルコスの親戚も加わっての証言:このまま逃げたい気持ちでしたが、逃げる訳にも行かず、うろうろしているペテロに決定打が下されました。ペテロの周りを取り囲んだ人の輪が益々大きくなり、引っ込みがつかなくなりました。ヨハネ福音書を見ると、第三の質問をした人は、ゲッセマネでペテロに耳を切られたマルコスの親戚であったそうです。この男もマルコスと一緒にゲッセマネにいたと思われます。それだけにペテロの顔をしつこく覚えており、それだけ恨みが深かったことでしょう。さて、質問は、「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」

2)呪を込めて否認する:もう逃れられません。「イエスなんて人を絶対に知らない!」呪を込めて、というのは、私の言っていることが嘘ならば、そのために地獄に落ちても良い、という意味です。

3)鶏が鳴き、主が見つめなさる:ここまで突っ走ってしまったペテロを正気に戻したのは鶏でした。鶏は真夜中に一度なき、夜明け近くにもう一度鳴くそうです。コケッコッコー(英語ではカッカドウドルドウ、スワヒリ語ではココヨーコー)です。頭を冷やしたペテロは、イエスの警告を思い出しました、「鶏が二度鳴く前に、あなたは私を否む」と。ここで使われた動詞は「エピバロン」(=本気になって考える、考え始める)です。鶏の泣き声で正気が戻りました。しかも、うろたえてイエスを否定したペテロを主がご覧になりました。ルカ福音書は「彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。』と言われた主のおことばを思い出した。」と劇的に記しています。裁判の間を縫って、ペテロに近づく機会がおありだったのでしょう。主の眼差しは、責めるようにではなく、ペテロ、お前の弱さは分っていたよ、でもその通りになって悲しいね。あなたのなすべきことは自分で分っているね。」という優しい眼差しでした。

4) 泣き出すペテロ:もうペテロは溜まりません。自分の不甲斐無さ、意志の弱さ、臆病、自分を可愛がる気持ち、大切な人を裏切ってしまったと言う後悔、それらが一時に込み上がって、大声で泣き始めました。あたり辺りを構わずに男泣きに泣きました。この涙がペテロの救いの第一歩です。
 
C.ペテロの失敗から考える
 
 
1. 主イエスを否定するのは、生やさしい罪ではない
 
 
それは、主の信頼と愛に対する重大な裏切りです。「人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ10:33)とイエスは語られました。これは重いものです。ペテロを弁護する議論も流行してます。確かに彼の中に私達の弱さを見ることも大事ですが、罪の重大さは隠しようがありません。その罪の重さが分からなければ、彼の自責の念の激しさ、悔い改めの深さ、回復の恵みも理解できません。

ペテロの失敗は恐るべき性質のものでした。ひどい裏切り、取り返しのつかない程の大失敗でした。私達の心の中にキリストの名を恥じる要素があるとすれば、実にそれは申し訳ないことだ、と言うことを覚えねばなりません。先日召された鈴木菊子さんのお父さんは、救われて二、三年しか経たない内に、キリスト教弾圧に遭い、特高警察にから信仰を捨てなさい、と言われました。しかし、彼は、自分は無学のもので、事柄は良く分かりませんけれど、自分を救って下さったイエス様を捨てる訳には行きません、と宣言しました。指すガの特高も苦笑いをして、去って行ったそうです。
 
2. 自分が強い、大丈夫と思う人ほど弱く、敗北しやすい
 
 
ペテロは勇敢であり、率直でありました。しかしその生来の勇敢さは、この危機に際して何の役にも立ちませんでした。却って自分が何と脆いものかを露呈したのです。イエスを愛する気持ちは誰にも負けませんでした。しかし、それは、人間的な力による献身でした。イエス様を愛し、従って行くぞ、という力みは何の役にも立ちませんでした。自分の力により頼まないで、徹頭徹尾主により頼む信仰のみが私達を守るのです。
 
3. 失敗は、すべての終わりではない
 
 
主は、私達の失敗を通してもみ業を顕わしなさり、回復の道を備え給います。実は、主はペテロの失敗を見越して、その回復のために取りなしの祈りを捧げていて下さいました。だから、ペテロは立ち直ることが出来たのです。自分の力ではありません。ひとえに主の憐れみと赦しによって、私達は回復出来るのです。もう一つ言いたいと思います。ペテロは、失敗と回復を通して、より深いイエスへの愛、より強い信仰へと導かれました。多くの信仰者、特にダビデとかアブラハムとかを見ると、失敗の度に成長していきます。失敗は無いに越したことはありませんが、仮に失敗したとしても、主はそれをより高い目的のためにお用いになります。
 
4. 回復のステップは真実な悔い改めであった
 
 
ペテロは大きな過ちを犯しましたが、率直に、しかも直ぐに、そして心からそれを悔い改めました。大声で「泣き出した」だけでは無く、その嘆きを続けました。泣いたという動詞は継続的な用語です。嘆き続けました。マルコはペテロの報告をもとにしてこれを書いているのですから、真に迫った書き方をしています。この真実な悔い改めを主は受け入れなさいました。
 
終わりに
 
 
1. 誰よりも主を愛するものでありたい
 
 
私達も、ペテロのように、主を愛していることを告白しましょう。
 
2.自分の弱さを認め、それを真実に嘆くものでありたい
 
 
私達の心には癒しがたい自己中心があります。それで、主を恥じ、自分を守ってしまうのです。しかしそんな心を持っていることを憂い、悲しむものでありたいと思います。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」((マタイ5:4)
 
3.主の憐れみにより頼もう
 
 
主のお約束の深さを思いめぐらしましょう。主の恵みにのみ私達の信頼を置きましょう。

お祈りを致しましょう。