礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2006年2月5日
 
「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け・・・」
マルコの福音書連講(79)
 
竿代 照夫牧師
 
マルコの福音書15章1-15節
 
 
[中心聖句]
 
 15  それで、ピラトは群集のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。
(マルコの福音書15章15節)

 
はじめに
 
 
昨週は、ペテロがイエスを否定してしまった件です。ペテロの失敗は、私達誰にでもある自己中心主義が、図らずも大切な時に顕われてしまったということ、しかし、その失敗を通しても尚、神の恵みは彼に豊かに注がれていたことを学びました。

今日は、イエスの裁判の鍵を握った男、ポンテオ・ピラトに焦点を当てます。ピラトと言うと、悪人の代表で、私達から遠い存在のように思われますが、学んで行く内に、そうでも無い、私達と大差ない普通の人であると言うことが分かります。進みましょう。
 
A.裁判の経過
 
 
1.宗教裁判の終わり
 
 
イエスの裁判が6つのステージに分かれていたことは、前回もお話しましたが、もう一度図を参照下さい。

  ◆◆ 主イエスの受けられた裁判(図)◆◆ (クリック表示)

 
宗教裁判は三つのステージからなり、その第二が終った所が昨週のペテロの裏切りあたりです。夜が明けて、正式なサンヒドリン本会議が開会されますが、これはあっという間に終りました。どこかの国の国会と同じで、シナリオ通り、形式的に承認したと言うだけの事です。夜中じゅうなされていたことは、言わば実質真理でしたが、夜中に命を奪うような決定をしてはいけないと言うユダヤの決りを守って、それらは非公式的な結論、そして公式的な結論を夜明けまで待ったと言うだけの事です。
 
2.ピラトの登場
 
 
そこで登場するのがピラトです。ここで、ピラトという人間について、聖書の他の資料から得られるプロフィールを描きます。これによって、ピラトが何故イエスに対して優柔不断な態度を取ったのかが分かるからです。
 
B.ピラトという人間
 
 
1.ユダヤ総督への任命
 
 
1)時期:ポンテオ・ピラトはローマの中流階級の出で、AD26年にローマ皇帝・テベリオによって、第五代ユダヤ総督として任命され、36年までつとめました。

2)場所:彼の守備範囲はユダヤ、サマリヤ、イドマヤでしたが、その中心であるカイザリヤに拠点を据えて活動していした。総督は、ユダヤの祭の間はエルサレムのアントニア塔に滞在し公務を行うことになっていました。

3)任務:彼の任務は、大祭司の任命、神殿の管理維持、サンヒドリン議会による死刑決定の承認(または不承認)、税金の徴収でした。
 
2.総督としての業績
 
 
1)ユダヤ人との最初の衝突:ユダヤ総督というのは、頑固なユダヤ人を相手とするという意味で、難しい仕事でしたが、ピラトは、ユダヤ人を痛めつけることを喜びとしていた面を持っていました。ピラトの最初の仕事は、ユダヤ人を怒らせるものでした。彼はローマの軍旗をエルサレムに掲げ、皇帝の肖像を設置しました。ユダヤ人の頑強な抵抗運動によって、かれはわずか6日間の設置期間の後にそれを撤去し、すごすごとカイザリヤに戻りました。

2)ガリラヤ人の殺害:ユダヤ人を怒らす第二のエピソードは、ガリラヤ人達が神殿で生贄を捧げていたときに、彼らを殺害し、その血を生贄の血に混ぜた(ルカ13:1)という事件がありました。

3)ユダヤ人の直訴:こうした、強硬な側面と共に、ユダヤ人達を恐れていた側面も持っていました。特に税金の一部を着服していたという非難をユダヤ人達が直接ローマ皇帝に訴えていましたので、いわば弱みを握られたピラトは、ユダヤ人に譲歩する気持ちも持っていました。

4)サマリヤ人の殺害と罷免:この後、ピラトは多くのサマリヤ人を殺害した事から皇帝に直訴され、その弁明のためにローマに呼び返されます。
 
3.生涯の終わり
 
 
罷免されたピラトはその後自殺したという言い伝えがあります。

さて、ピラトのこのような人物像が、イエス裁判に如実に現れました。
 
C.イエスを裁くピラト
 
 
1.イエスへの訴因
 
 
1)ユダヤ人の訴え:ピラトに連れてこられる直前までは、イエスがご自分をキリストと唱えたことが冒涜罪に当たるといってユダヤ人達の非難の対象となり、その主張故に「死刑」が決まっていたのですが、ユダヤ人達は、その罪名はおくびにも出さず、「イエスはユダヤ人の王」と自称している、つまり、ローマ帝国に対する反逆罪だ、というものです。キリストという称号には、王としての側面が在ることは確かですが、この場合は如何にも巧妙なすり替えとしか説明できません。

2)イエスの答え:「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」というピラトの尋問に対してイエスは、単純率直に「そのとおりです。」とだけ答え、その後は沈黙されました。反逆者としての王ではなく、違った意味での王であり給うのですが、その説明もここではなさらず、沈黙です。ユダヤ人達の事実を歪曲したような非難攻撃に対しても、一切口を閉ざされました。
 
2.ピラトのジレンマ
 
 
1)無罪の心証:賢いピラトは、この訴えが偽りであることを直ぐに見抜きました。今まで、何度も、この頑固な迄に宗教的で、しかもずるがしこいユダヤ人と渡り合ってきたピラトに、彼らの動機が妬みからであると見抜けないわけはありません。ローマの法律によれば「自分が神だ」と名乗る冒涜は、嘲笑の対象ではあっても、死刑になるほどの重大な罪ではありません。それを知っているユダヤ人達が、罪名をすり替えて訴えていることは、直ぐに分かりました。その他の罪状を調べても何も出てきません。

2)無罪判決を貫けない弱み:ですから直ぐに赦してしまえば良いのに、それを退けられない弱みも握られていた事は先ほど述べました。心に曇りのない人は判断が透明ですが、やましいことを持っている人の判断は鈍ります。

3)ヘロデへの責任転嫁の試み:マルコは省略していますが、ここで裁判をヘロデに送るというエピソードをルカは記録しています。過越祭のためにやはり上京していたヘロデは、ガリラヤの領主でした。イエスの活動がガリラヤ中心であったと聞いたピラトは、これ幸いとばかりにイエスをヘロデの滞在場所にたらい回しします。しかしヘロデもさるもので、泥を被ることを避けて送り返してきます。
 
ルカ23:6-7 それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ねて、ヘロデの支配下にあるとわかると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころエルサレムにいたからである。
 
4)ミセス・ピラトの忠告:もう一つのエピソードは、ミセス・ピラトの夢で、これはマタイが記録しています。彼女は裁判の真最中にメモを送り、「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しい目に会いましたから。」と伝言してきます(マタイ27:19)。只でさえ優柔不断なピラトは、どうしてよいか益々分からなくなります。

5)鞭打ちという妥協案:さらに一つの妥協的提案がルカには記されています。何の罪もないイエスであるから鞭打ちにして赦すという、足して二で割る解決です。「だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」(ルカ23:16)こんな無茶苦茶な解決はありません。無罪なら無罪放免なのです。それを懲らしめた上で釈放などという八方を満足させようという小賢しい知恵に基づく提案が出てしまいました。鞭打ちとても、これは大変な刑罰で、これだけで死んでしまう人もいたくらいです。しかし、この案でさえも却下され、ピラトは出口のない迷路に進んでいきます。
 
3.「バラバ」についての誤算
 
 
1)「過越特赦」を適用する妙案:イエスは無罪という心証に従って、単純率直に彼を釈放すべき所、それをしたならばユダヤ人の反感を買うであろうという政治的計算が働いて、ピラトに閃いた妙案が「過越特赦」という習慣でした。ユダヤ人の主張を入れて一旦イエスを有罪にしよう、しかし過越特赦という毎年の恒例に倣ってイエスを特赦にして上げよう、そうすれば罪無き人を死刑にすることもせず、ユダヤ人のしつこい要求をむげに退けることもない、これは絶妙の計画だと思ったのです。

2)妙案の落とし穴@:しかし、ピラトにとっての「妙案」は、抜き差しならない「落とし穴」となってしまいました。誤算は二つ、@この妙案は正義の要求ではありませんでした。罪の無い人間を便宜上有罪にしておいて、しかし憐れみの故に釈放するというような腹芸は、世間的には通用しても、神の眼からは赦すべからざる犯罪です。私達は日常生活の中で、いかに数多く、こうした政治的決着を行っていることでしょうか。正義か否かで判断しなければならない人事に関わる処置であっても、それを表に出さず、別な理由で政治的に解決するという「腹芸」を行ってしまうことがいかに屡々でしょうか。主イエスは語られました。しかりはしかり、否は否と言いなさいと。この真っ直ぐさが欠けているのが日本社会の病因であると私は思いますが如何でしょうか。少なくともキリスト教会でピラト的な判断が入り込んではなりません。

3)Aバラバが恩赦に選ばれる誤算:誤算の第二は、ピラトの妙案が非実際的であったということです。かれは、単純にイエスを特赦として釈放するとは言わずに、強盗殺人罪で既に起訴され有罪判決が下されていた名うての犯罪人バラバと比べさせたのです。バラバとイエスとを比べさせれば、一握りの宗教指導者は別として、民衆の判断はイエスに傾くであろうと考えました。バラバは多くの人に憎まれ、マスコミでもさんざん叩かれていた悪役ですし、イエスは民衆の人気抜群だから人々は当然イエスを選ぶだろうと踏んだのです。何と言う誤算!人々はバラバを選びました。確かに悪いやつだが、正義のために戦った熱心党員でもあった、愛国者でもあった、という意識が人々にあったからです。群衆は反対に、イエスを十字架に付けよと叫び始めたのです。群衆の声については次の週に扱いたいと思います。私の言いたいことは、イエスを特赦しようという事が間違い、バラバと比較しようとすることが間違いだったのです。人間、心が曇ると、その判断がどんどん鈍くなっていきます。
 
4.ピラトの敗北
 
 
15 それで、ピラトは群集のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。
 
1)人類最大の過ち:ピラトは敗北しました。群衆の声に屈しました。ユダヤ人指導者が、「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」(ヨハネ19:12)と言った脅迫に負けました。己の優柔不断、小賢しい知恵から生まれた策略に溺れました。彼の敗北は、何の罪もないイエスを、重罪人が受ける十字架に渡すという人類最大の過ちを認めてしまったことです。何たる悲劇でしょうか。ピラトは、その名前を教会の使徒信条に刻まれました。何億というクリスチャンが、その信仰告白をするときに「私達は・・・ポンテオ・ピラトの時に苦しみを受け・・・」と彼の名前をキリスト受難と結びつけて永遠に覚えているのです。

2)人類最大の救いの道が:しかし、神はこのような面目なき人間の敗北を通して、ご自身の計画を進めなさる方です。ピラトの失敗の結果がイエスの十字架刑でしたが、その十字架刑を用いて人類の救いを成就させなさった、何という神の知恵、神のご支配の妙でありましょうか。
 
終わりに
 
 
1.私達にある「ピラト的なもの」を探っていただこう
 
 
ピラトの心の動きを辿ってきましたが、ピラトは特別な悪人ではなく、私達と同じ、正しいことを行いたいと思いながら、色々な打算が働いてそれを行うことが出来ない普通の人間でした。次の質問を自分に当ててみましょう。

1)私は正しいと思うことを、打算を超えて貫けるだろうか

2)人々を喜ばせることを、神を喜ばせることより先に考えていないだろうか(人を喜ばせるか、神を喜ばせるか)

3)正しい方法を貫かずに、小賢しい知恵や妥協的方法で困難を切り抜けようとすることが無いだろうか

もし、私達にそのような心があるとすれば、正にキリストを十字架に付けたのはピラトだけではなく、「私も」なのです。主に憐れみを乞い「主よ、どうか私の心にあるピラト的なものをお赦し下さい、あなたを愛し、あなたの命じなさるままを真っ直ぐに行うものと変えて下さい」と祈ろうではありませんか。
 
2.人の過ちを通しても尚、み業を進め給う神の知恵を讃美しよう
 
 
神は偉大なお方です。ピラトの過ちをも、また、私達の過ちをも用いて、その偉大なみ業を進めなさいます。「まことに、人の憤りまでもが、あなたをほめたたえ、あなたは、憤りの余りまでをも身に締められます。」(詩篇 76:10)人の憤りを受けることは楽しいことではありません。でも、イエス様はその憤りを通しても、神の誉れを顕わしなさったお方です。主を讃美しましょう。
 
「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」(ローマ11:33)
 
お祈りを致しましょう。