プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2006年2月5日

「クリスチャンの祈り」

竿代 皓子牧師

ヨハネの福音書 16章24節

中心聖句

John  

あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです

(ヨハネの福音書 16章24節)


A.はじめに

プレイズ・ワーシップでは新年から「クリスチャン・シリーズ」が始まっていますが、今回は「クリスチャンの祈り」という題が与えられました。

はじめは「クリスチャンと祈り」ではないのかと思ったのですが、よく考えてみると「クリスチャンの祈り」で良いと考えるようになりました。

「クリスチャンと祈り」と「クリスチャンの祈り」では違いがあるように思います。「クリスチャンの祈り」のほうが、より狭い意味での祈りの内容に強調が置かれると考えられるからです。この考えを裏付けるのが今回とりあげるみことば−ヨハネの福音書16章34節−です。

キリストは十字架に架かられる前、弟子たちを懇々と教え諭し、彼らのために祈ります。それがヨハネの福音書の14章から17章です。

その内容は切々と私たちの心に迫ってくるみ言葉で満ちております。

「私はあなたがたの前からいなくなる」、「しかしあなた方を孤児とはしない」、「すぐに聖霊が御出でになるから待っていなさい」、「恐れてはいけない」、「平安を残して行きます」、「私の愛の中にいつづけなさい」、「互いに愛し合いなさい」、そして大切なこととして何度も何度も、「わたしの名によって祈りなさい。求めなさい。」と勧め教えておられます。

現在も教会でクリスチャンのお祈りを聞く時、必ず最後に「主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。」という言葉を聞くと思います。

今もクリスチャンは主の教えに忠実に従っています。人は祈ることをする唯一の被造物です。人々の祈りを私はとても大きなこと、大切な事と考えております。しかし、この「主の御名によって祈る」ことが信仰者でない他の人々の祈りと、圧倒的な違いがあるのです。その違いをこれから見ていきたいと思います。

B.「名」の意味すること

『新聖書辞典』によると、「名」について次のような説明があります。

「聖書の時代にあって、名は単に人と人、物と物とを区別するだけでなく、帯名者の本質や性格と密接に関連していた。名は高度な実体性、実質性を有していると見なされた。」

「名は内的本質的存在、つまり人格の表現である。・・・・誰かの名によって語ったり、行動を起こしたりする場合には、帯名者の代理人、代表者となることを意味し、その名の権威に与ることを表した。(サムエル記第一17章45節)。イエス・キリストを宣べ伝えたペテロとヨハネは、『誰の名によってこんなことをしたのか』(使徒の働き4章7節)と議会で問われている。神の名によって召されることは神の所有となることで、神の権威と保護のもとにおかれることである(イザヤ書43章7節)。」

何と素晴らしい定義でしょうか。

現代の私たちにとっても「名前」の持つ重さは同じです。他人の名前を語ることは犯罪にもつながります。自分の名前を偽ることもそうです。都合の悪いこと、批判したりすることを書く時、無記名にする人の何と多いことでしょうか。

名を出すことはその人そのものを代表するからです。クリスチャンが主イエス・キリストの名を用いて祈るというご命令には、大変大きな責任と意義を伴うのは当然になってきます。それですから主が祈られた模範を通してわたしたちの祈りのあり方を学ぶことが出来ましょう。しかし、その前にクリスチャンが何故天地を作られた唯一の神に祈る時、答えられる特権が与えられているのか知る必要がありましょう。

C. クリスチャンが神に祈れる特権の理由

イエスは父なる神との一体性を私達に強く教えておられます。

ヨハネの福音書4:9b 私を見たものは、父を見たのです。

ヨハネの福音書4:10a 私が父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。

という御言葉のように、神が人となって地上に来られたのは、私達をもう一度神の前に子としての身分を与えるためでした。そのために主は十字架に掛かって私達の身代わりになって死んでくださり、その流された血潮によって私達は赦され、もう一度神の子として神の家族の一員とされるのです。ヨハネの福音書1章12節にも、

しかし、この方を受けいれた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

とある通りです。

ですから、私達の正しさではなく、キリストの正しさによって私達は直接神に祈ることが出来るようになりました。  

ヘブル人への手紙7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがお出来になります。キリストはいつも生きていて、かれらのために、とりなしておられるからです。

との御言葉がその保障です。

D.クリスチャンの祈りの模範であるキリストの祈り

1) 神との一対一の交わり

ルカの福音書6:12 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜をあかされた。

キリストにとって「祈り」は神と交わり、神の御心を知り、神に聞き、そこで神からの力を頂く営みでありました。この交わりは大変親密なものでありましたから、他人が入る余地のない営みです。他の人間とは不可能な、自分のありのままの姿の交わりを神とできる場が祈りです。このことを知っている人は幸いです。

2)神への叫び

ヘブル人への手紙5:7 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことの出来る方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。

「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び」と御言葉は続きます。キリストも苦難の中を通られたとき、神に叫んだのです。それも大きな叫びと涙とをもってです。大きな慰めです。祈りとは苦しいときに神に助けを求めて叫ぶことなのです。「人の絶望は、神の好機である」との先人の残した言葉は真実です。

人は絶望して初めて神に助けを求めるのです。神に心から「叫んだ」全ての人々は救われます。

3)助けを必要としている人々の為の神へのとりなし

ルカの福音書22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰が無くならないように、あなたのために祈りました。

決して主を裏切らないと誓ったペテロは、もろくも主を知らないと三度も言い切ってしまいました。しかし主はそれをもご存知で、ペテロの信仰回復の為に祈ったのです。

私たちの弱さを底の底までご存知である主であるからこそ、深い同情をもってとりなしの祈りをしてくださるのです。ただただ感謝です。

4)神の栄光を表すための御業をなす祈り

ヨハネの福音書11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」

ヨハネの福音書11:43b ・・・「ラザロよ。出てきなさい。」

この場面は死んで四日もたっているラザロのよみがえりの奇跡が行われた時の祈りです。群集を驚かし、惑わすためではなく、神のみ子であることの証明の為に驚くような奇跡をなさいました。私たちの奉仕の動機も自分の栄光のためではなく、神の栄光のためであるように祈るべきだと思います。

E.おわりに

以上見てきたように、キリストの祈りは「神の御子」としての、父なる神との一体感を持った祈りであることが特徴です。

キリストは自分中心なわがままな祈りは一度もしなかったと言ってよいでしょう。神の栄光を表すため、救いを必要としており、疲れ果てている群集のために祈ったのです。その様なお方の「御名」によって祈ることは、彼のみ思いを充分にわきまえたものとならなければならないのは当然です。

「主よ、私の母を救ってください。」という祈りと、「無駄使いで、お金が足りなくなりました。何とかしてください。」という祈りでは、どっちが聞かれるかは明白です。

もちろん、主は寛容であり、私たちの必要や弱さを良くご存知で、「求めなさい」と言ってくださいます。

しかし、その前の条件−−「私の名前によって」というハードルを越えることを、クリスチャンは生涯を通して学んでいかなければならないのです。この祈りの世界における主との深い交わりをとおして、私たちは何を得るのでしょうか。それは自分で開拓していかなければなりません。

初めの御言葉から、一つだけはっきりしていることは、祈りが答えられたという喜びこそが、すなわち神の心と一致するという喜びこそ、何ものにも変えがたい喜びであるということです。お祈り致します。


Message by Hiroko Saoshiro, pastor of Nakameguro IGM Church

Compiled by K.Otsuka/February 5,2006